第五章 6
(……なるほど。たしかにコツメが言ったとおり、馬車はどれも六人ほどしか乗れそうにない大きさだな)
街道の右端に停まっている馬車の脇を歩きながら、九郎は横目で観察した。
(御者は中年の男性が一人ずつ。どう見ても普通の村人だな。幌付きの荷車の中には、三人から四人の男が座っている。こちらも村人っぽい格好だが、どいつもこいつも剣や槍を握っていやがる。こいつはちょっと、剣呑な雰囲気だな……)
九郎は不意に先頭馬車の横で足を止め、明るい声で御者の男に声をかけた。
「こんちは、おじさん。何でこんなところで止まってんの?」
「うん?」
御者は九郎に気づくと、軽く手を上げて口を開いた。
「ああ、こんにちは。ここに止まってるのは、お客さんに頼まれたからだよ」
「客?」
「ああ。ワシらは貸し馬車だからな。今は団体客をサザリスまで送る途中なんだ」
御者は、荷台に座る男たちに親指を向けて言った。
「へぇ、そうなんだ。貸し馬車ってもしかして、ここまで来る途中の村の?」
「ああ、そうだよ。どういう客だかよく分からんが、この辺の村の馬車を全部借り上げて、ここまで来たんだ」
(なるほど。こいつらが、あのはた迷惑な団体客ってわけか)
九郎は一列に並ぶ馬車を軽くにらみつけ、また御者に訊く。
「それで、何でこんな何もない道の真ん中にいるんだ?」
「それなんだが、雨が心配なんだとさ」
「雨?」
御者が灰色の空を指さしたので、つられて顔を上げて天を眺める。
「うーん……言われてみると、たしかに雨が降りそうな気配だけど、だったらさっさと次の村まで走った方がいいんじゃないか?」
「ワシもそう言ったんだがね」
御者は軽く肩をすくめた。
「なぜか知らんが七台だけ先に行かせて、ワシらはここで待機だとさ。お客さんたちは今、一つ後ろの馬車に集まって、先に進むか後ろに戻るか相談している最中らしい」
「ふーん、そうなんだ」
言いながら、九郎は二両目の馬車に目を向ける。
するとたしかに、何人かが額を寄せ合って話し込んでいる。
「それでおじさんは、雨が降ると思う?」
「そうさなあ……この雲行きだと、まだ五、六時間は平気かな。たぶん、陽が沈むころには降り始めるだろ。お嬢ちゃんたちは急いだ方がいいな。少し急げば、次の村までぎりぎり間に合うから」
「そっか。分かった。ありがと、おじさん」
「はいよ。気をつけてな」
九郎は礼を言って歩き出した。
しかしすぐに足を止めて、御者の方を振り返る。
「そうだおじさん。この辺の名物料理って、何かあるかな?」
「名物料理? そうさなあ、この辺は田舎だから、特に気の利いたものはないが、この先の村に行くなら、アシュボラが美味いぞ」
「アシュボラ?」
「ああ、アシュボラってのは、じゃがいもを煮込んだトマトスープに、パンをつけて食べる料理だよ。どこか南の国の郷土料理らしいが、こいつがまた、えらく美味いんだ。特にこの先の村はチーズ造りが盛んでな、パンの中にチーズが入っているんだが、それをとろとろのスープにつけて食べると、もう病みつきになること間違いなしってなもんだ」
「おおっ! それはぜひとも食べてみたいっ! おじさんありがと。ちょっとアシュボラ、食べてみるよ」
「はいよ。それじゃな」
九郎は軽く頭を下げて、今度こそ振り返らずにまっすぐ歩く。
そして、馬車が見えなくなるほど離れたところで棍棒を分解し、
腰の後ろの鞘に納めた。
「なあ、コツメ。さっきの団体客は、何だと思う?」
「うむ。あれはおそらく傭兵だ。ヤツらの剣と槍は、それなりに値が張るものだ。手入れもじゅうぶんにしてあった」
「やっぱ、そうだよな」
淡々と答えるコツメに、九郎も首を縦に振る。
「だけど、ヤツらの狙いはオレたちじゃない。さっき、カマをかけていきなり振り向いてみたが、誰もオレたちを見ていなかったからな」
「うむ。御者を除くと全部で二十一人だったが、誰もこちらに敵意は持っていなかった。あいつらの狙いは分からないが、無視していいだろう」
コツメの言葉に、オーラは残念そうに肩をすくめる。
「ちぇ~、なーんだ。せっかく気合い入れてたのによぉ」
「いいじゃないですか、オーラさん。それよりわたし、早くアシュボラを食べてみたいですぅ。まだお昼前なのに、もうお腹がすいてきちゃいましたぁ」
「おうっ! それもそうだなっ! 今夜はアシュボラで一杯やるぞぉ!」
「おーっ!」
オーラとクサリンは意気投合し、こぶしを曇天に突き上げた。
九郎は思わず、苦笑いを浮かべてクサリンに言う。
「いやいや、クサリンにお酒はまだ早すぎるだろ。この前飲んだみたいな、アルコールが抜けたホットワインで我慢しとけ」
「えぇ~。わたしもビールを飲んでみたいですぅ~」
クサリンは小さな唇を尖らせて抗議する。
九郎は揺れ動く短いツインテールを指で弾いた。
「いやいや、ビールなんて別に美味くも何ともないんだぞ? 特にこの辺のビールは基本的に生温いし、のどごしだっていまいちだからな。あれを飲むくらいなら、コーヒーを飲んだ方が――」
「おいこら、クロウ。ちょっと待てや」
不意にオーラが足を止めて、九郎を真正面からにらみ下ろした。
「ビールが何だと? テメーは今、ビールがマズイって言ったのか? あたしの大好きなビールちゃんをけなしたのか? それはつまりあれか? あたしの好きなモンをけなすってことは、あたしにケンカ売ってるってことだよなぁ? ケンカ売ってるってことは、死ぬ覚悟があるってことだよなぁ? 死ぬ覚悟があるってことは、ぶっ殺されても文句は言わないってことだよなぁ? だったらテメー、今すぐここで死んでみるか? いっぺん死んでみたいんだよなぁ? あぁん?」
「あ? あんだとこのヤロウ」
鬼のような形相でにらんでくるオーラに、
九郎も鼻の頭を押しつけながらにらみ返す。
「いきなり何言ってんだ、テメーはよ。たかがビールごときでいきなりキレてんじゃねーぞコラ。この前はテメーの魔剣を放り投げたオレが悪かったから黙っていたが、飲み物ごときでイチャモン付けられる覚えはねーんだよ、このボケが。しかも何だ? その頭の悪い三段論法は。テメーは結局、ぶっ殺すって言いたいだけじゃねーか。だったらいいぜ、ほら、やれるもんならやってみろよ、このヘボ魔剣士が。そもそもヒト様にテメーの好き嫌いをいちいち押しつけてんじゃねーよ、このダボが。どんだけ怒りの沸点が低いんだよ、テメーはよぉ。そっちこそオレにケンカ売ってんなら、ぶっ殺される覚悟でかかってこいや。あぁ? おらおら、どうした、オーラさんよぉ。さっさとご自慢のケンポーパンチを撃ってみろよ。おうコラ――おっぶろぼぉーっっ!」
言ってる途中でオーラがいきなり九郎の腹をぶっ飛ばした。
九郎は胃液を吐きながら宙をすっ飛び、路上に倒れて転がった。
ダンゴムシのように丸まった九郎に、
オーラはこぶしの骨を鳴らしながらゆっくりと近づく。
そして、地獄の炎を宿した瞳でにらみ下ろす。
「おう、どうだクロウ。これがあたしのケンポーパンチだ。あんだけでかい口叩いたんだから、一発じゃ物足りねぇだろ。おかわりならいっぱいあるから、冥途の土産にたっぷり味わってくたば――うっぼろぶぁっ!」
今度はオーラが、いきなり腹を押さえてその場に倒れた。
「もう、二人とも、いきなりケンカなんかしないでくださぁい」
不意にクサリンが小さな頬を膨らませた。
二人から少し離れた場所に立っているクサリンは、
緑色の金属ステッキを九郎に向けていた。
ステッキの周囲にはどす黒い魔法陣が渦を巻き、
あふれ出すヘドロのような暗黒が、
ボコボコと泡を立てて不気味な黒い煙を噴き上げている。
「く……クサリン、これは……?」
倒れていた九郎が立ち上がり、きょとんとした表情で腹をさする。
「な……何が何だか分からんが、さっきまでの激痛が嘘みたいに消えている……。まさかこれがハトバクなのか?」
「はぁい、そのとおりですぅ」
クサリンはにっこり微笑み、どす黒い魔法陣ごとステッキをくるりと回した。
「ぃよぉーしっ! よくやったクサリンっ! 今度はこっちの番だオラァーッ!」
九郎は唐突に気合いを放ち、一瞬で棍棒を組み立てる。
そしてそのまま風を切って大きく振り回し――
すくい上げるようにオーラの腹を叩き上げた。
そのとたん、胃液を吐いて苦しんでいたオーラが宙に浮いて転がった。
赤毛の剣士はさらなる激痛に苦悶の声を吐き散らし、
息も絶え絶えに白目を剥いた。
次の瞬間――クサリンがオーラにステッキを向けて呟いた。
「――ハトバク」
「おっぼぉぅーっ!」
九郎が再び胃液を吐きながらもんどり打ってその場に倒れた。
さらにそのまま、茹でた海老のように体を丸めてもだえ始める。
「もぉ~、二人とも、いい加減にしてくださぁい」
クサリンは小さな頬をぷっくりと膨らませて二人をにらみつけた。
そして、どす黒い魔法陣を浮かべたステッキを左右に振りながら、
向かい合って倒れている九郎とオーラの頭上にしゃがみ込む。
「いいですかぁ? 今度殴り合いのケンカをしたら、下痢が止まらなくなるお薬を飲ませますからね? わかったら、今すぐ仲直りしてくださぁい」
九郎とオーラは、顔面から脂汗を垂れ流しながらお互いを見た。
そしてほぼ同時に震える右手をゆっくり差し出し、
固い握手を交わしてうなずく。
さらにそのままダメージが回復するまで、二人仲良く地面の上で動きを止めた。
「――いやいや、まったく、ひどい目に遭ったぜ……」
再び歩き出した九郎がぽつりと言った。
「見た目は美少女の仲間同士が、いきなりガチの殴り合いを始めるとか、普通あり得ないだろ」
「いやぁ、ごめんごめん」
九郎の横を歩くオーラが、にっかり笑って頭をかいた。
「悪いな、クロウ。あたしってさ、昔っからこうなんだよねぇ。普段はあんまり腹が立たないのに、好きなものをけなされたら、なぜか急に殺したくなっちゃうんだよ」
「いやおまえ、そんなあっさり殺したくなるとか言うなよ。マジで怖いぞ……」
九郎は腹をさすりながら、じっとりとした目つきでオーラを見る。
「だけどまさか、マジでぶっ飛ばされるとは思いもしなかったぜ……」
「あたしだって、まさか棍棒でぶん殴られるとは思わなかったけどな。だけどまあ、今日のところは引き分けってことにしといてやるよ。あたしと本気で殴り合うヤツなんて、久しぶりだからな」
オーラは嬉しそうに微笑み、九郎の肩をこぶしでつついた。
「まったく……。ケンカしてもすぐに水に流せるそういうところは、正直尊敬するぜ」
「そんなの当たり前だろ。一つ気に食わないところがあっても、それで全部が嫌いになるわけじゃないからな。あたしはたぶん、クロウのことを嫌いにはならないと思うぞ」
「そうかそうか。そいつはどうも、ありがとさん」
言って、九郎は一つ息を吐き出す。
それからふと、オーラに指を向けて訊いてみた。
「そういえばオーラ。おまえ、年はいくつなんだ?」
「え? 年って、あたしの年齢か?」
「そうだ。よく考えたら、おまえとコツメの年齢を聞いてなかったからな。オレの体は一応十六歳で、クサリンは十三歳だろ。おまえたちは?」
「あたしは、十八だけど」
「自分はこの前、十七になったばかりだ」
オーラに続いて、コツメも淡々と口にした。
「ほほう、なるほど。それじゃあ全員、見た目どおりの年齢ってわけだな。ああ、でも一応言っておくけど、あとになって本当は年齢を誤魔化していましたー、っていうオチとかナシだからな」
「おう、当たり前だろ」
「はははははははひっ。そそそそそそそんなの当然ですよぉぉぉ」
「うむ。苦しゅうない」
「はい、よーし。毒ロリ娘はあとで職員室に顔を出せ」
九郎は緑色の髪の毛をじろりとにらむ。
するとクサリンは眼球を左右に泳がせながら、
小さな両手をわなわなと横に振って九郎を見上げる。
「どどどどうして、わわわわたしだけ、よよよ呼び出しされなくちゃいけないんですですかぁ?」
「まあまあ、落ち着け、クサリン。まだ慌てるような時間じゃないからな」
九郎はショートポニーテールを指でつまみ上げ、言葉を続ける。
「いいか? おまえが本当は十二歳とか十一歳とか、十とか九とか八とか七とか、六とか五とか四とか三とか、二とか一とかゼロなら許す。そりゃあもう全力で許してやる。ンなぜならば、実際の年齢より上にサバを読む女は許していいという、大宇宙の法則があるからだ。ンだがしかぁーしっ!
『クサリン十三歳、かっこ、三周目、かっことじ』
とかなら、オレたちはもぉ絶対に許さないっ! そりゃあもぉっ! ン絶対に許さないっ! ちなみにオレたちというのはこのオレとぉっ! 掲示板に常駐している『おまえら』という名の荒ぶる神々のことだぁーっ! わかったかぁーっ! ンわぁかったかぁーっっ!」
「あうぅ……あうあう……あうあうあうぅ……」
怒鳴られたクサリンは、大粒の涙をこぼして泣き出した。
「あうぅ……そんなにおおきな声で怒鳴らないでくださぁい……あうぅ……あうあうあうぅ……」
足を止めて小さな肩を震わせ始めたクサリンを見て、
九郎は、はっと我に返った。
「ああ、悪い、クサリン。つい調子にのって、思わずでかい声を出しちまった」
九郎は慌ててローブのポケットからハンカチを取り出し、
クサリンの涙に押し当てた。
「まさかそんなに泣くとは思わなかったんだよ。ほんと、オレが悪かったよ。ごめんな」
「はひ……。だけどもう、怒鳴らないでくださぁい……」
クサリンはハンカチを受け取り、下を向いて涙を拭き取る。
そして両手で顔を隠しながら、口元をニヤリと歪ませた。
するとその時、不意にコツメが淡々と言葉を漏らした。
「……おい、クロ。また馬車が見えてきたぞ」