第四章 10
「――とは言ったものの、実はオレ、モンハンって一度もやったことないんだよな」
早朝の薄暗い森の中、九郎は自分の両手に白い息を吐きかけた――。
前日、木の杭と落石の罠を仕掛けた九郎たちは、
キノコと山菜の煮込みスープで硬いパンを食べて、すぐに寝た。
そして陽が昇る前に目を覚まし、それぞれの配置場所に移動する。
オーラは細い河原で杭に結んだロープを握り、
クサリンは坂道の上に仕掛けた岩の陰でナイフを抜いた。
九郎はコツメと二人で谷底の薄暗い森に入り、木の陰に身を潜ませる。
そして、河原にいる子どものガマを遠目に眺めながら言葉を交わした。
「……ふむ。そのモンハンという言葉の意味は分からないが、話から察するに、巨大な生き物を狩るということだろう。だったら経験がなくてもおかしくはない。あのガマザウルスと戦った人間なんて、そうはいないはずだ」
「そりゃまあ、そのとおりなんだけどさ……」
淡々と話すコツメに、九郎は渋い表情を向けて言う。
「オレはモンハンより、基本的にネクソ派だったからな。あのブタ女は毎日十八時間ぐらいバハったりグラブったりしていたが、普通のサラリーマンにそんな時間はないから、オレはまったりマビったり、ヒデオったりトスったりしてたんだ。だから一応、でかいモンスターに対する心構えならある」
「ほほう。クロは巨大モンスターとの戦闘経験があるのか」
「まあ、一応な。とりあえず黒と白のドラゴンならソロで倒したことがあるし、武器をぶんぶん振り回してマンモスやゴーレムを倒したこともある。だけどさすがに、リアルなダイナソーをガチでハントする日が来るとは思ってもいなかったぜ」
「ふむ。クロの言うことは相変わらずよく分からないが、ドラゴンを倒したことがあるというのは驚きだ。特にその白いドラゴンというのは、幻の大陸ソーラ・マヤに棲む天空竜のことだろう。あんな伝説級のドラゴンを倒したとはとても信じられないが、クロがそんなしょうもない嘘をつくはずがないからな。さすがは光の柱に選ばれた救世主だ。クロは本当に、ものすごい英雄だとよく分かったぞ」
コツメは静かな声で淡々と言った。
そのとたん、九郎はそっと顔を背けてぽつりと言った。
「さーせーん……。リアルでドラゴンを倒したことなんて一度もないっす……。ほんと、しょうもない嘘をついて、さーせんっした……」
「うむ、気にするな。そんなことは分かっている。本当に天空竜を倒した英雄なら、ガマザウルスなんて軽く倒しているはずだからな」
「…………」
九郎は奥歯を噛みしめ、こぶしを握りしめた。
(……ああっ! くそっ! 悔しいっ! ネトゲの話だから嘘じゃないのに、こっちの人間に通じないのがすっごく悔しいっ! そもそもネット環境がないなんて、地球と何千年のジェネレーションギャップがあるんだよっ! ああっ! もぉっ! こうなったら魔王を倒して産業革命を起こしてやるっ! そしてオレが窓とリンゴと呟きを開発して世界のすべてを支配するっ! そしたら南の島に移住するんだっ! 毎日オリオンなビアーを飲んで、ラフテー食ってソーキを食って、ミミガー食ってテビチを食って、おはようからオハヨーまで深夜アニメを見ながら余生を過ごすっ! それがオレのケミストリーだっ!)
「……む。クロ、そろそろ陽が昇るぞ」
九郎が一人でぶつぶつ呟いていると、不意にコツメが崖の上を指さした。
その一言で、九郎も、はっと顔を上げる。
すると、朝もやに霞む薄闇を、一条の光が切り裂いた。
「……よし、夜が明けたな。これより、ガマハン作戦を開始する」
九郎は桃色の長い髪を革紐で縛り、セーラー服の背中に垂らす。
そして、河原の大きな岩のそばにいる小さなガマを指さした。
「コツメ。ここからあの子どものガマまで、十秒の距離で間違いないか?」
「うむ。足場の悪さを考慮すれば、そんなものだ」
紫緋装束に身を包んだコツメは、目測しながら小さくうなずく。
「だったらおまえは、あそこまで十秒で行って、ガマを二秒で箱に入れて、十秒でここまで戻ってオレに箱を渡すんだ。そして呼吸を整えながらオレを追いかけてこい。あとは手はずどおりに進めるぞ。いいな?」
「分かった」
「よし。それじゃ、頼んだぞ」
「任せろ。――スバラン」
魔言と同時に、ブーツの周りに黒紫色の魔法陣が浮かび上がった。
コツメはすっと息を吸いながら走り出す。
足場の悪い森の中を、黒い風が滑らかに駆け抜けていく。
「……やはり早い」
九郎は思わず呟いた。
胸の中のカウントだと、コツメは八秒で河原に飛び出した。
そして二秒で子どものガマを箱に入れ、九郎の方に振り返る。
瞬間――岩の陰から灰色の巨体が飛び出した。
成体のガマザウルスだ。
昨日と同じ母親ガマは、
起き抜けだというのに機敏な動きでコツメの体に手を伸ばした。
しかし――コツメは既に走り出していた。
「――クロっ!」
やはり八秒で戻ってきたコツメが、息を切らしながら箱を放った。
「よくやったっ!」
九郎は箱を両手でキャッチ。
すぐさま森の奥にダッシュした。
直後、激しい破壊音が響き渡った。
肩越しにちらりと見ると、
ガマザウルスが森の木をなぎ倒しながら走ってくる。
昨日は短い腕で一本一本倒していたのに、
今朝は四足走行で森を一気に切り裂いている。
(やばいっ! あいつっ! スピードがほとんど落ちてないっ! いかんっ! これはマジで死ぬかも知れんっ!)
九郎は木の箱を抱きしめながら必死に逃げた。
大きな木を盾にしながら樹木の間を素早く駆け抜ける。
木の根を避けて岩を飛び越え、森の果てへと突っ走る。
すると――薄明りが射す石の河原が見えてきた。
(ぃよっしゃーっ! あとは河沿いだっ! 河沿いに一キロちょいっっ!)
息を切らしながら河原に飛び出し、さらにダッシュ。
直後――無数の木々をぶっ飛ばしながら、
ガマザウルスが森から飛び出してきた。
「えぇぇぇぇぇぇぇっ!? ひいぃぃぃぃぃっ! 木ぃっ! 木がーっ! 木がめっちゃ振ってくるぅぅぅーっっ!」
九郎は走りながら背後を見上げて目を剥いた。
ガマザウルスに飛ばされた木々が矢のように降ってくる。
九郎は慌てて河の方へと斜めに走る。
すると一瞬前にいた場所に細い木が突き刺さった。
朝もやを切り裂く木々は、さらに石の河原に次々と突き刺さっていく。
次の瞬間――木の一本が地面に激突して跳ね上がり、
いきなり目の前に飛び込んできた。
(うっそぉーんっっ!? こいつはやばいっっ! よけられんっっ!)
「――クロっっ!」
回避不能を悟った瞬間、横から鋭い声が飛んできた。
見るとコツメが並行して走っている。
九郎はとっさに箱を投げた。
コツメは位置と速度を調節して箱をキャッチ。
そのまま全速力で駆けていく。
九郎は瞬時に横に跳んだ。
襲いかかってきた樹木がギリギリで桃色の髪をかすめていく。
同時に河原に転がった九郎の横を、
ガマザウルスの巨体が地面を揺らしながら走り抜ける。
(やはり子どものガマを追いかけるかっ!)
九郎は転がりながら立ち上がった。
そのままガマザウルスを右後方から全力で追いかける。
四足で走る灰色の巨体はさらに加速。
紫緋装束の背中に跳びかかった。
瞬間――コツメが体を切り返し、左斜め後ろに逆走した。
さらに反射的に叩きつけてきたガマザウルスの腕をギリギリでかいくぐる。
直後――空振りしたガマザウルスが激しくすっ転んだ。
コツメは倒れてくる巨体を機敏にかわす。
そのまま毒イボのある背中を回り込み、九郎の方へと駆けてくる。
「――クロっ!」
「ナイスだコツメっ!」
コツメは箱を投げてまっすぐに駆け抜けた。
九郎はコツメと交差しながら箱をつかんでダッシュする。
すると――視界の果てに赤い革ジャケットの剣士が見えた。
大きな岩の上に立って魔剣をかざすオーラの姿だ。
オーラは片手に握った赤い剣を空に突き立て、左右に大きく振っている。
(ぃよっしゃぁぁーっっ! 三百メートルを切ったっっ!)
九郎は瞬時に距離を目測。
さらに首だけで背後を見る。
そのとたん、ガマザウルスと目が合った。
朝日にぬらりと輝く巨体が、むっくりと起き上がって追いかけてくる。
九郎は箱を強く抱きしめた。
力の限り足を動かし大地を蹴った。
崖沿いの細い河原に仕掛けた罠は――もう目の前だ。
(あと……二百……百五十……百メートルっっ!)
「うおおおおおおおおおおおおおおおーっっ!」
気合いを放ちながらラストスパート。
目の前には岩の上に立つオーラ。
岩の下には大きな木の杭が置いてある。
鋭い先端が九郎の方を向いている。
(来てるっ! 来てるっっ! あいつがすぐ後ろについて来てるっっっ!)
不気味な圧力が背中に迫る。
振り返らずとも大地を揺るがす震動で分かる。
岩のような巨体が真後ろにまで迫っている――。
その確信が九郎の口を突いて出た。
「――いいいいいいいいまだあぁぁぁぁーっっ!」
「おおぉぉーっっっ!」
合図とともにオーラがロープを全力で引き上げた。
大地から持ち上げられる鋭い木の杭。
その真横を九郎は風のように駆け抜けた。
そして大きくジャンプ。
オーラが立つ岩の上に跳び上がった。
直後――獣の絶叫が朝焼けの空に響き渡った。
「――やったかっ!?」
オーラの横で足を止めて反射的に振り返る。
するとそこには灰色の巨体が突っ立っていた。
大地から斜めに持ち上げられた木の杭が胸の真ん中に突き刺さっている。
巨大な獣は短い腕を振り回して悶えている。
「いやっ! まだだっ! 少し浅いっ!」
オーラはとっさにロープを手放す。
同時に腰の魔剣を手に取った。
さらに頭上を仰いで声を張り上げる。
「クサリぃーンっっ! いまだぁーっ! 岩を落とせーっっ!」
「よぉしっ! それで止めだっ!」
九郎とオーラはガマザウルスに目を向けた。
しかし――少し待っても岩はなかなか落ちてこない。
「おぉーいっ! クサリぃーンっ! 早く落とせぇーっっ!」
オーラが再び声を飛ばした。
九郎も頭上に目を向ける。
すると、地上数十メートルの崖の上、
ロープで固定された岩の近くにクサリンの姿が見当たらない。
オーラの目に苛立ちが走った。
「くそっ! あいつっ! こんな時にどうしたんだっ!」
「おい、オーラ! ガマザウルスが杭を抜こうとしているぞ!」
九郎は思わず目を見張った。
ガマザウルスが短い両腕で杭をつかみ、じりじりと後ろに下がっている。
「くそっ! このままじゃ倒しきれんっ! オーラっ! 今すぐあいつに攻撃だっ!」
「おうっ! 任せ……」
「――待ったっ!」
瞬間――ガマザウルスの脇を駆け抜けて来たコツメが鋭く言った。
「コツメっ!?」
九郎は反射的に目を向けた。
コツメは走りながら頭上を指さし、呟いた。
「――スバラン」
ブーツの周囲に黒紫色の魔法陣が浮かび上がる。
瞬間――コツメが一気に崖を駆け上がった。
黒い風が小太刀を朝日に煌めかせる。
そのまま岩を固定していたロープを瞬時に切断。
直後――崖から落ちた巨岩がガマザウルスを直撃した。
激しい落下音とともに土煙が立ち昇る。
砕かれた石の粉が舞い上がった。
「おおぉっ!」
「やったかっ!?」
オーラと九郎は土煙に目を凝らした。
次の瞬間――コツメが猛烈な速度で飛び降りてきた。
「――クロっっ! 上だっっ!」
コツメの声が谷底の空気を切り裂いた。