第七章 6
「――誰だっ!」
夕暮れの薄暗い路地裏で、九郎は素早く振り返って誰何した――。
図書館を出た九郎は、騎士のカールとメガネの男性職員に礼を言って解放し、
自分は工事の様子を見守った。
二百名の兵士たちはきびきび動き、図書館の周りに足場を組み立て、
天井をすべて撤去し、入口と裏口にバリケードを設置していく。
そうして作業がすべて終了すると、空は茜色に染まっていた。
ガインは兵士たちを引き連れて、駐屯所の方へと戻っていく。
九郎もすぐに歩き出し、中央城塞まで足を運ぶ。
そして堀の前で唐突にUターン。
そのまま元来た道を引き返し、薄暗い路地裏に身を潜め、
石畳の広場と図書館にこっそり目を光らせる。
すると不意に、背後でかすかな音がした。
反射的に振り返った九郎は薄い闇に目を凝らし、低い声を投げかける。
「……誰かそこにいるんだろ」
緊張した声がかすかに響く。
しかし、石造りの建物に挟まれた細長い路地はすぐに静まり、
何も答えない。
狭い通路には、木材や大きな木箱がいくつも置いてある。
それらは闇の中に深い影を落とし、九郎の声を無言で飲み込む。
陽の光は刻一刻と消え去っていき、
狭い世界は加速度的に黒一色に染まっていく。
すると不意に、闇の中に影が増えた。
数十メートル先の曲がり角から滑り出てきた人影は、
足音一つ立てることなく路地裏を進み、九郎の前で立ち止まる。
「――こんばんは、クロちゃん」
インバネスコートに二本のサーベルを装備した人影が、
どこか楽し気な声で言った。
それは、頭のてっぺんでしばった長い髪を噴水のように垂らした男だった。
その独特のシルエットを見たとたん、九郎はふっと息を漏らす。
「……メイレスか。よくここが分かったな」
「そりゃ当然。ボクはこれでも、仕事のできるカブキモノだからねぇ」
言って、メイレスは闇の中で目を研ぎ澄ます。
九郎はとっさに、ローブの懐に右手を差し込んだ。
そして取り出した一枚の金貨をメイレスに向かって放り投げた。
「ほらよ」
「――はい、毎度あり」
メイレスは金貨をキャッチしてニヤリと笑う。
そして近くの木箱に腰を下ろし、口を開く。
「いやいや、まさかクロちゃんから仕事の依頼をされるとは思いもしなかったよ。ギルド会館で伝言を受け取った時はびっくりしたけど、ボクがこの街にいるって、よく分かったねぇ」
「まあな」
九郎は軽く肩をすくめ、再び図書館と広場に目を向けながら言葉を続ける。
「おまえは殺人コックの横流しを、一か月かけて調査したって言ってたからな。そんなヤツが、オレの暗殺を簡単に諦めるはずがないと思ったんだ。昨日の酒場で、コツメが誰かの視線を感じると言っていたけど、あれはおまえだな?」
「おやおや。やっぱりあの子には気づかれていたかぁ」
メイレスは少しばかり悔しそうに手のひらを上に向けた。
「お察しのとおり、サザランの皇帝を暗殺されるとちょっと困るから、クロちゃんたちを見張っていたんだよ。だけど受け取った伝言には、皇帝の暗殺を諦めるって書いてあったけど、これはいったいどういう風の吹き回しかな?」
「別に。オレは元々、誰かを殺してまで生き延びたい性格じゃないからな。ハーキーを殺さずに済む方法があるのなら、そっちを選ぶ。それだけだ」
「はて? 生き延びる?」
メイレスが、ふと首を傾けた。
その不思議そうな声に、九郎もきょとんとまばたいた。
「あれ? 言ってなかったか? オレの体には魔法契約がかけられていて、あと十二日以内にハーキーを倒さないと死ぬんだよ。まったく。アルバカンの王様ってのは、マジではた迷惑なヤロウだぜ」
「ああ、なるほど、そういう条件があったのかぁ。いやいや。クロちゃんもいろいろ大変だったんだねぇ」
「ほんとだよ。それで今は、その魔法契約を解除するために、魔法の研究者に相談しようと考えている。そしてその研究者をハーキーに紹介してもらうには、あの図書館の問題を解決しなくちゃいけないってわけだ」
言って、九郎はアゴをしゃくる。
つられてメイレスも石畳の広場に目を向ける。
すっかり暗くなった広場の奥には、工事用の足場で囲まれた図書館が見える。
「ふーん。だから伝言で、図書館についての情報収集を頼んできたわけかぁ」
「そういうことだ。正直、時間がないからあまり期待はしていなかったけど、新月グループに所属しているおまえなら、何か手がかりになりそうな情報をつかめるかも知れないと思ったからな」
「まぁねぇ。知ってのとおり、ボクはけっこう鼻が利くからねぇ。だけどクロちゃん。これはまた、ずいぶんと難しい事件に頭を突っ込んだみたいだねぇ」
「うん?」
九郎はとっさにメイレスを見た。
「何だよ、難しい事件って。何か分かったことがあるのか?」
「そりゃもちろん。だからこうして、ここまで来たんだよ。まあ、もったいぶらずにズバリ言うと、あの図書館には『白金魚の魔書』が隠されているらしい」
「シロキンギョの魔書? 何だそりゃ?」
「おやおや。やっぱりクロちゃんは、この世界についてぜんぜん知らないんだねぇ。あーあ、いちいち説明するのはめんどくさいんだよねぇ」
「うるせぇよ。こっちは情報料を払ったんだから、さっさと説明しろ」
「はいはい」
メイレスは一つ小さな息を吐き、頭上の狭い星空を指さして話し始める。
「えっとね、まず、この惑星バステラには、一月から十二月の各月に対応する星座があるんだよ」
「星座? それって、星占いとかに使う星座のことか?」
「まあ、占いにも使うことはあるけど、この世界には星座の力を借りる魔法があって、魔法を使う時期に対応した星座を選ぶと、効果がアップするんだ」
「ああ、なるほど。そういうことか」
「そうそう、そういうこと。それで、八月の星座が白金魚座で、白金魚の魔書っていうのは、古代の魔王を復活させる禁忌の書物なんだ」
「は? 古代の魔王? え? なにそれ? それってまさか、ハーキーみたいに悪口で言われた魔王じゃなくて、モノホンの悪魔の王様ってことか?」
「まあ、その認識で間違ってはいないかなぁ。ただし悪魔じゃなくて、魔族の王様なんだけどね。えっと、今から三万年ほど前は、十三人の魔王が世界を支配していたらしいんだ。それで、その魔王たちは本当にものすごい魔法使いで、自分の魂を書物に封じることができたらしい。そして適性のある人物がその書物を読むと、魔王の魂がそいつの体と精神を乗っ取って、この世に復活してしまうんだよ」
「えっ? うそ? それじゃあ、この世界にはマジで魔王がいんの? しかも十三人も?」
「うんうん。マジマジ」
ぱちくりとまばたきした九郎に、
メイレスは真面目くさった顔で一つうなずく。
「それで、その十三冊の魔書を守っているのが『十三魔王勅書護教団』、通称『十三魔教』、または『ライブラ・サーティーン』っていう邪教集団なんだけど、どうやらこのイゼロンの街には、そいつらの支部があるらしいんだ。そしてヤツらはあの図書館を根城にして、魔王の復活を果たそうとしているんだよ」
「おいおい、マジかよ……」
九郎は思わず片手で顔を覆い、深い息を吐き出した。
「世界を支配していた魔王の一人って、そりゃもう、ほとんどラスボスじゃねーか。もしもそんなヤツが出てきたら、完全にデッドエンドだろ……」
「そりゃそうでしょ。普通の人間が束になってかかっても、魔王に勝てるはずがないからねぇ。……あ、でもクロちゃん。一つ訂正があるんだけど」
「……何だよ」
「たぶん、魔王は既に、復活しているっぽいんだよねぇ」
「ナンデスト?」
九郎は呆気に取られて目を剥いた。
するとメイレスは九郎に指を向けて言う。
「いや、ほら、クロちゃんから情報収集を依頼されたのって、今日の午前中じゃん? しかも大至急って書いてあったから、ライブラ・サーティーンの下っ端を見つけて、さっきまでちょっとグリグリしてたんだよ」
「いや、グリグリっておまえ……具体的に何をしたのか想像できちゃう言い方はやめてくだしあ」
「うーん、いいねぇ、その『くだしあ』って言い方。ボクも真似させてもらっちゃおうかなぁ」
「んなもんは好きなだけ真似していいから、さっさと続きを話せ。それで、おまえが拷問した下っ端は、何をゲロったんだよ」
「いや、ほら、さっきも説明したとおり、白金魚の魔書を使うには、白金魚座の八月が一番効率がいいんだよ。そしてその下っ端も、
『――へっ、今さら気づいたってもう遅いんだよ。おまえたちの未来には、もはや絶望しかないんだからな。はっはっは。はーっはっはっはっはっは。ごぶふっ』
って言ってたから、これはもう手遅れかなぁって」
「いや、『ごぶふ』っておまえ、結局ヤッちゃったのかよ……」
じっとりとした目つきでにらむ九郎に、
メイレスは澄ました顔で手を横に振る。
「まあ、それはともかく、もしも八月に白金魚の魔王が復活していたとしたら、どうして二か月以上もの間、あそこの図書館に隠れているのかなぁ?」
「そんなことは悩むまでもないだろ。復活したヤツのやることと言ったら、新しい肉体の確認と、この時代の情報収集に決まっているからな」
「おやぁ? 何だかずいぶんと確信的に断言するねぇ」
「そりゃもうね。こっちは死ぬほどというか、文字どおり死んだほど身に覚えがあるからな。オレだって時間制限さえなければ、一年ぐらいかけていろいろと準備したかったっつーの」
言って、九郎はがっくりと肩を落とす。
「……まあ、今さら言ってもしょうがないけどな。それと、情報を集めてくれてサンキューな。おかげで、何も知らずに魔王とご対面っていう最悪のパターンは回避できそうだ」
「いやいや、これぐらいお安い御用さ。これで金貨一枚はもらいすぎだから、もう一つ、とっておきの情報を教えてあげるよ。ギルバートのことは覚えているかい?」
「そりゃ。もちろん。あんなサイコパスの殺人コックなんて、そう簡単に記憶からデリートできないからな。だけど、あいつは誰かに殺されたんだろ? なぜかオレが犯人扱いされて、ひどい目に遭ったからな」
「それが実は、まだ生きてるんだよねぇ」
「……はい?」
九郎は思わず目を丸くしてメイレスをまじまじと見た。
メイレスは軽く呆れ顔で話を続ける。
「ギルバートはねぇ、自分が殺されたことにして、その罪をクロちゃんにかぶせようとしたんだよ。そして警備兵にクロちゃんを逮捕させて、先に牢屋に入っていた盗賊ギルドの仲間にクロちゃんを殺させるという計画を立てていたんだ」
「うっわ! マジで!? なんじゃそりゃ!? なんちゅーあくどい事を考えるんだ、あの殺人コックは。それじゃあもしも、ラッシュの街で警備兵に逮捕されていたら――」
「間違いなく、殺されていたねぇ」
「うっあー、あっぶねぇー。マジあぶねぇ」
九郎は身震いをして、自分の体を抱きしめた。
「やっぱ、あの時逃げて大正解だったな。二十一世紀の日本ですら、留置場での不審死はマジでけっこうあるんだから、こんな中世世界じゃ日常茶飯事に決まっているからな。あー、さすがオレ。よくぞ逃げた。マジ、オレ、グッジョブ。……だけどメイレス。何でおまえは、そんなことを詳しく知ってんだよ」
「いやー、実はボクも、クロちゃんが逮捕されたら牢屋でヤッちゃおうかなーって思って、警備兵の詰め所を見張っていたんだよねぇ」
(ぬぅ……やっぱコイツも、けっこうやばいな……)
メイレスがカラリと言った瞬間、九郎はわずかに身を引いた。
「そしたら、殺されたはずのギルバートが詰め所を見張っていたから、ちょっと捕まえて話を聞いたってわけ」
「なるほど。そういうことか。それであの殺人コックは、ちゃんと警備兵に突き出したんだよな?」
「まあね。元はと言えば、伯爵の屋敷でボクが取り逃がしたせいだからねぇ。だけど、その日の夜に脱獄したらしいよ」
「うあー、何それ? ほんと、何それ? ラッシュの警備兵、マジ使えねぇー。何なの、あいつら? どんだけ能無しなんだよ。あー、ほんとにもう、ぜんぜん使えねぇー」
呆れ果てた声を漏らした九郎に、メイレスは苦笑いを浮かべて言う。
「まあ、それは仕方ないでしょ。独立自治区の警備兵ってのは、どこの街でもあんな感じだからねぇ。だから金を持っている人間は、民兵ギルドに護衛を依頼するんだよ」
「なるほどねぇ。バカで融通の利かない警察……じゃなくて、警備兵よりも、民間警備会社の方が頼りになるってわけか。金のない一般人には、なかなか厳しい世の中だなぁ」
「それでも独立自治区は税金が安いからね。金のない一般人には人気があるんだよ」
「やれやれ、そういう事情があったのか……」
九郎は軽く頭をかいた。
「人食い虎より税金の方が怖いっていう、笑えない笑い話を聞いたことがあるけど、たしかに誰だって税金の安い国に住みたいからな」
「何だい? その人食い虎の話って」
メイレスが首をかしげながら、わずかに身を乗り出した。
「いや、別に大した話じゃない。家族全員を虎に食い殺された奥さんに、『ここは危険だから別の土地に移り住んだらどうだい?』って偉い先生が勧めたら、『他の国は税金が高いからやめておきます』って断られる笑い話さ」
「ああ、なるほどねぇ。それで、人食い虎より税金が怖いってことかぁ。うんうん、なるほど、なるほど……。それじゃあクロちゃん。それはつまり、税金を安くしたら国民が増えるってことかな?」
「そりゃそうだろ。だけど、あまり安くするのもかえって悪い。金がなくて公共サービスが不十分になったり、軍隊が維持できなくなったりしたら安心して暮らせないからな。肝心なのは、誰もが納得できる税率にすることだ」
「それじゃあ、どれくらいの税率なら、みんなが納得するんだい?」
「どれくらいって、うーん、そうだな……」
九郎はアゴに手を当てて、考えながら口を開く。
「ものすごーく大雑把に言うと、年収が金貨一〇〇枚なら、税金は金貨八枚。五〇〇枚なら九〇枚。一〇〇〇枚なら三〇〇枚。一〇,〇〇〇枚なら三五〇〇枚――っていう感じかな」
「それはつまり、金持ちの税率を上げるってことかい? だけどそれじゃあ、税率がかなり不公平になるんじゃないかな? アルバカンみたいに職業ごとの固定税率にした方が公平だと思うけど」
「いや、アルバカンのやり方は最悪だ。なぜなら、職業が同じでも収入は場所によってかなり差が出るからな。基準にするのは職業じゃなくて、個人の手元に残る金貨の量にするんだ。たとえばさっきの話だと、年収一〇〇枚のヤツが税金を払うと、手元には九二枚の金貨が残る。五〇〇枚のヤツは四一〇枚で、一〇〇〇枚のヤツは七〇〇枚だ。これは分かりやすくするために極端な税率にしたが、つまり、収入が高くなるにつれて税率を上げていく累進税率にするってことだ」
「なるほど……。つまり職業じゃなくて、個人の収入を目安にするのかぁ」
「そういうことだ。職業固定に限らず、税率が一定だと、貧乏人の負担がでかくなって、金持ちの負担が減るから、そっちの方が不公平なんだよ。金持ちがさらに金を稼ぐと、貧乏人にも自然に金が滴り落ちるという『トリクルダウン』っていう考え方もあるが、あれは単なる幻想に過ぎない。金持ちはタックスヘイブンに金を預けるし、企業の利益は内部留保として貯め込まれているのがその証拠だ。つまり、金持ちを優遇すればさらに金持ちになり、貧乏人はいつまで経っても生活が楽にならない。そして、そういう貧富の格差は国民全体の不満として積もりに積もり、いつか爆発して国を滅ぼす火種になるんだ」
「ふむふむ、なるほど。それじゃあ、クロちゃん。具体的には、どうすれば国は栄えるのかな?」
「そんなのは簡単だ。どこの国だって中流階級とそれより下の人間が大多数を占めていて、結局のところ、国を支えているのはそういう普通の一般人だ。だから、そいつらの税金を安くしてやるんだよ。そうすれば国の雰囲気は一気によくなる。それで国民の労働意欲が高まれば生産が増えるし、生産物の流通が増えれば交易が盛んになる。国の景気がよくなれば、他の国からの移住者も自然と増える。そして国民が増えれば、国の税収も増えて、国全体が繁栄する――。国を治めるってのは、ただそれだけの簡単なお仕事さ」
「へぇ、なるほどねぇ。さすがクロちゃん。召喚の儀式で呼び出された救世主ってのは、伊達じゃないんだねぇ」
メイレスは闇の中でにこりと微笑む。
その気配を察した九郎は、決まり悪そうに目を背ける。
「いや、悪いけど、オレはそんなに大そうな人間じゃねーよ。オレの国の人間なら、これぐらいの知識は八割以上のヤツが持っている。ラノベを読んでアニメを見ている人間なら百パーセント知っている。オレより頭のいいヤツなんて、冗談抜きで何十億人もいるからな」
「ふーん、そうなんだぁ。でも光の柱が選んだのは、クロちゃん一人なんだよねぇ――っと」
メイレスは不意に立ち上がり、インバネスコートの尻を軽くはたく。
そして図書館前の広場に体を向けて、声を潜める。
「……どうやら、誰か来たみたいだねぇ」