第八章 5
「――へぇ、焼肉酒場なんてあるのか」
とある酒場の看板を見て、九郎は軽く驚きながらうなずいた――。
冷たい風に追われて外壁を降りた九郎は、そのまま繁華街に足を向けた。
そして喧噪に誘われて大通りに出ると、
宵の口の明るい街はハロウィンを祝う人たちであふれ返り、
何台もの馬車がゆっくりと往来していた。
カップルどもが、全員くたばりますように――。
九郎は星に願いを捧げながら、人混みを縫って進んでいく。
すると不意に、どこからか香ばしい匂いが漂ってきた。
ふと足を止めて横を見ると、レンガ造りの大きな酒場が目に入る。
そのまま匂いに誘われて近づくと、洒落た鉄の看板が軒先で待っていた。
その文字を読んだとたん、九郎は感心してわずかにうなった。
「ほほう。焼肉酒場ってことは、焼肉レストランみたいなもんだよな。中世のヨーロッパにはレストランがなかったって話だけど、ファンタジーの世界はさすがに一味違うねぇ。ぃよっし。オレの腹は、今夜はここだと言っている。いざ、勝負っ」
肩を回して気合いを発し、九郎は勢い込んで店のドアを押し開けた。
とたんに薄いスモークと喧噪が飛び出してきた。
(うほっ。いいねぇいいねぇ。焼肉っぽい感じがするじゃねーか)
九郎は軽い足取りで中に入り、店内を見渡しながらゆっくり歩く。
足下は頑丈な木の床で、見上げれば梁が剥き出しの高い天井。
適当に並ぶ重厚な木のテーブルに、簡素な丸椅子。
無数のテーブル席を囲む客たちはみな、木の皿に盛られた焼肉をつつき、
楽しそうにおしゃべりしながらワインやビールを飲んでいる。
奥を見ると、厨房から漏れ出す薄い煙が、天井の小窓を抜けて夜に出ていく。
九郎は柱のそばのテーブル席に腰を下ろし、焼肉とサラダを注文。
そしてすぐに出てきた薄切り肉を一口食べたとたん、
思わず「ほう」と息を漏らした。
(……なるほど、こうきたか。これはいわゆるケバブだな。味付けした大量の薄切り肉を、グルグルと巻いて巨大なブロック肉を作る。それを回転させながらじっくりと火を通し、焼けた部分からそぎ落として食べる、あぶり焼き肉だ。トルコで一般的なのはラム、つまり羊肉だけど、これはいったい何の肉だ……?)
九郎はわずかに首をかしげながら、
黒いタレに焼肉をつけてパクリと口に放り込む。
その瞬間、今度は目を見開いた。
(うっわぁ、何これ? やばい。マジで美味い。というか、美味すぎる。何だこれ? 塩とハーブの下味がついた焼肉に、ピリ辛のタレが絶妙すぎる。しかも炭火の香ばしい匂いが、唾液の分泌をビンビンに加速しやがる。うーん、こいつはやばい。一人前でもけっこうな量があるが、これなら三皿ぐらい軽くぺろりと食えそうだ……)
「――ちょっと失礼」
焼肉に舌鼓を打っている九郎に、突然誰かが声をかけてきた。
「……うん?」
反射的に顔を上げると、テーブルの横に誰かが立っている。
黒いローブを着た若い女性だ。
女は澄まし顔で九郎を見下ろしながら、向かいの席を指でさす。
「相席しても、よろしいですか」
「えっ? 相席?」
九郎はきょとんとしながら周囲を見た。
広い店内はかなり混み合っているが、
ざっと見ても三つか四つはテーブルが空いている。
「まあ、オレは別にいいけど」
「どうも」
九郎が首をひねりながら向かいの席に手を向けると、
若い女はフードも取らずにさっさと座る。
「だけどさ、席なら他にも空いているのに、何でわざわざ相席するんだ?」
「はあ……」
九郎が何気なく尋ねたとたん、女は顔を背けて大きな息を吐き出した。
「席が空いていることぐらい、店の中を見れば誰にだって分かります。それでも相席を希望するのは、話があるという意味に決まっているでしょう。そんなことも分からないから、あなたは頭の悪い小娘だと言われるのです」
「はあ? 何だそりゃ? 何で初対面の相手にそんなことを言われなくちゃいけないんだよ」
「まったく……。わざわざ会いに来たのは、間違いだったかも知れませんね」
若い女性は呆れ返った声をこぼす。
そして九郎をまっすぐ見ながら、自分の顔に指を向ける。
「よく見てください。私です」
「私って――えっ!? えええええええぇっ!?」
改めて見た直後、九郎は驚きの声を上げた。
フードの下の若い顔がぐにゃりと揺れて、一瞬で中年女性の顔になっていた。
「あ……あんた! シショビッチさんじゃねーか!」
「そんなに大きな声で名前を言わないでください。あなたはいちいち驚きすぎです。せっかく顔を変えてきたのに、意味がなくなってしまうではないですか」
シショビッチはピシャリと言った。
そしてすぐに若い顔に戻って九郎をにらむ。
「いや、驚くなって言う方が無理だろ。ハタチぐらいの美人が、いきなり四十代のオバサンになったんだぜ。そんなの誰だってびびるだろ」
「あなたはいったい何を言っているのですか。逆です。四十代の美人が、二十代の美人に戻ったのです。物事は正確に表現しなさい。だからあなたは頭の悪い小娘と言われるのです」
「おいこらオバハン、ちょっと待てや。若いあんたはたしかに美人だが、四十代はかなりひいき目に見ても微妙じゃねーか。いったいどこからそんな自信が湧いてくるんだよ」
「二十代が美人なら、いくつになっても美人に決まっているでしょう。まったく。あなたは本当に物事の道理が分からない小娘ですね」
「いやいや、あんたの方こそもう少し、残酷な時の流れのテーゼを知りやがれ。そして自分のビフォーアフターを直視しろ」
言いながら、九郎は赤茶色の小物を取り出す。
その瞬間、シショビッチは片手を向けて口を開いた。
「いえ、鏡なんか不要です。自分のことは自分が一番よく理解しています」
「ほう、そうかい。それじゃあこいつは不要ってわけか」
九郎は軽く肩をすくめ、手のひらサイズの革製品をテーブルの脇に置く。
「だったら、まあいい。それより、その顔はどうやって変身してるんだ?」
「これです」
シショビッチはテーブルに右手をのせた。
見ると、中指に土色の指輪がはまっている。
「これは私の魔法『メイジュリン』で作った幻影の指輪です。これを使うと、ごく短い時間だけ、外見と声を好きなように変えることができるのです」
「へぇ~、そいつはすごい。それって誰でも使えるのか?」
「当然です。わざわざ指輪を作るということは、本人以外が使用できるようにするために決まっています。そんなことも分からないから――」
「あー、はいはい。分かった分かった。だからオレは頭の悪い小娘って言うんだろ」
九郎は軽く手を振り、シショビッチの言葉を遮った。
「だけどまあ、それでようやく分かったよ。あんたははその指輪を十三魔教のメンバーに渡して、図書館の職員に変身させていたんだな。だから職員が入れ替わっても、態度の悪さが続いていたのか」
「その努力も、あなたのせいで無意味になってしまいましたが」
シショビッチはじろりとにらみ、手を膝の上に戻して言葉を続ける。
「ですがまあ、過ぎたことを言っても始まりません」
「そうそう、たしかにそのとおり。それより、あんたも焼肉食うか? オレも初めて食ったけど、かなり美味いぞ」
「そうですか。では遠慮なく」
九郎が何気なく皿を差し出したとたん、
シショビッチは皿ごとつかんで手元に引き寄せ、もりもりと焼肉を食べ始めた。
「いや、皿ごとって意味じゃなかったんだけど……」
勢いよく咀嚼するシショビッチを見て、九郎は思わず苦笑い。
それから焼肉を三人分追加して、二人で黙々と食べ続けた。
「――いやぁ~、ほんっと美味かった。あんたもけっこう食ったな」
二人は結局、合わせて六人前の焼肉を平らげた。
九郎は湯気の立つハーブティーを一口飲んで、幸せそうに頬を緩める。
するとシショビッチはホットコーヒーを静かにすすり、九郎をにらんだ。
「当然です。昨日の昼以降、これが初めての食事です。主にあなたのせいで」
「あー、はいはい、分かった分かった。全部オレが悪かったよ。――で、あんたはわざわざオレとメシを食うために来たんじゃないんだろ?」
「当たり前です。私は一刻も早く、クエキ様復活の準備に取り掛からないといけません。あなたに会ってる暇なんて本当はないのです。ですが、一つ思い出したことがありましたので、わざわざこうして教えに来てあげたのです」
「思い出したこと?」
九郎は思わずテーブルに身を乗り出した。
「ええ。あなたが何を考えているのかは分かりませんが、釈放してくれたことには、一応感謝しています。ですから、その借りを返しに来ました。あなたは図書神殿を知っていますか?」
「図書神殿? いや、初耳だけど」
九郎がきょとんとまばたくと、シショビッチは鼻で笑った。
「まったく。最近の若い者はそんなことも知らないのですか。図書神殿とは、今からおよそ二百年ほど前に、図書の賢者ブクマンが建設した特殊な図書館です。そこには古今東西の貴重な文書が無数に保管されていて、歴史家や司書、魔法研究者といった、書物に興味を持つ者ならば一度は訪れてみたい聖地なのです」
「へぇ~、そんなにすごい図書館があるのか。そこまで有名な観光スポットなら、オレも一度は行っておいた方がいいかもな」
「あなたは本当に何を言っているのですか……」
のんきにハーブティーをすする九郎を見て、
シショビッチは呆れ果てた声を漏らす。
「まあ、知らないのであれば仕方がありません。図書神殿はあなたが考えているほど簡単に行ける場所ではないのです。ですが、それはひとまず置いておいて、重要なのはブクマンの仕事についてです」
「仕事?」
「そうです。ブクマンは図書の神と評されるほど、書物をとても大事に扱っていました。特に稀覯本の保管には、かなりの情熱を傾けていたそうです。その結果、半永久的に書物の劣化を防ぐ魔法や、盗難を防ぐ新たな魔法技術を開発したほどです。そしてその情熱は保管だけに限らず、古代書物の復元や編纂にも向けられました」
「ふーん」
九郎は軽く聞き流しながら、ハーブティーの湯気を吹く。
「まあ、そいつはたしかに図書の賢者って感じがするな。そういやあんたも本の修復をするって言ってたけど、つまりそのブクマンって賢者は、究極の司書ってわけか」
「まあ、その表現は、それほど的外れではありませんね」
シショビッチはコーヒーを一口飲んで、言葉を続ける。
「それで、ここからが話の核心です。古代書物の多くは紙やインクの劣化が激しく、ページが半分以上失われたものも少なくありません。そこでブクマンは、自身の手で文章の加筆作業を始めました。失われた文章やページに何が書かれていたのかを念入りに調べ上げ、本来あるべき本の姿に戻そうとしたのです。そのために、ブクマンは特別な魔道具を開発しました。それが『改ざんの石板』です」
「改ざんの石板?」
「ええ。貴重な古代書物の多くは、内容の書き換えを防ぐために魔法で文章を刻んだ魔法書です。そこでブクマンは、その魔法に割り込んで、文章を自由に変更できる石板を作りました。どんな魔法書であろうとその石板の上に置けば、内容を自在に書き換えることができるようになるのです。つまり、その石板を使えば、どんな魔法契約であろうと――」
「自由に書き換えることができるってわけかっ!?」
聞いたとたん、九郎はテーブルを叩いて声を張り上げた。
「そういうことです。その石板を使えば、魔法契約を書き換えられるのではないかという噂を最近耳にしました。そこで少し考えてみたところ、たしかに魔法書と魔法契約は根本的には同一のものです。理論上ではその石板で、あなたの魔法契約の文章を変更、もしくは削除することができるはずです」
「なんと……」
九郎はぽかんと口を開けて、椅子の背もたれに寄りかかった。
「そんな便利な魔道具があったのか……」
「ええ。本の修復作業をする司書にとっては夢の魔道具です。ですが、文章を自由に変更できるということは、本の内容をまったく別のものにすることも可能なので、諸刃の剣と言ってもいいでしょう」
「なるほどな……。だけど、オレが魔法契約について相談した魔法研究者は、そんな魔道具があるなんて一言も言わなかったんだけど」
「それはそうでしょう。魔法契約の解除を相談されて、魔法書の修復に使う魔道具を思いつく人なんてそうそういるはずがありません。司書の私ですら、その噂を思い出したのは釈放されてから数時間後でしたから」
「ああ、そう言われると、たしかにそうかもな……。魔法契約なんてアサイン法国に行けば解除できるんだから、わざわざそんな石板を使おうなんて思いつくはずがないか」
「そういうことです。ですが、喜ぶのはまだ早すぎます」
「え? そいつはどういう意味だ?」
シショビッチはカップを自分の斜め前に置き、テーブルの中央を指で叩いた。
「ここがイゼロンだとします。そして図書神殿があるのは――」
言いながら、指をカップにまっすぐ移動させる。
「イゼロンから南西方向の、馬車でおよそ二日の場所。天冥樹の地下二十八階にあるのです」
「て……天冥樹!?」
九郎は目を丸くしてシショビッチをまじまじと見た。
「天冥樹って、あの天冥樹のダンジョンか?」
「当たり前です。天冥樹が二本も三本もあるはずがないでしょう」
「で、でも、あそこってたしか、上下二十階ほどしか攻略されていないんじゃなかったか?」
「ええ、そのとおりです。しかも二百年前はほとんど未開のダンジョンです。にも関わらず、ブクマンはわざわざ地下二十八階まで潜って図書神殿を建てたのです」
「いやいやいやいや、ちょっと待って? ほんとちょっと待って? 何でそんな危険な場所に建てちゃうの? 誰も使えない図書館なんか存在意義ゼロじゃねーか」
「ですから、あそこは図書館ではなく図書神殿だと言っているのです。ブクマンは貴重な本を完璧に守るために、誰も入れないような場所に本を保管し、誰も入れないように強力な魔法を張り巡らせたのです。そのため、ここ二百年で図書神殿に侵入して、生きて帰った者は一人もいません」
「そ・い・つ・は・アホかぁぁーっっ!」
九郎は思わず拳でテーブルを叩きつけた。
「何なんだ、そのアホ賢者はっ! 誰も読まなかったら本の意味がねーだろうがぁっ!」
「それは違います」
シショビッチは取り乱した九郎を見つめ、真面目な顔で言い切った。
「命がけで本を求める者のみが、貴重な本を手にする資格があるのです。有象無象の一般人ごときには、本を読む資格なんてないのです。文章の表面を読んだだけで、知識を手に入れたと勘違いする愚民どもの何と多いことか。そんな、手あかをつけるだけのゴミどもから、真に価値のある書物を遠ざけたブクマンは、正に図書の神様なのです」
「ああ……そういやあんたも、そういうタイプだったよな……」
九郎はとたんに脱力して、中年女性をじっとりとした目つきで見た。
シショビッチは誇らしげに胸を張ってさらに言う。
「当然です。ですので、あなたが図書神殿に向かっても、生きて戻れる可能性は限りなくゼロに近いでしょう。ですが、それでも行くと言うのであれば、神殿中央の大広間を目指しなさい」
「大広間?」
「ええ。そこの祭壇に改ざんの石板が置いてあるそうです」
「へぇ、そうなんだ。だけど、ずいぶん詳しいな。生きて帰ったヤツが一人もいないのに、どうしてそんなことが分かるんだ?」
「そんなことは、ブクマンの著作『図書神殿・オブ・ザ・デッド・フィーチャリング・鉄拳パンチ』に詳しく書いてあります」
「オブ・ザ・デッドってあんた……」
「あれは素晴らしい本です。図書館の司書であれば、年に一度は必ず読む名作です」
「ぬぅ……どんな内容だか知らないが、マジで一人も生きて帰す気がなさそうなタイトルだな……」
九郎は一つ息を吐き出し、ハーブティーを飲み干した。
「だけどまあ、そいつはかなり有力な情報だ。今は正直、わらにもすがりたい気分だったからな。わざわざ会いに来てくれて助かったよ。でも、オレがこの店にいるってよく分かったな」
「当然です。その品のない桃色頭は目立ち過ぎです。その気になれば、探すのはそれほど難しくはありません」
「ふーん、なるほどねぇ。それじゃあついでに、その変身指輪を一つもらえないかな」
「調子に乗らないでください」
シショビッチはピシャリと断り、九郎をじっとりとにらみつける。
「これはそう簡単に作れるものではありません。しかも、盗賊ギルドから定期的に注文が入っているので、五年先まで予約済みです」
「そりゃまあ、そうか。変身指輪なんて、盗賊ならのどから手が出るほどほしいアイテムだからな。つまりあんたは、その指輪を売ったり貸したりすることで、十三魔教の上級幹部まで昇り詰めたってわけだな」
「あなたには関係のない話です」
シショビッチはそっぽを向いて、コーヒーを静かにすする。
「たしかに余計な話だったな」
九郎は金貨を一枚テーブルに置いて、席を立つ。
そして革の手鏡を右手に握り、シショビッチに目を向ける。
「それじゃあオレは、魔法研究者に会って今の話の裏を取るよ。その金貨はここのメシ代だ。お釣りは取っていてくれ。それじゃ、貴重な情報をありがとな」
「そうですか。それではせいぜい、無駄にあがいて死んでください」
シショビッチは上目づかいで九郎を見ながら、淡々と言い放つ。
「まあ、やるだけやってみるさ」
言って、九郎はにこりと微笑んだ。
そしてすぐに背中を向けて、出口のドアに足を向ける。
その背中を見送りながら、シショビッチは口元をニヤリと歪めた。
同時に九郎も、手鏡に映る邪悪な笑みを盗み見て、
ニヤリと笑いながら店を出た。