第二章 4
「――はい、おはようございます。今日はいかがされましたか?」
村役場の窓口に座るメガネの男性職員が、九郎に淡々と声をかけてきた――。
酒場を出た九郎は、同じ広場に面している村役場に駆け込んだ。
そして、生活相談課のよろず相談窓口に入り、
小さな肩をがっくりと落としながら、重い口調で語り始めた。
「……えっと、実はついさっき、ある人から魔法を教わったんですけど、銀貨二百枚という法外な授業料を請求されて困っているんですが……」
「ほうほう、なるほど。それはなかなかのボッタクリですね」
「やっぱそうですよね……」
九郎は長い息を吐き出した。
「それで、とりあえず、利息なしの分割払いということで話をつけてはきたんですが、魔法を教わる前に授業料の明示がなかったので、役場の方で何か救済措置を取ってもらえないかと思ってこちらに来たんですけど……」
「救済措置……? と、言いますと?」
「そうですね……。具体的な方法としては、あの銀髪悪魔の請求を錯誤無効にするとか、オレはちゃっかり魔法を覚えたままクーリングオフを指導するとか、自己破産の免責手続きで支払いだけを免除するとか、そういう、オレにとって一方的に有利な対策を講じてもらえると、めっちゃありがたいんですが……」
「無理ですね」
メガネの職員は一瞬で言い切った。
「あなたが口にした言葉の意味はよく分かりませんでしたが、一度交わした契約を無効にしたいというお話でしたら、相手の方とよく話し合うことをお勧めします。役場は原則として、民事紛争には不介入の立場ですから」
「デスヨネー……」
ばっさり言われて、九郎は突っ立ったまま意識が飛びかけた。
すると男性職員が、一枚の紙を差し出してきた。
「ですがまあ、お金がないというご相談はよくあることなので、そういう方には村の住民からの求人依頼を優先的に紹介しております」
「はい? 求人……?」
「はい。今朝はまだ八時前で誰も相談に来ておりませんので、今なら条件のよいお仕事がいくつかあります。これはその中でも報酬がよいものですが、いかがでしょうか?」
「はあ、お仕事ですか……」
気のない声を漏らしながら、九郎は紙を手に取り目を落とす。
(……うーむ、求人依頼の紹介ってことは、つまりはバイトの仲介か。まあ、見知らぬ星で右も左も分からないとは言っても、時間が経てば腹は減るし、生きていくには金がいる。だったらたとえバイトでも、働きながらこの世界の情報を集めるのが、一番効率的かも知れないな……)
九郎は深呼吸して思考を切り替え、求人依頼を読み始めた。
「……えー、なになに。場所はジンガの村、南東のじゃがいも畑。仕事は午前中から夕暮れまで、じゃがいも掘りの手伝い。報酬は銀貨十五枚か――。……えっと、すいません、メガネさん」
「はい、何でしょうか」
「基本的な質問なんですけど、銀貨一枚って、どのくらいの価値があるんですか?」
「え? 銀貨の価値ですか? それはまた、ずいぶんと珍しい質問ですね」
メガネの職員は首をひねった。
「うーん、そうですねぇ……。銀貨一枚で銅貨十枚に両替できるのですが、具体的に言うと、お夕飯が一回食べられる程度、というところでしょうか」
「晩飯一回分ですか」
「ええ、そんな感じです。酒場の定食が銀貨一枚ほどですが、私ならそれでお腹いっぱいになりますから」
「なるほど……」
(ふむふむ、そうきたか。この村は見たところ、かなりの田舎だ。こんな田舎の晩飯一回分は、おそらく五〇〇円ってとこだろう。そうすると、銀貨十五枚は七五〇〇円ってことか……。うん、田舎にしてはそれほど悪くない給料だ。一日で十五枚なら、食費を考慮しても、二十日ほどで魔法の授業料をサーネさんに支払うことができる。まあ、実際は宿代も必要になるから、その倍の日数はかかると思うが、何もしないよりは百倍もマシだな……。よし、これに決めたっ!)
九郎はすぐさま目に力をこめて、男性職員に顔を向けた。
「分かりました。それじゃあ、メガネさん。オレ、この仕事に行ってきます」
「そうですか。それでは、紙の裏に地図が描いてありますので、じゃがいも畑で依頼主と会ってから仕事に取り掛かってください。それと、おそらく大丈夫だとは思いますが、最近はアルバカンの人たちが村に出入りしていますので、一応、心がけておいてください」
「え? 心がける?」
言われてふと、首をかしげた。
「それって、どういう意味ですか?」
「えー、それはですね……」
メガネの職員はわずかに顔を曇らせた。
「まあ、はっきり言えば、身の安全に気をつけてくださいということです。ほら、つい先日、アルバカンの王都が原因不明の爆発を起こして、一晩で消滅したじゃないですか。それで不安になったアルバカンの人たちが、別の国に大移動を始めたんです」
「はあ、爆発ですか……」
「ええ。それでですね、この村を通過して北に向かう人はそれほど多くはありませんが、アルバカンの人には、盗みや暴力を振るう不届き者がとても多いのです。特にあなたみたいなきれいな女の子は狙われやすいので、くれぐれもじゅうぶんに注意してください」
「き……きれいな女の子……」
(やばい、完全に忘れてた……。今のオレって、見た目だけは千年に一度の美少女だったんだ……)
九郎は自分の容姿を思い出したとたん、
口から魂が抜けていきそうな感覚に襲われた。
「まあ、村の自警団も見回りを強化していますので、今のところ、大きな問題は発生していません。ですが、しばらくの間は、なるべく一人で行動しないことをお勧めします」
「……そうですか。分かりました……。これからは、近づいてくる男は全員、全力で撲殺する覚悟で生きていくことにします……。ご忠告、どうもありがとうございました……」
九郎は半分白目を剥きながら、ふらふらと役場を出た。
そしてそのまま呆然と、じゃがいも畑に足を向けた。
*** *** ***
「――えっと、じゃがいも畑は、この辺りか」
頑丈な木組みの柵に手をつきながら、九郎は周囲を見渡した――。
ジンガの村は、中央広場の東西南北に幅の広い道が伸びていた。
村役場を出た九郎は、いったん南に足を向けて、それから東の小道に入る。
そして延々と続く緩やかな丘をひたすら登ると、
木のフェンスで区切られた、広大なじゃがいも畑が見えてきた。
「おお、何だここ。めちゃめちゃ広いな。これ全部、じゃがいも畑か。たしかにこの広さだと、人手がいくらあっても足りないな。……で、地図だとこの辺りに依頼主がいるはずなんだが……おっと、あれか」
目を凝らすと、左の方向に何かが見えた。
数百メートル先のフェンスの切れ目。
そこが畑への入口になっていて、大勢の人が集まっている。
「あそこがじゃがいも畑の入口か。どうやら作業はまだ始まっていないみたいだが、ちょっと急いだ方がいいな。遅刻して、報酬を減らされたらシャレにならん」
九郎はとっさに駆け出し、手を振って声を張り上げた。
「――おぉーいっ! すいませぇーんっ!」
「おおーっ! どうしたぁーっ!」
中年の男性が、芋掘り用の巨大なフォークを地面に突き刺し、手を振ってきた。
「役場からの紹介でぇーすっ! 作業の手伝いに来ましたぁーっ!」
「そうかぁーっ! そいつはごくろうさぁーんっ! 作業はまだだから、そんなに慌てなくていいぞぉーっ!」
「はぁーいっ!」
その言葉にほっと息を吐き、九郎は走る速度を落として近づいていく。
遠くに見える三十人ほどの男女は、のんきに言葉を交わしている。
しかし九郎が近づくにつれ、急にざわざわとどよめき出した。
「――ああ、よかったぁ。どうやら間に合ったみたいですね」
九郎は声をかけてくれた男の前で足を止め、にこやかに微笑んだ。
そのとたん、中年男性はぎょっとした。
さらに顔を強張らせながら、地面に片膝をついてこうべを垂れた。
「……あれ?」
九郎はぱちくりとまばたきをした。
直後、その場にいた全員が、一斉にひざまずいて頭を下げた。
「……うん? あれあれ? ナニコレ? デジャヴュ?」
一瞬で静まり返ったじゃがいも畑の入口で、九郎は呆然と首をかしげた。
次の瞬間、はっと気づいて服を見下ろし、愕然と両目を見開いた。
(うおおおおおおぉーっ! やっべぇーっ! そうだったぁーっ! 大賢者の服を着たままだったーっ!)
「ちょちょちょっ! ちょーっと待ったぁーっ!」
九郎は慌てて両手を振って声を張り上げた。
「すすす、すいませんっ! 誤解ですっ! こんな服を着てるけど、オレは大賢者じゃないんですっ!」
言ったとたん、農夫たちはわずかにざわついた。
「これはなんと言うか、着るものがなかったから、大賢者様に貸してもらっただけなんです! だから、そんな大げさに膝なんかつかないでください!」
九郎は必死に声を飛ばした。
しかし、頭を下げている村人たちは、誰一人として立ち上がらない。
ちらり、ちらりとお互いに無言のアイコンタクトを取っているが、
その場でひたすら固まっている。
(むぅ、これはいかん……。どうやら大賢者への崇拝は、オレの想像をはるかに超えているようだ……。ならばここは、攻め方を変えるしかないな……)
「――えっと、すいません」
九郎は心を落ち着けて、今度は静かな声でゆっくりと話しかけた。
「オレは本当に、大賢者とは何の関係もないんです。ただ、農作業の手伝いをして、報酬をもらいたいだけなんです。今はちょっと事情があって、頼れる人が誰もいないんです。それでこの服を借りているんですけど、お金を稼いだら普通の服をすぐに買います。だからどうか、オレにも作業を手伝わせてください。お願いします」
言って、体の前で手をそろえ、腰を曲げて頭を下げる。
そして何人かが同情的な眼差しになったのを盗み見て、
密かにニヤリと顔を歪めた。
(……いよーっし、これで完璧だ。十六歳の可憐で可愛らしい女の子が、働かせてほしいと一生懸命にお願いして頭を下げたんだ。これでノーと言えるような人間なんかいるはずねーからな。ふっふっふ、美少女フェイスもこういう時は役に立つじゃねーか。うえっへっへっへっへっへ――おっと)
不意に、声をかけてくれた中年男性が立ち上がった。
九郎は頭を下げたまま、慌てて表情を引き締める。
(よーし、来た来た。カモがネギでしょっつる鍋だ。このままあと二、三歩近づいたら顔を上げてやろうじゃないか。そしたらきっと、このおっさんはこう言うはずだ――。
『話はよく分かったよ、お嬢さん。勝手に変な勘違いをして悪かったな。こっちも人手はいくらあっても足りないから、手伝ってくれると助かるよ。それと、寝床が必要なら、今夜はうちに泊まっていくがいい。俺のところにもあんたと同じぐらいの娘がいるから、何も心配しなくていいからさ』
――って声をかけてくるに決まってる。ふふん。そしてオレはそのままおっさんの家に住み着き、農夫たちを手玉に取って、じゃがいも掘りのプロになる。さらにポテチを作って世界中に売りさばき、巨万の富を手に入れるんだ。ふっふっふ。アグリビジネスはどんな時代でも鉄板だからな。夢が無限に広がるってもんじゃねーか。うえっへっへっへっへっへ)
「――話はよく分かったよ、お嬢さん」
(お、キタキタキターっ!)
男が声をかけてきたので、九郎は目を輝かせながら顔を上げた。
「……だけどごめんな。やっぱ俺たち、大賢者様がご自分のお召し物をお貸しになったお嬢さんに、芋掘りなんか頼めないんだわ。いやー、ほんと、ごめんなー。こんなところまで来てもらって悪かったけど、まあ、そういうことだから」
男は申し訳なさそうに頭をかいた。
そしてすぐに背中を向けて、じゃがいも畑に入っていく。
「…………え?」
九郎は腰を曲げたままの格好で呆然と固まった。
すると他の村人たちも、次々に立ち上がる。
そしてやはり、九郎と目を合わさずに、そそくさと去っていく。
九郎はしばらくの間立ち尽くした。
それからゆっくりと振り返り、元来た道へと足を向ける。
そしてすぐに、歯を食いしばりながら駆け出した。