第六章 8
「ば……バキンって……?」
九郎は呆然としながらテーブルを見た。
それは蜂をかたどった銀細工のバッジだった。
金属製の小物は二つに分かれ、コーヒーカップの横に転がっている。
しかも、みるみるうちに不気味な緑色に染まっていき、
光の粒となって崩壊していく。
そしてすぐに、空気中に溶けて消えた。
「な……なあ、皇帝陛下……」
九郎は顔を青くしながら、おそるおそる口を開く。
「今の、いきなり消滅したバッジって……もしかして、魔法のアミュレットだったりするのかな……?」
「ああ、うん、そうだね……。おかしいな……。どうしていきなり、消えてなくなっちゃったんだろ……」
「あぁっ! みなさん見てくださぁいっ! マロンのパイがきましたよぉ~っ!」
不意にクサリンが、ひと際明るい声を張り上げた。
クサリンは、顔に暗い影を落とした九郎とハーキーには目を向けず、
運ばれてきた大きなパイを見てひたすら喜びの声を漏らしている。
「まあ! ほんとですわ! とっても美味しそうな香りがしますわ!」
「おうっ! こいつは美味そうだ!」
「うむ。これはなかなか苦しゅうないな」
言って、コツメはパイカッターに手を伸ばし、
素早く八等分に切り分ける。
四人娘はすぐに一切れずつ皿に取り、ぱくぱくと食べ始める。
カスタードパイを頬張る、春のような三つの笑顔と澄まし顔。
その横で、九郎は瞳の中に木枯らしを宿らせながら、
一つの皿にパイを二切れ並べてのせる。
そしてそのままハーキーに差し出した。
「……あのぉ、なんか、うちのショートツインテールがお茶目なことをやっちまったみたいで、ほんとすんませんっした。夕飯を全部吐き出してお腹が空いているでしょうから、よかったらオレの分も食ってくだしあ……」
「ああ、うん、そうだね……。それじゃあ、せっかくだからいただこうかな……」
「……ほんともう、パーティーリーダーとして何と言っていいか分かんないっすけど、マジでサーセーンっした……」
「ああ、うん、大丈夫……。アミュレットが発動したのを見たのは初めてだから、さすがにちょっと死ぬほど驚いたけど、とりあえず、まだ生きているからね……」
九郎はうつむいたまま謝罪して、さらに頭を低く下げる。
ハーキーも暗い顔でうつむきながら、わずかに首を縦に振った。
それからすぐに顔を上げて、パイを食べながら話を続ける。
「それでクロウさん。さっきの話の続きだけど、僕の兄弟姉妹たちはそんなにドライな性格じゃないよ。ジャクリアナだけは、ちょっと思い込みが激しいけどね」
「ジャクリアナ?」
「ああ、クリアのことだよ。本名はジャクリアナ・サザラン。皇位継承権第三位の、第四皇女だ」
「そうですわっ! それがわたくしの本名ですわっ!」
不意に横から甲高い声が飛んできた。
九郎が顔を向けると、クリアはにこやかにピースサインをして、
再びパイにフォークを突き刺す。
「僕にはまだ跡継ぎがいないからね。僕が死んだら、姉妹の誰かが皇帝になる。クリアは最有力候補の一人なんだ」
「なるほど。それじゃあ、さっき言ってたゴールドバビロン大将軍ってヤツは、皇族を根絶やしにして、サザランを乗っ取ろうとしたわけか。でも、この街にそんな物騒なヤツがいるのに、皇帝がこんなところでのんきにケーキなんか食ってていいのか?」
「ああ、それならもう問題はない。クリアから話を聞いて、すぐに処刑したから」
「はあ? 処刑って……マジで?」
目を丸くした九郎に、ハーキーはこくりとうなずく。
「僕の悪い噂を流す程度ならかまわないが、クリアを暗殺しようとしたのは立派な反逆罪だからね。クロウさんたちがいなければクリアは今ごろ死んでいたし、そしたら僕とクリアは、こうやって仲良く食事をとることもできなかった。それを思えば当然の処罰だよ」
「いや、でも、さすがに今日の今日で逮捕して、いきなり処刑ってのは早すぎるだろ」
「逆だよ、クロウさん。大将軍に虜囚の辱めを受けさせる方が問題になる。処分は可能な限り早い方が、大将軍のプライドのためにも、国の安定のためにも最善なんだ」
「あっ、そういうことか……」
ハーキーの言葉を聞いて、九郎は一瞬で腑に落ちた。
「サザランはアルバカンと戦争中だから、内部のゴタゴタには早くケリをつけたいってわけだな」
「まあね。それより、君はかなり理解力が高いね。クリアから聞いてはいたけど、こんなに若い女の子が僕と同じ考えを持っていたなんて、かなり驚いたよ」
「同じ考え?」
九郎はわずかに首をかしげた。
ハーキーはクリアにフォークを向けて言葉を続ける。
「クリアから聞いたよ。僕がアルバカンに攻め込まない理由は、君の想像どおりだ。君はアルバカンの人間を毒だと表現したそうだが、僕もまさに同じことを思っていた。アルバカンの土地は、アルバカンの人間に治めさせるのが得策だと思う。だから僕は国境に近いこの街で、次のアルバカン王が決まるのを待っているんだ」
「なるほど、それが真の狙いか。アルバカンの新しい王様が決まれば、国家間の交渉ができる。あんたはその交渉で、サザランに有利な和平条約を締結し、事実上の敗戦国であるアルバカンから、可能な限りの賠償金を引き出すつもりだな」
「ご明察」
ハーキーは左目でウインクして、パイを一口ぱくりと食べる。
「やはり君は、ただの一般人ではないようだ。国家の視点を持てる人間なんてそうはいないからね。しかも君は、僕を殺さないと死んでしまう呪いをかけられているという話なのに、なぜか僕の命を奪うことをためらっている。さて、これはまたずいぶんと奇妙な話だが、総合的に考えると、君の正体には一つだけ心当たりがある。どうかな、クロウさん。僕の予想は当たっていると思うかい?」
「あー、はいはい、聞くまでもなく大当たりだろ」
九郎は左右の手のひらを上に向けて、大げさに肩をすくめる。
「たしかにオレは、アルバカンのアホな王様に召喚の儀式で呼び出された救世主だ。しかも魔法の契約で、あんたを殺さないと死んでしまうという条件を精神体に刻まれた、哀れな子羊さ。ほんと、はた迷惑な話だよ」
「やはりそうか。アルバカンの国王、チャブル・パーキンにはずいぶんと手を焼いたが、死んだ後も多くの人に迷惑をかけ続けるなんて、あれは筋金入りの疫病神だね」
二つ目のパイを食べ終えたハーキーは、
フォークを置いてコーヒーを静かにすする。
「――さて、クロウさん。そこで一つ、僕と取引をしないかい?」
「取引?」
「そう、取引だ。君は僕を殺さないと死んでしまう。しかし、さっき見たとおり、僕は常に無数のアミュレットで命を守っている。これでは、君の暗殺が成功する可能性はほとんどない」
「……たしかにそうだな。かなり絶望的だ」
「だけど君は、クリアの命を救ってくれた。そして、僕に対するクリアの誤解を解いてくれた。だから僕は、その行為に対するお礼として、君に取引を提供しようと思う。君が僕の出す条件を飲んでくれたら、僕はサザラン帝国の総力をもって、君の魔法契約を解除する方法を探すと約束しよう」
「……はあ?」
九郎は思わず、金髪の皇帝をまじまじと見つめた。
「魔法契約の解除って……そんなことができるのか?」
「うん、それは分からない」
「なんじゃそりゃ」
にこりと微笑んだハーキーを見て、九郎はがっくりと肩を落とす。
「分からないって、それじゃ意味ねーじゃねーか」
「まあまあ、話は最後まで聞いてほしい。僕は魔法について詳しくは知らないが、この街にいる部下の一人がとても熱心に魔法を研究しているんだ。彼に相談してみたら、もしかすると君の魔法契約を解除することができるかも知れないと思ったんだ」
「ああ、なるほど。魔法の研究者に相談するってことか。その方法はちょっと思いつかなかったな……」
言って、九郎はアゴに手を当てて思案する。
(……うん、言われてみると、それはアリかも知れない。ケイさんの話だと、契約者がそろっていれば、魔法契約の解除はけっこう簡単にできるらしい。しかしオレの場合は、アルバカンの国王が死んでしまったから、通常の方法では解除できないと言われた。大賢者なら一方的に解除できるそうだが、マータは鉄になってしまったから頼めない。それで仕方なくサザランの皇帝を暗殺しにきたわけだが、魔法の研究者に相談するというアイデアは悪くない。病気にかかったら病院に行くのと同じで、魔法のことは魔法のプロに相談するのが一番に決まっている。しかも、サザランの皇帝が推薦するほどの研究者なら、もしかするとケイさんも知らない方法を教えてくれる可能性はじゅうぶんにある。
……うん、たしかにそうだ。
大賢者に可能なら、他にできる人間がいてもおかしくはない。それに、魔法契約を交わした相手が不慮の死を遂げるということは、確率的にそう低くはないはずだ。ということは、オレ以外にも魔法契約を一方的に解除したいヤツらは必ずいるし、これまでにもいたはずだ。そして、そいつら全員が大賢者に頼みに行くというのは考えにくい。となると、この世界には二万年以上の歴史があるんだから、きっとどこかに何らかの救済措置があるはずだ。だったら、魔法研究の第一人者に相談するのは、悪くないどころか最善の一手かも知れない……)
「――そうだな」
考えをまとめた九郎は、目に力を込めて若き皇帝をまっすぐ見つめる。
「ハーキー・サザラン。あんたの提案は現実的だ。試す価値はじゅうぶんにあると思う。あとはそちらの条件を、オレが飲めるかどうかが問題だ。どうせ一筋縄ではいかない条件だろうが、いったいどんな無理難題を吹っ掛けるつもりだ?」
「いやいや、それほど難しい問題じゃないよ。ただちょっと、図書館の掃除を頼みたいんだ」
ハーキーは指を一本立てて左右に揺らす。
九郎はその仕草を見て、怪訝そうに眉を寄せる。
「図書館の掃除だと?」
「まあね。君には、あそこの大掃除をしてほしいんだ」
言って、ハーキーは残りのコーヒーを一息に飲み干した。