第七章 12
「――ふむ」
木の葉が揺れる音より小さな声が、刹那に漏れて、すぐに消えた。
世界が眠りに落ちたころ――。
九郎たちが泊る部屋の片隅に、淡い光が集まり始めた。
それは九郎とクヨが潜るベッドの頭側。
部屋の壁との間に置かれた荷物の辺りだった。
柔らかな金色に輝く光の粒が、いずこからか漂い集い、
次第に人の形を成していく。
「……ようやく戻れたか」
それは魔王クエキの声だった。
クエキの言葉は虫の羽音よりも小さくこぼれ、闇に飲まれてかき消えた。
光はさらに寄り集まる。
陽炎のように薄く揺らめくクエキの体が、次第に色濃くなっていく。
そうして十分も経たないうちに、クエキは元の体を取り戻した。
「……少々時間はかかったが、これなら問題はないだろう」
黄金色のローブをまとったクエキは、自分の体を見下ろして一つうなずく。
そしてふと、部屋の中を見渡した。
「……ふむ。どうやらここは宿屋のようだな。ならば……ふんむっ」
クエキは目を全開にして、瞳を黄金色に光らせた。
そして、向かいの二段ベッドの上下を凝視する。
「……あちらの上には赤毛の娘。十八歳。アウト。下の段は黒髪の娘。十七歳。アウト」
言って、黄金魔王はしょんぼりと顔をしかめる。
それから横に顔を向けて、ちょっと嬉しそうに微笑んだ。
「……ほほう。こちらの上には緑の髪の小娘か。十三歳。ギリセーフ――む? いや、待てよ? 何だ、この小娘は? 本当に十三歳か? 私の年齢判別スペシャル魔眼が、かつてないほどに揺らぎまくっておる。ううむ……すべての時間を見通す私の魔眼にエラーを引き起こすとは、こやつ、まさか……。まあでも、見た目は十歳前後だから、余裕でセーフにしてやろう。魔族も人間も、見た目が九割だからな」
そう呟き、クエキは満足そうに何度もうなずく。
それから、下の段で眠る九郎とクヨに目を落とす。
「……ほう、クロウではないか。こやつは明らかに十三歳以上だが、まあ、一応見ておくか。さてさて、こやつの年齢は――むむむ? ふんむむむむむ? 何と何と、生後たったの十八日だと? まさかこやつ、我ら十三魔王と同類の復活者か……? ふむ、なるほど。それならば、あの知識と分析力もうなずける。しかし、見た目が十六歳だから余裕でアウト。つまりこの部屋の娘たちは、アウトアウトのスリーアウト。がっかりである。やはり私の妻はクヨしかおらぬ。女というものは、年を取れば醜く太る。ならば若く美しい妻をめとり、私の魔法で年を取らぬようにしてやるのが、究極の愛情というものである」
「……そいつは激しく同感だな。ロリコンは絶許だが」
不意に目を開けた九郎が、クエキを見上げてささやいた。
「ほう。クロウよ。起きていたか」
「当たり前だ。あんたは絶対に復活してくると思ったからな」
「ふむ。それは面白い考えだ。何ゆえそう思ったのだ?」
クエキはニヤリと笑い、九郎を見つめる。
「簡単な推理だ。メイレスはあんたに、風の弾丸を千発以上も撃ち込んだ。しかしあんたは立ち上がった。そしてこう言ったんだ。
『この黄金剣ホル・クラウがなければ、死んでいたかも知れん』
――ってな。それに、ミルちゃんに倒されたあんたの肉体と黄金のローブは消えたのに、その黄金剣だけが残るってのは不自然だ。それらを考えると、答えは一つしかない。その剣はおそらく、あんたの精神体の緊急避難所だ。そしてその剣さえ無事なら、あんたはいつでも復活できる。違うか?」
「ほほう。クロウよ。褒めてやろう。私の秘密に気づいた者は、無月の魔王以外では初めてだ」
クエキは心底感心した声を漏らす。
すると九郎は、右手の指を一本立てて魔王に向けた。
「そいつはどうも。それじゃあ、ほめられついでにオレと一つ、取引をしてもらおうか」
「ほう。それは興味深い申し出だ。どのような取引だ?」
「なーに、簡単なことさ。人類の歴史をひも解けば、年端もいかない子どもが結婚することはそれほど珍しいことじゃない。だがそれは、明らかに子どもの意思を無視した一方的な強制だ。だから、クヨを諦めろとまでは言わないから、せめてクヨが自分の頭で結婚相手を選べる年齢になるまで待ってほしい」
「ふむ」
クエキはアゴに手を当てて考え込んだ。
「……そのことはたしか、最初に会った時も言っておったな。して、具体的には何歳まで待てと言うのだ?」
「うーん、そうだなぁ……。オレの国では最低十六歳なんだが、この星とは文化がまるで違うからなぁ……。よし、それじゃあ、こうしよう。オレの上の段で寝てる女の子は十三歳だが、かなりしっかりした考えを持っている。だからとりあえず、十三歳ってのはどうだ?」
「なるほど。十三か。クヨの年齢は七歳だから、あと六年か……」
クエキは考え込みながら、クヨの寝顔に目を落とす。
九郎は横になったまま、黄金色に輝く瞳を見上げて答えを待つ。
すると不意に、クエキが首をかしげて口を開いた。
「……して、クロウよ。一つ確認だが、お主は取引と口にした。ならば、双方に利益がなくてはならない。この取引で、私にはどのような益があると言うのだ?」
「そりゃもちろん、あんたの命だ」
「ほほう、私の命だと?」
とたんにクエキの目が鋭く光る。
「ああ。オレは今、あんたの命を握っている。この取引に応じなければ、あんたはここで消滅する。そういう取引だ」
「クロウよ。それは取引ではなく、脅迫と言うのだ」
「だったらあんたはどうなんだ? オレと初めて会った時、『見逃すから立ち去れ』って言ってたが、あれはオレのことを脅迫していたのか?」
「それは違う。私は王冠の魔王である。王の言葉は、それすなわち命令である」
「はは。とうとう本音が出たか。それはお上品な恫喝って言うんだよ」
九郎は一つ息を吐き出し、改めて口を開く。
「それで、王冠の魔王様。オレとの取引には応じるのか?」
「答えは、否だ」
魔王は首を横に振る。
「クロウよ。お主は愚か者ではない。私と同じ復活者であることを差し引いても、私と言葉を交わすだけの価値がある存在だ。しかし、残念ながら、その取引は無効である」
「へぇ、そりゃまた、何でだい?」
「なぜならば、お主には私の命を奪う実力がないからだ」
「つまり?」
「つまり、私はお主の横に眠るクヨを抱き上げ、この場を立ち去ることが出来る。そしてそれを阻める者は、この場には存在しないということだ」
「だからオレの言葉は完全に無視して、クヨを連れ去るってことか」
「うむ。是非もない」
クエキは重々しくうなずいた。
その仕草に、九郎は呆れ顔で息を漏らす。
「あーあ、魔王はやっぱり、どこまでいっても魔王ってことか。あんたはけっこう話の分かるヤツだと思うし、自分なりに筋を通そうとする性格は嫌いじゃない。だから、それだけに残念だ」
「クロウよ。それはこちらも同じことだ。お主はか弱き人間でありながら、その身一つで魔王である私と見事に対峙した。このまま殺すには少々惜しい存在である。ゆえに今すぐクヨを渡せば、お主を魔族に転生させてやってもよいぞ」
「へぇ、魔王ってのは、そんなこともできるのか」
「うむ。私ならば造作もない」
「そいつはすごい。たしかに魔族は美男美女が多そうだから、その提案は魅力的だ。特に今のオレは命が尽きかけているから、まさに天から降ってきた救いの糸と言っても過言じゃない。……だけど、ダメだ」
「ほほう、その拒絶は興味深い。事情は知らぬが、声の調子で分かる。お主は今、心の底から魔族に転生したいと願った。それをあっさり捨て去るとは、どういうことだ?」
「別に。簡単なことさ」
九郎は真剣な眼差しで、黄金の魔王をまっすぐ見つめる。
「あんたには魔王としての誇りがある。それと同じように、オレには人間としての誇りがある。オレが生まれ育った国には、自分が助かるために小さな子どもを差し出す人間なんて、ただの一人もいないんだ。だから悪いな、王冠の魔王。あんたの申し出は丁重に断らせていただく。そしてこれはオレからの最後の申し出だ。――第一の位を司る魔王よ。クヨのことは諦めてくれ」
九郎は静かに言い切った。
クエキは黄金色の瞳を冷たく光らせながら真摯に応える。
「クロウよ。お主の申し出は、しかと聞いた。ならばこちらも改めて告げよう。私の意は表明済みである。是非もない。それだけである」
「そうか……」
九郎はしばし目を閉じる。
そしてゆっくり目を開けて、魔王に向かって右手を伸ばす。
「ならばオレは魔法を使う。料理を温める魔法だ」
「ほう。それを使って何とする」
「あんたを倒す。種明かしはナシだ。あんたはどうせ、またいつか蘇るからな。謎解きは、復活して夕飯でも食いながらゆっくり考えてくれ」
「ふむ。面白い。そのような魔法で、本当に私を倒せるものならやってみるがよい。ただし――」
言いながら、クエキの体が黄金の輝きを放ち始める。
「それが効かねば、分かっておろうな」
「まあな。しかしそれはない。だから最後に、この言葉を贈ろう」
九郎はいったん口を閉じた。
そしてほんのわずかに、悲しそうに言葉をつづる。
「いざ、おさらばだ。黄金の魔王クエキよ。――アタターカ」
その瞬間、九郎の手のひらに黄色い魔法陣が浮かび上がった。
直後――魔王の体が一瞬でバラバラに切断された。
クエキはわずかに目を見開いたが、一言も漏らす間もなく、
細かな肉片に成り果てた。
かつて魔王だった欠片たちは、床に落ちる前に崩壊し、
黄金色の光となって消え失せた。
クエキが立っていた場所には、光の粒がしばしの間留まった。
しかし、それもすぐに宙に浮かび、夜の闇に溶けて消えた。
クエキの体は今度こそ、黄金色のローブと一緒に、
そして、黄金剣ホル・クラウとともに、地上から完全に消え去った。
「まったく……。幼女のために命を賭けるとは、どんだけゴールデンなロリコン魔王だよ……」
九郎は一つ息を吐く。
それからクヨに体を向けて、優しく微笑み、目を閉じる。
黄金色の残滓が消え失せた、暗い室内――。
その闇の片隅で、コツメとクサリンも、そっと静かに目を閉じた。