第二章 3
「――邪魔するよ」
いきなりひざまずいてくる村人たちから逃げた九郎は、
おそるおそる村の酒場に足を踏み入れた。
一目で分かる年季の入った店内はそこそこ広く、
光が射し込む明るい窓際のテーブル席には、若い女性が座っていた。
白いローブを着た、長い黒髪の少女だ。
一人きりの客は黙々と、パンとスープを口に運んでいる。
(外から見えたけど、あれはやっぱり客だよな。ってことは、ここは営業中ってわけだ)
九郎は内心ドキドキしながら、店の奥のカウンター席に腰を下ろした。
そして、カウンターの中に立つマスターらしき男を見上げながら銀貨を置いて、
口を開く。
「えっと、こいつで食事代にはなるのかな?」
「…………」
ダークブラウンのコックコートを着た男は、
銀貨を見てから九郎を見た。
そして無言のまま、怪訝そうに眉を寄せる。
こげ茶色の短い髪を逆立てた、背の高い中年男性だ。
(……うーん、やばい。やっぱり怪しまれてるな、こりゃ)
九郎は軽く手を振りながら、慌てて言葉を追加する。
「えっと、実はオレ、遠いところから来たばかりで、この辺のことについては何も知らないんだ。それで、この銀貨も三十枚ほど持ってるけど、金として使えるのかどうかも分からなくてさ、だから、もしもこれが金じゃないのなら教えてくれないかな? そしたらすぐに出ていくから――って、あ、そうか。もしかして、言葉が通じないのかな……?」
言って、上目づかいで返事を待つ。
するとマスターは銀貨をつまみ、
コックコートのポケットに突っ込んでぶっきらぼうに口を開く。
「……いや、言葉は通じている。それで、注文は」
(ああ、よかったぁ。見た目はバリバリ白人なのに、日本語バッチリ通じるじゃん)
「それじゃあ、えっと、朝飯を一人前頼めるかな。量はあまり多くなくていいから。それと、水を一杯と、食後にホットコーヒーかお茶が欲しいな。あ、あと――」
言いながらカバンを開けて、中にいる子猫をマスターに見せる。
「残飯でも何でもいいから、こいつが食えそうなものがあったら少し分けてほしいんだけど。……って、やっぱり、猫の持ち込みはまずかったかな?」
マスターは子猫を見たとたん、ぎょろりと目を剥いた。
そして低い声でぼそりと言う。
「……青い毛の猫は死ぬほど大嫌いだが、別にかまわん」
「あ、そ、そうっすか。それじゃ、よろしくお願いしまーす……」
(かまわないのなら、にらむなよ……)
九郎はカバンを開けたまま、隣の座席に静かに置いた。
それから小さなため息を一つ漏らし、ふと後ろを振り返る。
(それにしても、この店はまた、ずいぶんといい味出してんなぁ。マジでウェスタンの世界そのまんまじゃねーか)
天井の高い店内は、木と鉄と、ランプと酒瓶の茶色い世界だった。
外の広場に面した壁にはガラス窓がいくつか並び、
太陽の光を取り入れて爽やかな雰囲気を出している。
その一方で、カウンターの近くはやや薄暗く、
無駄に頑丈そうな木製のテーブルや椅子たちが、
無骨な雰囲気を醸し出している。
奥の壁際には二階に続く階段があるが、
上が宿屋になっているのか住居なのかは分からない。
――と思っていたら、不意に二階から女性が降りてきた。
エンジ色のエプロンドレスを着た、銀色の髪の若い女性だ。
(うおっ! すげぇ。銀髪なんて生で見るのは初めてだぜ。しかもかなりの美人だけど、ここの看板娘ってヤツか?)
視線を感じたのか、
ウェイトレスらしい女性もカウンターの方に顔を向ける。
そして九郎を見たとたん、足を止めてきょとんとまばたきをした。
「あら? あなたは、えっと……?」
「……こいつはただの客だ。早く水を出してやれ」
マスターが料理を作りながら、ぶっきらぼうに声をかけた。
「え? お客さん? あら、そうなの?」
銀髪の女性は九郎をじろじろ見ながらカウンターに入り、
木のコップに水を注いで運んできた。
「あ、どうも」
九郎は水を一息に飲み干し、手の甲で口元を拭う。
すると、ウェイトレスがそばに立ったまま見下ろしていた。
ウェイトレスは赤い瞳に困惑の色をにじませながら、
九郎の姿をじっくりと観察している。
「……あの、えっと、オレの格好、どこか変かな?」
「そりゃあもう、一から十までおかしすぎて、何をどう言えばいいか分からないくらい、あなたは変よ」
「やっぱそうかぁ」
ずばり言われて、九郎はがっくりと自分の体を見下ろした。
「……なあ、お姉さん。よかったら、オレのどこがおかしいのか教えてもらえないかな? なぜかいきなり通行人に拝まれて困ってるんだけど……」
「え? 何それ? あなたまさか、知らないの?」
ウェイトレスはすぐさまカウンター席に腰を下ろし、真正面から九郎を見た。
「とりあえず確認なんだけど、あなたは大賢者なんでしょ?」
「はあ? 大賢者? オレが? いやいやまさか。ファンタジーの世界じゃあるまいし、そんな肩書をリアルで聞いたのは初めてなんだが」
「あら、なーに? その、はんたずぃって?」
「いやいや、はんたずぃ、じゃなくて、ファンタジーな。おとぎ話の世界ってことだ。それより、その大賢者って何なんだ? やっぱり偉い人なのか?」
「そりゃあもちろん偉いわよ。魔法使いの最高峰だからね。特にこのジンガの村は大賢者マータに守られているから、村人にとっては神様みたいな存在よ。あなたはそのマータと同じ大賢者の魔法衣装を着ているから、みんなに拝まれちゃったのよ」
「なるほど……。問題は、この青い服だったわけか……」
一つ呟き、九郎はカウンターに肘をついて頭を抱えた。
(……何てこったい。この服が大賢者のものっていうなら、あの婆さんがそのマータってことか。そしてオレの体を作ったあの青い光はモノホンの魔法で、もしかしたらあの魔法のせいで、婆さんは鉄の塊になっちまったかも知れないってわけか……。
うーむ、こいつはやばい……。
あの婆さんを神と崇める村人たちにこんな不祥事がバレたりしたら、オレは間違いなくボコられて埋められる。どうする……? いったいどうすればいい……? どっかのアニメの主人公みたいに、山奥の村に逃げ込んで、親切な婆さんにかくまってもらうか……? それとも特殊部隊を一人で殲滅したオッサンみたいに、襲ってくるヤツらを全員返り討ちにするべきか……? ああ、いかん。そもそもオレは不死身じゃないんだ。しかも今は十六歳の女子高生ボディだし、村人一人にさえ勝てる自信がまったくない……。うーん、まずい。こいつはまずいぞ……。よく考えたら、この状況って、かなり大ピンチじゃねーか……?)
「……ねえ、ちょっとあなた。どうしたの? 大丈夫?」
唐突に黙り込んだ九郎の肩を、
ウェイトレスが心配そうに軽く揺すった。
「あ、ああ、大丈夫だ。まだ慌てるような時間じゃないからな。それより――」
「……ほら、できたぞ」
不意にマスターが、カウンター越しに四つの器を出してきた。
木製のお椀に、黄色く炊き上げた米と、白いシチュー、緑のサラダ、
それに切り落としの赤い生肉が盛られている。
イエローライスとシチューからは温かそうな湯気が立ち、
サラダには色鮮やかなトマトが入っている。
九郎は子猫をカウンターの上にのせ、
生肉を勝手に食べさせながらウェイトレスに顔を向けた。
「えっと、それでお姉さん。オレも一つ確認したいんだけど、ここっていったいどこなんだ? ジンガの村っていうのは分かったけど、それはどの辺にあるんだ?」
「えっ? どの辺って聞かれてもちょっと困るんだけど、そうねぇ……とりあえず、バステラのアンラー・ブールで、アルバカンとサザランの中間から少し北東、って感じかな? 独立自治区のはじっこって言えば、少しは分かりやすいかしら?」
(な……何がなんだかまったく分からん……)
聞いた瞬間、九郎はごくりとつばを飲み込んだ。
「そ、それじゃあ、その、バステラっていうのは何のことだ? この辺の国の名前か?」
「えっ? 嘘でしょ? あなたまさか、からかっているの?」
「い、いや、からかってなんかいないって。マジで知らないんだ」
ウェイトレスはパチパチとまばたきしながら口を開く。
「知らない? えっと、ほんとに知らないの? バステラはこの星の名前で、バステラ教の最高神でしょ?」
「ちょちょちょ、ちょーっと待った」
九郎はとっさに手のひらをウェイトレスに向けて、胸を押さえた。
「今、この星って言ったよな? それって、この惑星って意味だよな? ってことはもしかして、念のために一応確認させていただきますけれども……この星には、日本もアメリカも、ヨーロッパもアフリカも、アマゾンもネトフリも、ネトゲもアニメもないって言うのか……?」
「え? ええ、そうね。この辺では、どれも聞いたことのない名前ばかりね。あ、でも、アニメって人なら、前にどこかで聞いたことがあるわよ」
「すんません……それは人名じゃないんですぅ……」
九郎は両手で顔を覆ってうつむいた。
そして低い声でぶつぶつと呟き始める。
「……まあ、でも、ほんとはアレなんですよ。あの婆さんが、オレの体を魔法で作るなんて言った時から薄々分かっていたんです。だってそうでしょう。あんないい年こいたババアがさ、『魔法』なんて単語を口にした時点でおかしいってことぐらい、さすがにいくら何でも気づきますよ。
しかも何あれ?
魔法陣から青い光がドバーっと出て、銀色の文字が宙に浮いて飛び回り、るんピカしたらほんとに体ができてるなんて、どう考えてもあり得ないっしょ。だいたいさあ、オレはスーパーイケメン細マッチョを全力でイメージしてたのに、それが何で、アニメのエンディングで歌って踊るJK美少女アイドルになってんだよ。しかも髪の毛が桃色とか、頭おかしいんじゃねぇか、あのクソババア。何で黒じゃなくて桃色なんだよ。
ピンク髪の女キャラなんか、ろくなヤツいねーじゃねーか。
たとえばほら、
ツンデレヒステリックな異世界の魔法使い美少女とか、
腹ぺこブラッディヒステリックなメガネさんとか、
腹黒い妹に存在感を完全に食われた押しかけプリンセスとか、
床に落ちたスナック菓子のカスを集めて吸っちゃうイカリングちゃんとか、
ハーレムハーレム言いながら独占欲が強い押しかけプリンセス二号様とか、
人見知りのわりに内心けっこうどす黒い妖精マイスターさんとか、
物理的にあり得ない胸デカ女子高生雀鬼とか、
すぐにデレてお外走っちゃう女子高生ちゃんとか、
性格美人のヒナなんとかさんとか、
性格美人のリズなんとかさんとか、
性格美人の最高な小学生ちゃんとか、
性格美人のプリンセス三号様とか、
ツノが折れた心優しい双子のお姉さんとか、
交わした約束をいつまでも忘れない心優しい魔法少女とか、
ツンツン頭の幻想キラーを優しく見守るちびっ子センセイとか、
姉様に溺愛されてる真面目で温厚なツインテールちゃんとか、
ビルから飛び降りて最強騎士をラッキーゲットしちゃう心優しい王女様とか、
サイドの髪だけが異常に長い心優しいウンディーネちゃんとか、
歌姫なのに宇宙戦艦の艦長もあっさりこなす無敵ポテンシャルの
心優しい新人類アイドルとか
……うーむ、よく考えると全員可愛いじゃねーか。
……まあ、話がほんのちょっとだけ逸れましたけど、とにかくそんな感じなんですよ、お姉さん。オレはね、あの婆さんの魔法を見た瞬間に、本当は全部分かっていたんです。ここはオレの知ってる星なんかじゃあないんだ。異なる物理法則が支配する別の惑星だってことをね……」
そう言って、九郎は口を閉じた。
店内には、マスターが野菜を切る音だけが静かに流れる。
ウェイトレスは困惑した顔で何かを言おうとしたが、
言葉がなかなか出てこない。
すると、九郎の小さな肩にのっていた長い桃色の髪がはらりとこぼれた。
ウェイトレスは桃色の髪を優しくかき上げながら、ゆっくりと口を開く。
「……えっと、あたしには正直、何のお話だったか全然分からなかったけど、とりあえず、あなたの桃色の髪はすごく素敵だと思うわよ」
「……すんません。実はオレ、こう見えて男なんです。だからほんと、そういうお世辞とか逆にドン引きするんで、マジでカンベンしてつかぁさい……」
「もう、何言ってんのよ。そんなに可愛い顔の男の子なんて、いるわけないじゃない」
「だけど、お姉さん。ちょっとだけ逆に考えてみてくださいよ。この世には、オッサンみたいな顔した女って、けっこういるじゃないですか……」
「うっ……そ……それはその……」
ウェイトレスは、心底困った表情を浮かべながら料理を指さした。
「そ、それよりもほら、シチューがもう冷めてるじゃない。あたしがいま温め直してあげるから、それでも食べて元気出して」
言って、湯気が消えたシチューとライスに片手をかざす。
すると白い手のひらの前に、小さな魔法陣が浮かび上がった。
「――えっ?」
九郎は黄色く光る魔法陣に目を奪われた。
「お姉さん……それってまさか、魔法ですか?」
「ええ、そうよ。これですぐに、温めてあげるわね」
ウェイトレスはぱちりとウインクして微笑んだ。
するとほんの十秒ほどで、シチューがコポコポと小さな泡を立てて温まり、
ライスと一緒に白い湯気を上げ始める。
「おおっ! なにこれっ! すげぇーっ! なんて便利な魔法なんだっ!」
九郎はたまらず感嘆の声を張り上げた。
ウェイトレスは魔法陣を消して、嬉しそうに目を細める。
「ふふ、お気に召したようで、あたしも嬉しいわ。まあ、こんなのは初歩的な魔法なんだけどね」
「へぇ~、これで初歩的な魔法なんだ。それじゃあもしかして、オレにも使えるのかな?」
目を輝かせた九郎を見て、
ウェイトレスはぱちくりとまばたいた。
「あら、あなたまさか、こんなつまらない魔法を覚えたいの?」
「えっ、これってけっこうすごい魔法じゃん。いつでもどこでも温かいメシが食えるなんて、最高だと思うけど」
「あらあら。あなた、珍しいことを言うわねぇ」
「いやいや、ほんと最高だって。メシがあったかいと、それだけで幸せだからな。だからさ、お姉さん。オレにその魔法が使えるかどうか分からないけど、よかったら教えてくれないか?」
「教えてって……あなたそれ、本気で言ってるの?」
「そりゃあ、もちろん。こういう決断ってのは、早いに越したことはないからな」
「――あっはぁっ! あっはははっ!」
九郎が真面目な顔でうなずいたとたん、
ウェイトレスは急に吹き出した。
さらにマスターに向かって楽しそうに話しかける。
「ねえ、ロベス! 今の聞いた? この子ったら、このあたしに魔法を教わりたいって言ったのよ! このあたしによ!」
「……俺は知らん。好きにしろ」
マスターはぶっきらぼうに言い捨てた。
そして無言のままブリキの水差しに水を注ぎ、ウェイトレスの前に置く。
「ええ、もちろん好きにさせてもらうわよぉ。こんな面白い子が舞い込んでくるなんて、久しぶりの朝営業も悪くないわねぇ」
ウェイトレスは水差しを手に取り、空のコップに水を注いで九郎を見つめる。
「さーて、それじゃあ、お嬢ちゃん。まずはあなたのお名前を教えてもらおうかしら」
「オレは九郎だ」
「クロウ? 女の子にしてはずいぶん変わったお名前ね。クロウ……クロウか。何だかどこかの神様みたいな名前だけど、まあ、いいわ。あたしはサーネ。それじゃあ、クロウ。この水の入ったコップを握ってちょうだい」
「握るって……こうか?」
言われたとおり、木のコップを右手で握る。
するとサーネも同じコップを軽く握った。
「いーい? 簡単に説明すると、魔法っていうのは原理を具現化する方法なの。たとえば、風が吹けば葉っぱが飛ぶし、火がつけば木が燃えるでしょ? そんな感じに、原因があって、結果があるわけ。だから、あたしが今からさっきの魔法を実際に使うから、それがどういう原理で発動しているのか、自分の手で感じてみて」
「なるほど。つまり、体で覚えろってことだな」
「そうそう、そういうこと。それじゃあ、始めるわよ。――アタターカ」
ウェイトレスはにこりと微笑み、魔言を唱えた。
同時に白い手とコップの間から黄色い光が漏れ始める。
さっきの魔法陣と同じ光だ。
「おおっ! なるほどっ! そうかっ! そういうことだったのかっ!」
九郎はコップ越しに魔法を感じ、目を見張った。
「あら、まさかもう分かったの?」
サーネはきょとんとまばたき、コップから手を離す。
「ああ、今のでだいたい理解した。たぶん、こういう感じだな。――アタターカ」
九郎はすぐさまコップを握り、意識を集中して魔言を唱える。
すると、手とコップの間から黄色い光があふれ出し、
中の水がコポコポと音を立てて沸騰し始めた。
「あらあら、すごーい!」
サーネは沸き立つ湯気を見ながら手を叩いた。
「この魔法をたった一回で理解するなんて、クロウってすごいのねぇ」
「いやいや、サーネさんの教え方がよかったんだよ」
ほめられて、九郎は嬉しそうに首を振る。
「百聞は一見に如かずって言うけど、実際に体験させてもらったおかげで、すぐに理解できたよ。要するに、これは分子振動の魔法だ。電子レンジのマイクロウェーブが、水分子を振動させて温めるのと同じ原理だ。原理を具現化するっていうのは、こういうことだったんだな」
「そうそう、そういうこと。その電子レンジってのは知らないけど、振動させるというのは大正解。料理を温めるっていうと、普通の人は炎の魔法を連想するんだけど、クロウはどうやら頭が柔らかいみたいね」
「いやいや、オレは別に大した人間じゃないよ。オレの国のアニメ好きな男子と腐女子なら、これぐらいきっとすぐにできるからな」
「あら、婦女子だなんて、クロウは丁寧な物言いをするのね」
「腐女子の称号は、ヒトによっては嫌がるかも知れないけどな」
「そんな女性は滅多にいないと思うけど、まあ、一つの価値観にすべての女性が当てはまるはずもないから、それもそうかもね。――さてと。それじゃあ、あとは、ゆっくり食事を楽しんでちょうだい」
「ああ、そうさせてもらうよ。丁寧に教えてくれてありがとな」
「あらあら。どういたしまして」
サーネは椅子から立ち上がり、嬉しそうにウインク一つ。
そしてすぐに窓際のテーブル席に足を運び、
さっきまで食事をしていた客の後片付けに取り掛かる。
「――ふう、ごちそうさまでした」
九郎は食後のホットコーヒーを飲み干して、両手を合わせて顔を上げた。
「マスター。料理とコーヒー、美味かったよ」
ロベスは無言で首を縦に振り、食器を下げて、テーブルを拭き始める。
ふと横を見ると、子猫はカウンターの上で眠っていた。
九郎はその小さな体をそっと持ち上げ、カバンに入れる。
そしてマスターに会釈して、酒場の出口に足を向けた。
するとその時、奥の部屋からサーネがひょっこり顔を出した。
「あ、サーネさん。今日は魔法を教えてくれてありがとな。また食べに来るから」
「――あっ、クロウ、ちょっと待って」
九郎が軽く手を上げると、サーネが慌てて駆けてきた。
そしてそのまま満面の笑みで、両手をまっすぐ九郎に差し出す。
見ると、手でお椀の形を作っている。
「……えっと、なに? この手?」
「ほら、魔法を教えた代金を、まだもらってなかったでしょ?」
「だ……代金?」
「ええ、そうよ。銀貨二百枚」
「にひゃっ!?」
聞いたとたん、九郎は口を大きく開けて固まった。
その顔を、サーネはにこにこと微笑みながら見つめている。
九郎はごくりとつばを飲み込み、
これ以上ないほど真剣な表情で銀髪のウェイトレスを見つめ返す。
「……さ、サーネさん」
「うん、なぁに?」
「えっと、その……もうちょっと、まかりませんか?」
「うん、まからなぁーい」
「どうしても……?」
「うん、まからなぁーい」
「初歩的な魔法なのに……?」
「うん、まからなぁーい」
「それじゃあ、返品とかは……?」
「両手を切り落とせばオッケーよぉん」
サーネはダブルピースをハサミのように動かしながら言い切った。
その瞬間、九郎の瞳の中に絶望の色が渦を巻いた。
「……サーネさん。あんたぁ、可愛い顔して、けっこう悪魔っすね……」
「うん、知ってるぅ」
言って、サーネはさらにニンマリと顔を歪める。
その悪魔のような微笑みを、
九郎は顔から汗を噴き出しながら、しばらくの間見つめ続けた。