第七章 7
「――そうみたいだな」
即座に気配を殺したメイレスを見て、九郎も石の壁から背中を離し、
暗闇に目を凝らす。
見ると、広場の中を黒い人影が走っている。
影は無人の広場を素早く突っ切り、
そのまま図書館の入口へと向かっていく。
そして、正面ドアを塞ぐバリケードの前をしばらくうろついたあと、
不意に図書館の横に足を向けた。
「……おや? 裏口に向かうのかな? それとも隠し通路でもあるのかなぁ?」
「さあな」
メイレスの言葉を聞き流し、九郎は早足で路地を飛び出す。
そしてそのまま足音を殺しながら人影を追跡する。
するとメイレスが後ろからついてきた。
「何でおまえまで来るんだよ」
「乗り掛かった舟だよ。それに、伝説の魔王を見る機会なんて滅多にないからねぇ」
「アホか、おまえは。どうなっても知らねーぞ。どうしてもついてくるって言うんなら、オレを守れ。マジで魔王が出てきたら、おまえを囮にしてオレは逃げる」
「はは、クロちゃんは素直だねぇ。だけどまあ、見物料にしては妥当なところかなぁ」
「いや、ぜんぜん妥当じゃねーだろ……」
ため息を一つ漏らし、九郎は忍び足で広場を駆け抜ける。
そして黒い人影を遠目に見据えながら速度を落とし、ゆっくりとあとを追う。
見ると、人影は図書館の真横で足を止めて、
きょろきょろと周囲を伺っている。
辺りは暗く、誰もいない。
人影は図書館の周囲に組まれた足場の中に素早く入り込み、
一階部分の石の壁に片手をかざす。
すると、手の前に茶色い光の魔法陣が浮かび上がり、
壁がドアのように内側へと開いていく。
(……どうやら隠し通路の方だったな)
人影が壁の中に入ったとたん、九郎とメイレスはすぐさま走り出した。
二人は無言のまま、開いたままの壁の中に慎重に足を踏み入れる。
中は細い通路になっていた。
十歩ほどで突き当たり。
すぐ横に狭い上り階段。
壁に手をつきながら静かに上る。
二十段ほどで途切れ、横の壁にヒトが一人通れるほどの隙間がある。
九郎が先に立って通り抜け、周囲の闇に視線を飛ばす。
そこは図書館の一階と二階をつなぐ階段の踊り場だった。
踊り場に飾ってある大きな絵画が、今は横にずれている。
(……なるほど、ここが隠し通路になっていたのか)
九郎とメイレスは無言のままうなずき合う。
そして暗闇に目を凝らし、耳を澄ます。
天井がないので星明かりは射し込むが、
無数の本棚が至るところに影を落とし、深い森のように視界は悪い。
「…………いやっ」
不意にどこかで誰かの声が小さく響いた。
九郎はとっさに耳に手を当てた。
しかし、声はもう聞こえない。
直後、メイレスが反射的に駆け出した。
音もなく階段を素早く降りて、一階の奥に向かっていく。
(おいおい、すげぇな。あんな小さな声で位置が分かったのかよ……)
九郎は内心で舌を巻きながら、メイレスのあとを追いかける。
するとメイレスは角に近い壁際で足を止め、
奥にずれ込んだ本棚を指さす。
追いついた九郎が目を向けると、そこには地下につながる階段があった。
隠し階段のわりには幅が広く、はるか下の方には仄かな灯りが見える。
メイレスはすぐに腰のサーベルを一本抜いて、ゆっくりと階段を降りていく。
九郎も半分の長さの棍棒を握りしめ、石の壁に手をつきながらあとに続く。
踊り場のない長い階段を、二人は一歩ずつ慎重に下りていく。
すると再び小さな声が反響した。
「――いやっ。おそとでたくない」
「魔王様。どうかそんな我がままをおっしゃらず、私と一緒にお越しください。ここはもう安全ではないのです」
(……何だ? 小さい女の子っぽい声だったけど、魔王ってまさか、子どもなのか?)
九郎とメイレスは思わず顔を見合わせて首をひねった。
階段の終点はもう目の前だった。
突き当たりの横が地下室になっていて、そこから淡い光が漏れている。
九郎とメイレスは壁に身を潜ませながら、そっと地下室をのぞき込む。
すると天井の高い地下室の中央で、二人の人物が向き合っていた。
一人は大人の女性。
昼間に九郎を図書館から追い出そうとした中年の司書だ。
もう一人は大きなベッドの上にちょこんと座った、
小さな子どもだった。
(……やはり子どもか。ベッドに広がる長い銀色の髪ってことは、魔族の女の子か。見た目は六歳ぐらいだが、まさかあれが魔王かよ……)
フリルの付いた白いパジャマの子どもを見て、九郎は思わず眉を寄せる。
するとその時、子どもが階段の方に目を向けて、首をわずかに傾けた。
「……だれ?」
(げっ! 速攻バレた! 魔王すげぇ! しかも可愛い!)
九郎とメイレスはぎょっとしながら目線を交わす。
直後、九郎はとっさにメイレスの肩を押さえながら立ち上がり、
一人で地下室に足を踏み入れた。
「あっ! あなたはっ!」
突然出てきた九郎を見て、司書の女が目尻を吊り上げた。
「ちょっとあなたっ! どうしてこんなところにいるのですかっ!」
「いや、そんなの、今さら説明するまでもないだろ」
九郎はベッドの少し手前で足を止め、司書を指さしながら言葉を続ける。
「図書館の職員が利用者を追い出すってことは、図書館に何かを隠している証拠だからな。だから強引に閉鎖して、調査官が調べに来るって脅したんだ。そしたら案の定、あんたがコソコソと図書館に忍び込んだから、こっそり尾行してきたってわけだ。いやいや、ほんと、こんなに上手く引っかかってくれて、マジあざーす」
「お黙りなさい! ここはあなたのような小娘が来る場所ではありません! 魔王様の御前ですよ! 今すぐここから出ていきなさい!」
「いやいや。魔王かどうかは知らんが、こんな地下室に小さい子どもが監禁されていたら、はいそうですかって帰るわけにもいかねーだろ」
「何を生意気なことを言っているのですか! 命が惜しくば今すぐここから出ていきなさい!」
「あー、はいはい、分かりました、分かりましたー。そんなに怒鳴らなくても出ていきますって」
言って、九郎は肩をすくめながらベッドに近づく。
そして、「はい、ちょっとごめんなさいよ」と子どもを軽く抱き上げ、
階段の方に戻っていく。
「なっ!? あなたっ! 魔王様をどこに連れていくつもりですか!」
司書の女は慌てて駆け出し、九郎の前に立ちはだかった。
「いや、だから、子どもを閉じ込めるのは児童虐待だろ。そんな常識も知らないヤツが、図書館の司書なんかやってんじゃねーよ」
「何をふざけたことを言っているのですかっ! 魔王様は普通の子どもとはわけが違うんです! この歪んだ世界を正しく導く至高の御方です! その御方に、あなたのような頭の悪そうな小娘が触れるなど、到底許されることではありません!」
「あー、はいはい、分かった、分かった。あんたの意見はとりあえず分かったから、ちょっと黙ってろ。こういうのは両方の意見を聞かないと判断できないからな。――なあ、おまえ」
九郎は抱きかかえている子どもに声をかけた。
「オレは九郎だ。おまえの名前は?」
「……クヨ」
女の子は、九郎をまっすぐ見つめて小声で答える。
「そうか、クヨか。じゃあ、クヨ。おまえはお菓子が好きか?」
「……うん」
「それじゃあ、お菓子とそこのオバサンでは、どっちが好きだ?」
「……おかし」
「だよなぁ」
九郎は中年司書を見ながらニヤリと笑う。
司書はギリギリと歯を食いしばりながら九郎をにらみつけている。
「それじゃあ、クヨ。今から酒場に行って、一緒にお菓子を食べないか? 今日はハロウィンだからな。美味いもんがいっぱいあるぞ」
「……いや。おそとでたくない」
銀髪の幼女は首を小さく横に振る。
すると女性司書はニタリと笑って九郎を見返す。
しかし九郎は気にすることなく、さらにクヨに話しかける。
「なあ、クヨ。何も怖いことはないぞ。オレたちは外に出るんじゃなくて、屋根のある暖かい酒場に入るだけだ。そして美味いメシを食ったら宿屋に泊って、柔らかいベッドでぐっすり寝るんだ。酒場に行く途中で歩き疲れたらオレがおんぶしてやるし、一人で寝るのが怖いなら一緒に寝てやる。それでも行きたくないか?」
「……じゃあ、いく」
「だよなぁ」
クヨがこくりとうなずいたとたん、九郎はニンマリ笑って司書を見た。
司書は限界まで目を剥きながら、鼻の穴を大きく膨らませた。
直後、いきなり腕を振り上げ、九郎目がけて飛びかかった。
「魔王様を黙って渡すはずがないでしょうがぁぁーっっ!」
「おっと。――おーい、メイレス」
九郎は司書の突進をひらりと避けて、入口に向かって声をかける。
するとメイレスが素早く駆けつけ、司書の腹を殴って意識を飛ばした。
「……いやいや。クロちゃんは本当に度胸がいいねぇ」
「うん? 何のことだ?」
「だってほら、まさか魔王を抱っこするなんて思いもしなかったよ」
「はあ?」
言われたとたん、九郎は呆れ顔でメイレスを見た。
「おいおい、ちょっとメイレスさん。おまえは何を言ってるんだ? 目の前に可愛らしい幼女がいたら、普通は抱っこしてお持ち帰りしたくなるだろ。それが紳士のたしなみってヤツだろうが」
「おお、さすがは光の柱に選ばれた救世主。その子が魔王かどうかは別にして、働き手にならない女の子を引き取る人なんか、滅多にいないからねぇ」
「あ、いや……そんなマジレスされると、ちょっと困るんですけど……」
九郎はバツが悪そうに顔を歪め、クヨを抱き直して言葉を続ける。
「それよりメイレス。悪いけど、ベッドに置いてある本を持ってきてくれ。たぶんあれが、何とかの魔書っぽいからな」
「はいはい、分かってるよぉ」
メイレスはベッドに近づき、
クヨの尻の下に置いてあった分厚い本を手に取った。
本の大きさは人間の頭部ほどで、表紙と裏表紙の外装は白い金属製だ。
メイレスは本を小脇に抱え、九郎を先導して図書館を出た。
「……さてと。それじゃあ、クロちゃん。これからどうする?」
「そうだなぁ」
二人は言葉を交わしながら、石畳の広場に足を向ける。
「とりあえず、図書館に隠されていた魔書とクヨは確保したから、これでハーキーの依頼は片付いた。あとは、まあ――」
九郎は一旦口を閉じて広場の中央まで歩き、
周囲を見渡しながらため息を吐く。
闇に包まれた広場は、いつの間にか大勢の人影に包囲されていた。