第六章 9
「――それではみなさん、おやすみなさいですわっ! クロロン! またいつでもお食事に誘ってくださいね!」
食事を終えて酒場を出たクリアは、九郎に抱きつきながら別れを告げて、
馬車に乗って去っていった。
九郎は歩道に立つ仲間と一緒に、遠ざかる馬車を笑顔で見送る。
それからすぐに、もう一台の馬車に向かっていたハーキーに一人で近づき、
声をかけた。
「……なあ、皇帝陛下」
「うん? 何だい、クロウさん」
人通りがまばらになった歩道で足を止め、ハーキーは振り返る。
九郎は周囲に人がいないことを確認しながらゆっくり近づき、
落ち着いた声で話を切り出す。
「あんたは何で、クリアちゃんを暗殺しようとしたんだよ」
「……さて、何のことかな」
ハーキーは振り返った時の笑みのまま、淡々と口を開く。
「クリアを狙ったのはゴールドバビロン大将軍で、僕じゃないんだけど」
「まあ、とぼけるのは自由だけどさ、オレがこうして話しかけた時点で、オレが何を望んでいるかぐらい、あんたなら分かるだろ」
「いやいや、僕は君ほど勘が鋭くないからね。ちゃんと言ってもらわないと分からないよ」
言いながら、ハーキーは片手をわずかに上げる。
すると薄暗い路地裏から、複数の男たちが音もなく湧いてきた。
体格のいい男たちは大通りの左右を完全に封鎖して、
馬車と歩行者を別の道へと誘導し始める。
同時にコツメが九郎の方に足を向けたが、九郎は片手を向けて制止した。
「落ち着けよ、皇帝陛下。このことは誰にも話すつもりはないからな」
「さて。もう一度言うけど、僕には何のことだかよく分からないな」
ハーキーは外套の中の左手を、腰に提げた剣にのせる。
それを見て、九郎は一つ息を吐き出し、満天の星空を見上げて話を続ける。
「――オレの考えはこうだ。おそらく、あんたたち七人の兄弟姉妹はかなり仲が悪い。だからあんたは自分の悪い噂をわざと流し、兄弟姉妹の誰が動くのかを見定めようとした。いくら家族と言えど、皇帝の座を狙うヤツは、あんたにとって邪魔者でしかないからな。そしたらクリアちゃんが毒薬を作って、あんたのいるこのイゼロンに向かってきた。その行動はどう考えても、あんたを殺して皇帝になるためだ。だからあんたは傭兵を使い、アルバカンの仕業に見せかけて、クリアちゃんを暗殺しようとした」
「へぇ。それはまた、ずいぶんと突飛な発想だね」
ハーキーは気軽な口調で言いながら、左手で鞘を握る。
九郎は無防備に夜空を眺めたまま、話の続きを口にする。
「別に突飛なんかじゃないさ。この星の人間はあまり本を読まないみたいだが、オレの故郷には、そんな話は掃いて捨てるほどあるからな」
「この星……? まさか君は、別の星から来たのかい?」
「まあな。だけどそんなことはどうでもいい。とにかく、あんたの暗殺計画は失敗した。しかも予想外なことに、クリアちゃんがあんたに和解を申し込んできた。するとあんたは、自分たち兄弟姉妹がお互い疑心暗鬼になっていたことに気づき、クリアちゃんの暗殺を考え直すことにした。まあ、あのアッパラプリンセスはたしかに思い込みが激しいが、ちゃんと話してみると素直で可愛い女の子だからな。しかもあんたは実の兄貴だから、情けが湧いて当然だろ」
「いやいや。ジャクリアナは昔から素直で可愛い妹だからね。嫌いになったことなんて一度もないよ」
「それは嘘だ」
九郎は即座に言い切った。
そして、ぴくりと眉を跳ね上げた皇帝に指を向けてさらに言う。
「人間というのは、たとえ家族であっても、ずっと好きでいられるもんじゃない。一度は好きで結婚した相手でも、ゴミのように投げ捨てたくなる瞬間が必ずある。それはもう、絶対確実百パーセント間違いようのない真実だ。だから、『一度も嫌いになったことがない』なんて言った時点で、本心を隠そうとしているのがバレバレなんだよ」
「へぇ。君は見たところクリアと同い年ぐらいに見えるけど、その若さで結婚した経験があるって言うのかい?」
「まあな。これも言ってなかったが、オレは見た目と中身が別物なんだ。戦いに負ければ殺されてしまうこの厳しい現実世界でも、その点だけはファンタジーだからな」
「うん? 何だい、そのはんたずぃって」
「はんたずぃ、じゃなくて、ファンタジーな。どうやら、オレの精神体に刻まれた翻訳の魔法がエラーを起こして『はんたずぃ』と聞こえるらしいが、まあ、あんまり気にすんな。ファンタジーってのは、日常とはちょっと違う、非日常のことだ。お祭りがあると、なぜかワクワクするだろ? そんな感じの、懐かしい夢の世界のことさ」
言って、九郎は歩道に立ち並ぶ細い鉄柱を指でさす。
つられてハーキーも目を向ける。
そこにはかぼちゃの形をした大きなランプが掲げられ、
温かな黄色い光をこぼしている。
「さて、それじゃあ話を戻すけど、やんちゃな妹と仲直りをしたあんたは、悩み事が一つできてしまった。それは、クリアちゃんが暗殺計画の実質的な首謀者を突き止めてしまったことだ。もしもクリアちゃんが、ゴールドバビロン大将軍とやらを逮捕して尋問すれば、暗殺計画を命令したのがあんただとバレてしまう。だからあんたは大将軍をすぐに処刑して、真相を闇に葬った。虜囚の辱めとか、国内の安定とか、そんなのは後付けの言い訳に過ぎない。しかし、ここでちょっと引っかかった」
九郎は白い息を吐き出し、自分のこめかみを二度つつく。
「どう考えても、どんな理由があろうとも、自分の国の最強騎士であり、軍隊の総司令官である重要人物を、いきなり処刑するなんてあり得ない。世の中には気に入らない人間をさっさと銃殺する独裁者もけっこういるが、あんたはそういうタイプにはまったく見えないからな。となるとおそらく、処刑したと見せかけて、どこかに隠れてもらっているってところだろ」
「……へぇ。ますますもって面白い発想だ。だけど、僕がクリアの暗殺に関わっていたという裏付けでもない限り、それはただの仮説に過ぎないと思うけど」
「まあな。それはたしかにそうだ。だから、ほらよ――」
九郎は小さな金属の塊をハーキーに向かって放り上げた。
それは街灯の光を受けて鈍く反射し、皇帝の手の中にすぽりと納まる。
ハーキーは金属を指でつまんで光にかざす。
見ると、それは銅で作られた徽章だった。
蜂をかたどった模様が彫られた立派な品だ。
「これは……」
「それはクリアちゃんを暗殺しようとした傭兵が持っていたバッジだ。そいつが逃げる時に落としていったから、念のために拾っておいたんだ。そしたらさっき、酒場にいた男の何人かが、それと同じバッジを服につけていた。それって、あんたの護衛がつけてるバッジだろ? 真っ二つに割れて消滅したさっきのアミュレットと同じ模様だからな」
「いや、これはそんなに珍しいものじゃないよ」
ハーキーは軽く首を振ってさらに言う。
「これはサザランの軍隊に所属していることを証明する徽章で、うちの軍人なら誰でも持っているからね」
「そうすると、クリアちゃんを襲ったのは、サザランの軍人って証明されたわけだ」
「さあ、それはどうかな」
ハーキーは銅の徽章をポケットに突っ込み、肩をすくめる。
「これは本当にありふれた物だからね。誰が持っていてもおかしくはないし、むしろアルバカンの兵士が、うちの軍人の死体から奪った可能性の方が高いんじゃないかな」
「そうだな。その可能性はたしかに否定できない。だけど、そのバッジが表に出ると、クリアちゃんの暗殺にサザランの軍人が関わっていた疑いが濃厚になることも否定できないはずだ。まあ、そんなに慌ててポケットに突っ込まなくても、そいつはあんたに渡すつもりだったから安心しな」
九郎はポケットに突っ込んだハーキーの手を指さした。
「これで、あんたがクリアちゃんを暗殺しようとした証拠はなくなった。オレの仮説はただの空想で終わるし、クリアちゃんを襲ったのは、アルバカンの残党兵ということで落ちつくだろ。だからここからは、仮説に仮説を重ねた、もしもの話だ」
「なるほど。もしもの話ね」
「そうだ。もしも、あんたがクリアちゃんを暗殺しようとしたのなら、オレはこの先のことが心配になる。あの子とは知り合ってまだ二日しか経っていないが、風呂にも一緒に入ったし、けっこう懐かれちまったからな。できれば天寿をまっとうしてもらいたい。だからもしも、あんたがクリアちゃんを暗殺するとしたら、どういう理由で暗殺するんだ?」
「……さあ、そんなことは考えたこともないからねぇ」
ハーキーはニヤリと笑う。
そして、近くのかぼちゃランプを見上げて言葉を続ける。
「だけどまあ……そうだな。僕がジャクリアナを殺すとしたら、あの子が僕を殺そうとした時だけだろう。僕には既に、サザランという広大な土地と民を守る義務があるからね。それこそ天寿をまっとうするまで倒れるわけにはいかない。
だから、敵対する者は誰であろうと、
刹那の迷いもなく弑し屠る。
それはもはや僕個人の意思ではなく、サザランという国の息吹だ。
僕は広大な我となりて、我と我が身を護らんと欲す。
ゆえに、風を纏う穂先を構え、
降りかかる火の粉のすべてを、欠片も残さず吹き飛ばす」
若き皇帝は煌めく星々に右手を掲げ、その手のひらに息を吹く。
それは白く細く、長い息。
心の息吹は夜を走る冷たい風に、巻かれて散った。
(やれやれ……。国を守るためなら、自分の感情でさえ殺すってことか。ほんと、立派な皇帝陛下だぜ……)
九郎は柔らかな息を一つ漏らす。
そしてハーキーの隣に並び、夜空を見上げる。
「そんじゃ、もう大丈夫そうだな」
「……そうだね」
ハーキーも遠い星を見つめながら、一言小さく呟いた。