第五章 4
「――ぬぅ、やばい。このままだと、イゼロンまで七日はかかりそうだ……」
とっぷりと日が暮れた暗い森の中で、
九郎はたき火の灯りで地図を見ながら呟いた――。
ラッシュの街を飛び出した九郎たちは、
ほぼ休みを取らずに森の中を西に向かってひたすら逃げた。
途中で警備兵らしき一団の声が追ってきたが、
獣道すらほとんどない森の中で、追いついてくる者は一人もいなかった。
そうして月が昇るまで歩き続けた四人は、
小川のほとりに窪地を見つけて足を止める。
コツメとオーラとクサリンはすぐさま食料の調達へと向かい、
九郎は小さなたき火を熾し、地図とのにらめっこに没頭していた。
「――おうっ! クロウ! 戻ったぞ!」
「お、ご苦労さん」
不意に森から戻ってきた三人娘に、九郎は立ち上がりながら顔を向けた。
「どうだった? 何か食べられそうなものは見つかったか?」
「おうっ! バッチリだ!」
言って、オーラは左手に握った獲物を九郎に向ける。
それは丸々と太ったウサギだった。
九郎と目が合うと、つぶらな黒い瞳がぱちぱちとまばたいた。
「う……ウサギっすか……」
「自分も獲ってきたぞ」
「わたしもですぅ」
微妙に渋い表情を浮かべた九郎の前に、
コツメとクサリンも手にしたものを差し出してきた。
コツメは二羽の生きた鴨。
クサリンは袋にいっぱい詰まったキノコだ。
逆さ吊りにされて首を小刻みに動かしている鴨を見たとたん、
九郎は顔面をわずかに引きつらせた。
「おお、鴨とキノコか……。なかなか大猟っすね……」
「む? どうした、クロ。何だか少し、顔色が悪いぞ」
「い……いや、何でもないっす……。それより、そのウサギと鴨は、今から絞めるんだよな……?」
「おうっ! やりたいんならクロウに任せるぞっ!」
オーラが元気いっぱいにウサギを突き出してきた。
その純粋無垢な瞳から、九郎はすっと目を逸らす。
「……いえ、ご厚意は大変ありがたいのですが、今日のところはご遠慮させていただきます。実はワタクシ、ウサギと鴨のビフォーアフターは好きですが、途中経過には少しばかりアレルギーがあるのでございます。そういうわけで、調理は皆さま方にお任せいたしたく存じます。というか、マジかんべんしてつかぁさい……」
「ふーん、そっか。それじゃ、さばくのはあたしたちがやるよ。クロウはお湯でも沸かしといてくれ」
「イエス・マム……」
オーラとクサリンとコツメは、
和やかに談笑しながら小川にまっすぐ向かっていく。
九郎もすぐにブリキのポットを二つ持ち、
川辺に移動して腰を下ろす。
そして、目の細かい布を被せて水を汲み、
アタターカの魔法で念入りに煮沸する。
するとその時、下流で話す三人娘の声が聞こえてきた。
「――それじゃあ、オーラさん、コツメさん。しっかり押さえていてくださいねぇ」
「おう、任せろ」
「うむ、苦しゅうない」
「それじゃ、いきますよぉ。――えい、えい、えい」
クサリンの小さなかけ声。
その直後、ウサギと鴨の小さな鳴き声がかすかに漏れて、瞬時に途絶えた。
「おう、クサリン。なかなか上手いじゃないか」
「うむ、見事な手際だ。今のは苦しゅうなかったぞ」
「えへへぇ。これでも薬師のはしくれですからねぇ。森での生活にはけっこう慣れているんでぇす。それじゃあ、ウサギの血抜きをしながら、その間に鴨をさばいちゃいましょうかぁ」
「おう。血抜きはあたしがやるよ」
「では自分は、クサリンと一緒に鴨をさばこう。調理方法はどうする?」
「そうですねぇ……。みなさん、お腹が空いていると思うので、モツを焼いて食べながら、お肉とキノコでスープを作るのはどうですかぁ?」
「おう、いいねぇ。モツ焼きは大好きだからな。水洗いはあたしに任せな」
「自分も異論はない。レバーを団子にして、スープに入れてもいいだろう」
「あ、それはいいですねぇ。風味付けのハーブがあるので、ハーブ団子にしたらきっと美味しいと思いますぅ。それじゃあ先に、内臓を引っこ抜いちゃいましょうかぁ――」
和気あいあいと話す三人娘。
その声に、九郎は思わず小さくうなった。
(……うーむ。さすがはリアル中世ファンタジー……。見た目は可愛らしい十代の少女たちが、和やかにウサギと鴨を屠殺して、ジビエ料理を作っていらっしゃる……。まあ、生きるためには、むしろあれが当然と言えば当然なんだが……。しかし、クサリンの声が、普段よりやたら生き生きしているのが気になるな……)
暗い川辺で九郎は一人、小さな息を吐き出した。
それからすぐに湯を沸かし、たき火に戻って腰を下ろす。
そして太い枝をナイフで削り、肉を刺す串と、人数分の箸を作り始める。
しばらくして、三人娘がさばいた肉を持って戻ってきた。
九郎は串に内臓肉を刺して焼き、
その間にクサリンがポットの一つでスープを作る。
四人は焼けた肉に岩塩を付けて頬張りながら、キノコスープの完成を待つ。
「おおっ! このホルモン、めちゃめちゃ美味いなっ!」
新鮮な肉の味に、九郎は思わず目を見開いた。
「何だよ、クロウ。そのホルモンって」
「うん? ああ、オレの故郷ではこういう内臓肉のことを、バラエティーミートとかホルモンって呼ぶ地域があるんだよ。ホルモンってのは、精力をつけるとか、体を健康にするとか、そういう意味合いが込められた言葉なんだ」
「へぇ~、なるほどねぇ。たしかにこいつを食うと、体の中から元気が湧いてくるからな」
オーラはうなずき、肉汁が滴る串にかぶりつく。
すると横からクサリンが、ブリキのお椀を配りながら口を開く。
「そうなんですかぁ。ここら辺ではモツとしかいいませんけど、地域によっていろいろな呼び方があるんですねぇ。――はい、スープができましたぁ」
「お、サンキュー」
布の上に置かれたお椀を受け取り、九郎は目を輝かせた。
白い湯気が立ち昇る透明なスープに、大きな肉とレバーの団子、
ざく切りキノコがごろごろと入っている。
四人は黙々とスープを平らげ、余りの肉も焼いて食べた。
「いやぁ、肉もスープも美味かったなぁ。ご馳走様でした」
食後に全員の食器を洗ってきた九郎が、たき火の前に腰を下ろして一息ついた。
するとクサリンが、ポットで作ったハーブティーをブリキのカップに注ぎ、
九郎の前に差し出してきた。
九郎は熱い茶をゆっくりすすり、ほっと白い息を吐く。
そして、雲一つない夜空を見上げてぽつりと言った。
「星空の下でたき火を囲んで、肉を焼いてスープを食って、ブリキのカップで茶を飲むか……。こいつはなかなかのファンタジーだな。これでマシュマロがあれば文句なしだぜ」
「む? 何だ、クロ。その、イチゴのマシマロと言うのは」
「いや、イチゴは言ってねーだろ」
九郎の手が、反射的にコツメの肩を軽く叩く。
「それにマシマロじゃなくて、マシュマロな。マシュマロって言うのは、一口サイズのふわふわした甘いお菓子のことだ。そいつを串に刺して、たき火で焼いて食うんだよ。そうすると、ふわふわがトロトロになって、めちゃくちゃ美味いんだ。アメリカだと、焼いたマシュマロを、板チョコと一緒にグラハムクラッカーで挟むのが定番らしい。たしか、スモアって言ったかな? あれはまだ食ったことがないから、いつかやってみたかったんだよなぁ」
「ほう、マシマロとはお菓子のことだったのか。何やら若い女どものイメージが流れ込んできたから、またアニメかマンガの話かと思ったぞ」
「はい、すいません。お菓子のことです。イチゴは百パーセントありません。ただのお菓子の話題です。可愛いなんて、そのようなことはまったく思っておりません。というか、おまえの心波は、どんだけ心の深いところまで読み取ってんだよ。そんなイメージ、オレはチラリとも思わなかったぞ」
「ふむ、茶を飲むか?」
コツメは九郎の言葉を聞き流し、ポットを手に取って全員に訊く。
「……また、そのパターンか。でも、いただきます」
「おう、それじゃあたしも」
「わたしも、もういっぱいくださぁい」
四人のカップに、コツメは静かに茶を注ぐ。
それから自分も一口すすり、口を開く。
「それでクロ。明日はどうするんだ」
「ああ、そうだな。そのことなんだが――」
九郎は両手でカップを包み、白い湯気を見つめながら言葉を続ける。
「オレたちは今日、ほぼ丸一日かけて森の中を西に進んできた。地図の上では、既にサザラン帝国の領土に入っている。ここまで来ればラッシュの警備兵も追ってこないはずだ。そしてこのまま森の西側を抜けて街道に出れば、イゼロンまでは七日で到着する。だから、明日はまず――南東に向かう」
「はあ? 南東?」
オーラが首をひねって九郎を見つめた。
「おいクロウ。南東はラッシュの街の方角だぞ。せっかくここまで来たのに、逆に戻ってどうするんだよ」
「理由は二つある。一つは追手から逃げ切ること。もう一つは移動時間の短縮だ」
九郎は指を二本立ててオーラに言う。
「いいか? ラッシュの警備兵だってバカばかりじゃない。森の中で見つからないなら、馬で先回りして待ち伏せするぐらいの知恵はある。犯罪の容疑者を捕まえるためという名目があれば、サザラン側も文句は付けないだろうからな。つまり、このまま西に進むと警備兵に捕まる可能性が高いってことだ。だからオレたちは裏をかいて南東に進み、南の街道に出る。そして近くの村で馬車を借りてイゼロンに向かうんだ。そうすれば、遅くても四日後にはたどり着けるはずだからな」
「おお、なるほど。後ろに進むのに早く到着するという理屈がよく分からないが、何となく分かった。そういうことならクロウに任せるよ」
オーラは腕を組んで、うんうんとうなずいている。
するとクサリンとコツメも口々に同意する。
「わたしも、それでいいと思います」
「自分も異存はない。ただし、慎重すぎるとは思うがな」
「そりゃあ慎重にもなるさ。オレたちは既に一度、死にかけてるからな」
言ったとたん、首をかしげた三人に、九郎は続けて口を開く。
「このまえ、盗賊たちに囲まれた時のことだよ。あの時、チャッタさんたちが駆けつけて来なかったら、オレたちはたぶん殺されていた。あの状況で生き残れたのはただのラッキーだし、あんな幸運が二度も三度も起きるはずがない。認めたくはないが、オレは盗賊をなめていたんだ」
言って、一つ息を吐く。
「盗賊なんて、暴力を振るうしか能のないヤツらだ。そんなバカどもなんか、どうとでもなるだろうと思っていた。だけどそれは間違っていた。盗賊だって、生きるために必死なんだ。盗賊だけじゃない。ラッシュの警備兵だって、生活のために体を張っている。どんな人間でも、その気になれば頭を使って行動するし、武器を持てば、どんな強い相手にだって勝てる可能性を持っている。つまり、この世にはザコキャラなんていないんだ。どれだけ弱そうな相手でも、なめてかかればこっちがやられる。この世界で生き延びるには、一つひとつ慎重に行動しなくちゃいけないんだ。特にオレみたいな、しょぼい魔法しか使えない人間は、足りない知恵を振り絞ることしかできないからな」
九郎はブリキのポットに手を向けて魔言を唱えた。
黄色い魔法陣が浮かび上がり、
冷めかけていた茶が再び白い湯気を上げ始める。
「……そうですねぇ。たしかにクロさんの魔法は、ちょっとしょぼいですからねぇ」
不意にクサリンがくすりと微笑み、ポットを手にして自分のカップに茶を注ぐ。
「おう。たしかにクロウの魔法はしょぼいよな」
「うむ。クロの魔法はたしかに苦しゅい」
「おいこらコツメ。苦しゅい、って何だよコラ」
九郎はコツメの肩を軽く叩き、頬を緩める。
するとオーラもにっかり笑い、コツメもわずかに口角を上げた。
「ま、そういうわけで、オレの基本方針は、命を大事にすることだ。そして無事に魔王を倒したら、いろんな街を回って美味いものを食べ歩く。それがファンタジーの醍醐味だからな」
「おう、そいつはいいな。でも、ダンジョンも忘れないでくれよ?」
「はいはい。天空回廊だろ。ちゃんと覚えているよ」
九郎は軽く肩をすくめて夜空を指さし、オーラに言う。
「でもなぁ、空に浮かぶダンジョンなんか、そうそう行けるもんじゃないだろ。そんなにダンジョンに行きたいのなら、もっと近場にしろ。どっかの村の奥に、初心者向けのダンジョンとかないのか?」
「それならクロさん。イゼロンの南東にある天冥樹はどうですかぁ?」
「天冥樹?」
九郎が訊くと、クサリンは首をこくりと縦に振る。
「はぁい。あそこなら他のダンジョンよりも近いし、わたしも一度いってみたかったんですよねぇ。すっごく大きな樹の中がダンジョンになっていて、そこにしか生えない珍しいキノコがいっぱいあるんですぅ」
「つまりクサリンは、キノコ狩りがしたいわけだな?」
「はぁいっ!」
(うーむ、何という最高の笑顔……)
満面の笑みを見せたクサリンに、九郎は軽く苦笑いを浮かべて言う。
「はいはい、分かった分かった。そういう行楽地っぽいダンジョンなら、それほど危なくもないだろ。とりあえず魔王を倒したら、腕試しに一度行ってみるか。オーラもコツメもそれでいいな?」
「おうっ! あそこの一階はただの観光地だけど、あたしも一度は行ってみたかったからなっ!」
「自分も異論はない。そのダンジョンのことは知らないが、観光地なら美味い料理もあるだろう」
「よし、決まりだな。それじゃあ今夜は早く寝て、明日は太陽が昇る前に出発するぞ」
言って、九郎は話を締めくくる。
そして四人は歯を磨いて岩塩で口をゆすぎ、たき火を囲んで眠りについた。