第二章 2
「――おおっ、何かすげーな」
老婆の家を出た九郎は、歩きながら感嘆の声を漏らした。
家の前の広い庭を抜けると、土の道が南北にまっすぐ伸びていた。
そしてどちらに目を凝らしても、
低い石垣と畑が延々と続く田園風景しか見えない。
振り返れば木造の老婆の家が無言で佇む。
その奥には小川が流れ、霧が漂う深い森が生い茂っている。
「うひゃー、電柱も電線もないなんて、マジですごいド田舎じゃねーか」
九郎は周囲をぐるりと見渡し、幅の広い道を北に向かうことにした。
そしてゆっくりと歩きながら空を見上げる。
薄い水色の空に、細長い白い雲。
地平線の少し上には、小さな太陽が輝いている。
「うんうん、太陽があるってことは、完全に地球だな。だったら何とかなるだろう。それじゃあ、今の時間は――」
道の脇に目を向けると、低い石垣に沿って雑草が生い茂っている。
青々とした草はしっとりと濡れていて、玉のような水滴がこぼれ落ちた。
「朝露ってことは、やっぱり朝だな。太陽の位置からすると、六時か七時ってところか。だけど、五月にしてはけっこう寒いな。標高が高いのかな……?」
九郎は思わず細い腕をさすりながら、歩く速度を少し上げる。
そして自分の服装に目を向けた。
家の中を適当に調べてみると、
老婆と同じ青い紋様の入った上着と黒いブーツがあったので、
今はそれを拝借している。
「……まあ、ズボンとパンツがなかったのはちょいと痛いが、裾が太ももまであるから大丈夫だろ。この体は十六歳の女子だから、ワンピースを着ているように見えないこともないからな。それよりも――」
言いながら、肩に掛けていた革のカバンに手を伸ばす。
これも老婆の家から拝借してきた物だ。
中には巾着袋と、勝手に入り込んできた青い毛の子猫がいる。
九郎は子猫を軽くなでてから、
巾着袋に入っていたコインをつまみ、目の高さに持ち上げる。
片面には蜂の紋章、もう片面には剣の模様が刻まれた銀貨だ。
「これってやっぱり通貨だよな? 見たことないけど、どこの国のコインだ? 何十枚もまとめて袋に入れてあるってことは、この辺で使えるってことだよな……? だけど、店でこれを出して『使えません』なんて言われたらシャレにならないんだが……って、おや?」
何もない道をひたすら歩いていたら、
不意に人影らしきものが遠くに見えた。
とっさに銀貨を巾着に戻し、目を凝らす。
どうやら石垣で区切られた畑で、何人かが農作業をしているようだ。
「おっと、ようやく三人発見。とりあえずあの人たちに話しかけて、近くの警察にでも連れていってもらうとするか。そしたらあとは、何とかなるだろ」
九郎は安堵の息を一つ漏らし、畑に向かって駆け出した。
「あのーっ! すいませーんっ!」
低い石垣の手前で止まり、声を張り上げる。
すると、緑色の豆やトマトを収穫していた三人が手を止めて、
九郎の方に顔を向けた。
中年の男女と、十歳前後の少年だ。
「へぇ、朝から家族で野菜の収穫か。健康的でいいねぇ」
九郎は感心しながら軽く助走。
そのまま膝丈の石垣に飛び乗った。
そのとたん、畑にいた三人がいきなり地面に片膝をついた。
さらに胸の前で両手を組んで、深々とこうべを垂れた。
「……はい?」
九郎は一瞬、思考が止まった。
三人の姿はどう見ても、神を敬う信徒の態度に他ならない。
しかもこちらに頭を下げたまま、子どもですらぴくりとも動かない。
「えっ? いや、ちょ、まっ……え? なに? 何でいきなりひざまずいてんの?」
九郎は思わず目を丸くして、呆然と立ち尽くす。
すると村道を歩いてきた老夫婦も、
いきなり地面に片膝をついてこうべを垂れた。
「……はい?」
唐突に道の端でひざまずいた老夫婦を見て、九郎はさらにぽかんと口を開けた。
しかも、あとからきた若い夫婦も片膝をつき、
さらに、鋤や鍬を持って歩いてきた農夫の一団も列をなしてひざまずく。
ふと気づけば、いつの間にか三十人以上がずらりと並んで片膝をついている。
そして彼らは皆一様に、九郎に向かって頭を下げて、石のように動かない。
「……え? え? え?」
九郎は混乱する頭を両手で押さえ、何とか思考を再開させる。
(いかん……。これはヤバイ……。何が何やらまったく分からんが、とにかく何かがヤバイことは間違いない……。ならば……)
九郎はごくりとつばを飲み込み、土の道に飛び降りた。
そして人が一番少ない方向に駆け出して、全速力でその場を去った。