第八章 3
「――ああ……これはもう、本気でダメかも知れん……」
街を囲む高い外壁。
その上で、晴れた空を眺めながら、九郎は死について考えた――。
サザラン軍の駐屯所をあとにした九郎は、呆然と繁華街に足を向けた。
どこに行くのか、自分でも分からない。
ただふらふらと、大通りをゆっくり歩いた。
すると不意に、どこからか賑やかな気配が漂ってきた。
見ると、マンイン亭のドアから喧噪が漏れている。
窓からこっそりのぞいてみると、まだ午前中にも関わらず、
店内にはかなりの客が入っていた。
若いカップルから老夫婦まで、みなポテトチップをつまみにして、
ビールを飲みまくっている。
そういや、まだハロウィンだったっけ……。
九郎はぽつりと言葉をこぼし、酒場の前を通り過ぎる。
そのままふらりとパン屋に立ち寄り、ポテトサラダのサンドイッチを二つ買う。
ついでに近くの井戸で革袋に水を汲み、街を囲む高い外壁に登った。
そして、南に広がる青い空と大平原を眺めながら、長い息を吐き出した。
「はぁ~……。空が青いのはレイリー散乱、雲が白いのはミー散乱だったっけ……。窒素や酸素分子みたいな小さな物体に光が当たると、波長の短い青い光が強く散乱する。それを発見したのが、イギリスのレイリーさん。湯気や雲の水滴ぐらいの粒子に光が当たると、散乱が光の波長に依存しなくなるから白く見える。それを発見したのが、ドイツのグスタフ・ミーさん。それじゃあなぜ、朝と夕方の空が赤いのかと言うと――」
言って、九郎は左右を見渡した。
石造りの外壁の上は十メートルほどの幅があり、
左右の壁は九郎ほどの高さがある。
長さは東西と南北に六キロずつ。
いくら背伸びをして目を凝らしても、人影一つ見当たらない。
九郎は登ってきた階段を背にして歩き、南門の方へとゆっくり進む。
「――光の散乱は、直角方向で最も強くなる。だから、太陽が真上にあると空が青く見える。そして日の出と日の入りの時は、光が通過する大気層の距離が長くなる。イメージ的には、直角三角形の斜辺を下から上に光が進む感じだ。だから青い光がさっさと散乱されてしまい、散乱されにくい赤い光が強調されて見える――。やれやれ……。せめてこれぐらいは説明しないと、レイリー散乱とかミー散乱とか、それっぽい単語をポンと出されただけじゃ、普通は何のことだかチンプンカンプンだよな……」
九郎は足を止めて一つため息。
それからゆっくりと振り返る。
階段の降り口ははるか後方で、もう見えない。
人が来そうな気配はない。
ハロウィンで盛り上がる街の喧噪も聞こえない。
目に映るのは、陽の光と壁の影。
そして時折、冷たい風で舞い散る落ち葉。
「……この辺でいいか」
九郎は石の床に腰を下ろし、壁に背中を預けて前を見た。
十メートル先の壁には細い切込みが入っている。
そこから遠くの山がわずかに見える。
目を凝らすと、白くぼやけた波打つ稜線。
その手前には、赤く色づく深い森。
それと、かすかに白い、自分のため息。
九郎は水を一口飲んで、もう一口飲んだ。
それから、サンドイッチをゆっくり食べる。
「さすがはじゃがいもの産地。新じゃがのポテトサラダ、美味いじゃないか……」
言ったとたん、涙がこぼれた。
慌てて手の甲で頬を拭う。
サンドイッチを口の中に放り込む。
アゴを動かす間にも、滴は次々にこぼれ落ちる。
二度、三度と、ローブの袖で目元を拭き取る。
しょっぱくなったサンドイッチをごくりと飲み込む。
赤くなった潤んだ瞳で、乾いた空をまっすぐ見上げる。
「……こうして昼飯を食えるのも、あと十回か」
一つ呟き、膝を抱える。
すると不意に、どこからか白い鳥が二羽飛んできた。
九郎は残りのパンを細かく千切り、石の床にばら撒いた。
鳥たちは身を寄せ合って一心不乱につつき始める。
「そうだよな……。生きていたら、腹が減るよな……」
自分を無視する鳥たちに、九郎はそっとささやきかけた。
それから膝に顔を埋めて、一人静かに涙を流した。