第九章 7
「――どうやら、図書神殿の攻略に成功したようですね」
神殿の周囲に広がる森の中の一本の木が、静かな声で呟いた――。
直後、木の形がゆらりと揺れて、人の姿に変化した。
それは黒いローブをまとったシショビッチだった。
シショビッチは、目の前を走り抜けていった四人の後ろ姿を眺めながら、
口元を邪悪に歪めてニヤリと嗤う。
「先ほどまでの破壊音。そして、布の包みを大事そうに抱えて走るあの姿――。まさかたったの四人で、しかもほんの二時間ほどで目的を達成するとは思いもしませんでした。頭の悪い小娘にしては、なかなかやるではありませんか」
「――シショビッチ様」
不意に隣の木も、黒ローブ姿の男になって言葉を発した。
「報告です。捜索隊三百名、突入の準備が整いました」
「よろしい。それでは全員を、神殿前の広場に集めなさい」
シショビッチは淡々と命じ、黒い広場に足を向ける。
同時に周囲の木々も続々と黒ローブ姿の男女に戻り、森の中へと散っていく。
そしてシショビッチが広場に到着したとたん、
周囲の森から無数の黒ローブが姿を現し、神殿の前に整列した。
「――お聞きなさい」
神殿正面のアーチを背にして、シショビッチが凛とした声で言い放つ。
「この図書神殿は、たったいま攻略されました。よって、我々はただちに神殿内部の捜索に取り掛かります。目的はただ一つ。未発見の魔書の一冊、『世界樹の魔書』です。図書の賢者ブクマンは、世界樹の魔書を所有していたとの記録が残されています。ならば必ず、この神殿に保管されているはずです。どれだけ時間がかかってもかまいません。しらみつぶしに捜索して、草の根を分けても見つけ出しなさい」
その命令に、黒ローブたちは一斉に頭を下げる。
「よろしい。それでは全員、ただちに神殿の外壁を登り、屋上から中央広間に入りなさい」
黒ローブたちは即座に左右に分かれて走り出す。
そして外壁にロープをかけて素早く登り、
広間の書棚を片っ端から念入りに調べ始める。
「……さて」
一人残ったシショビッチは、周囲の森に目を向ける。
「少しばかり面倒ですが、周囲に幻影の魔法をかけておきましょう。邪魔が入るともっと面倒ですからね」
言って、魔法の指輪をはめた両手を前に突き出す。
シショビッチは広場を囲む用水路と、森の境い目に意識を集中。
すると、左右の中指にはめた土色の指輪が鈍い光を放ち始める。
「――お聞きなさい。土より出でし、火と水よ。我が意の下に集いて揺らめき、光を惑わす壁とならん。――オーロ・ラーナン・メイジュ……えっ!?」
その時突然、空に轟音が響き渡った。
シショビッチは魔言を中断してとっさに振り向く。
すると、とてつもない破壊音が屋上の方から次々に降り注いでくる。
「なっ! 何ですかこの音は! この神殿はあの小娘が攻略したはずです!」
シショビッチは屋上から垂れ下がっているロープに駆け出した。
瞬間――正面入口の奥で何かが動いた。
慌てて足を止めて目を凝らす。
すると通路の奥、中央広間の分厚いドアが勢いよく開き、
大勢の黒ローブたちが飛び出してきた。
しかもその背後では、背丈が人間の五倍以上もある巨人が暴れまくっている。
「ばっ! 馬鹿なっ! あれはギガントの巨人兵! あれはあの小娘が倒したはず!」
圧倒的な破壊の権化を見たとたん、シショビッチの目に恐怖が走った。
巨体に似合わぬ素早い動きでドアを抜け出た灰色の巨人は、
手近な黒ローブたちを次々に殴り潰していく。
さらに、手あたり次第にわしづかみにして握り潰し、床に叩きつけて踏み潰す。
するとその時、天井から逆さまに生えている木の幹から、
何かがボロボロと剥がれ落ちてうごめき出した。
それは無数の死体だった。
頭に小さな木が生えた屍どもは、
獲物を狙う獣のように四つ足で素早く走り出す。
そして巨人の攻撃を逃れた黒ローブたちに襲いかかり、
片っ端から噛み殺していく。
「ど……どうして!? これはいったいどういうことっ!? あの小娘の時には動かなかった寄生樹の死体どもが、どうして今になって動き出すのっ!?」
シショビッチの顔面に冷たい汗が噴き出した。
中央広間から逃げ出した黒ローブたちは、
死に物狂いでシショビッチの方に駆けてくる。
その背中を、鎧の巨人が鉄拳を振るいながら追いかける。
無数の死体も黒ローブたちに追いすがり、
押し倒し、噛みつき、食い千切る。
さらに通路の脇の二階と三階からも大量の死体が姿を現した。
獣のような屍どもは次々に宙を舞い、
通路を走る黒ローブたちに続々と降り注いで押し潰す。
「ど……ど……どういうこと……? どうして……どうして中の音が聞こえないの……?」
そのことに気づいたとたん、シショビッチの全身が総毛立った。
黒ローブたちの多くはシショビッチの目の前まで逃げてきていた。
しかし、その全員が正面アーチの奥で足踏みしている。
誰もが必死の形相で口を激しく動かし、こぶしを前に突き出しているのに、
シショビッチには何の音も聞こえない。
そして誰一人として一歩も外に出てこない。
「こ……これはまさか、魔法の障壁……?」
シショビッチはふと気づき、足下の小石を拾って神殿の中に投げ込んだ。
小石は黒ローブの一人に当たって跳ね返り、
さらに入口の見えない壁に当たって神殿の中に跳ね返った。
「や……やはり、魔法障壁……。しかし……どうして……どうしてあの小娘は無事だったのに、我々にだけこんな――はっ!」
不意にすさまじい悲鳴が頭上で響いた。
反射的に顔を上げる。
すると神殿の屋上から、黒ローブたちの死体が次々に降ってきた。
「ひっ……ひぃぃ……」
シショビッチは慌てて走って広場に逃げた。
そしておそるおそる屋上に目を向ける。
そこには二体の巨人の姿があった。
巨人たちは赤銅色の小石を水しぶきのように蹴散らしながら駆け回り、
逃げ惑う黒ローブたちをつかんでは握り潰し、次々に放り投げる。
さっきまでシショビッチが立っていた場所に血の雨が降り注いだ。
まさに屍山血河の地獄絵図。
赤い雨はすぐに血の帯となり、広場まで流れ出す。
ふと気づけば、正面アーチで足踏みしていた黒ローブたちも、
屍の波に飲み込まれて消えていた。
目に映るのは、動く死体と動かない死体。
出てきたものは無数の血の筋。
神殿の入口は、血の池と化していた。
「こ……これが……図書神殿の、真の姿……」
シショビッチは、足下まで伸びてきた赤い筋を慌てて避けた。
そしてそのまま森に向かってふらふらと足を動かし、
一度も振り返ることなく走り去った。