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第一章 2



「――いよぉし、よしよし、よーしよしっ! 今夜は焼肉パーティーだぁっ! はいっ! シュ! シュシュシュ! ポォウッ!」


 九郎は元気いっぱいにシャドウボクシングをしながら、

 駅の階段を駆け上がった――。



 弥生を実家の玄関先に転がした九郎は、口のダクトテープを引きはがし、

 記入・捺印しておいた離婚届を突っ込んだ。

 

 それから音成に最寄りの駅まで送ってもらい、

 混雑する上り方面のホームに駆け上がる。

 そして、かつてないほどの解放感に浸りながら、特急電車を待っていた。



「――ウーッ、ヘイ! YOYO! ヘイYOYO! ブタ嫁・出荷で・スッキリ・したぜっ! ヘイ! YO! ヘイYOYO! YEAH!」


 九郎は列に並んだまま、

 周りの視線を気にすることなく即興のラップを口ずさむ。

 そしてすぐにやってきた電車に乗り込んだ。



 車内は乗車率二百パーセントほどの満員だった。



 九郎は慣れた動きで人の壁をすいすいかき分け、奥へと潜り込んでいく。

 そのまま車両の中央付近まで進むと、

 横に長い座席の前に一人分のスペースが空いていた。


 

 九郎は速足で体を滑りこませ、両手で一つの吊り革につかまった。



(イエーイ、ラッキー。今日は朝からツイてるぅ~。やっぱアレだな。結婚と同時に離婚届を書いておいたのは正解だったな。気分が軽いと、運命まで絶好調な気がするぜ)


 一人ほくそ笑む九郎。

 すると、一分ほどで電車が動き出した。


 九郎はウキウキ気分で流行りのアニメソングを口ずさむ。

 そして、周囲の乗客の目を気にすることなく、思考に没頭していった。



(――うーん、いやいや。だけどほんと、参ったねぇ。まだ三十手前の若い身空で、ネトゲ廃人のゴミ嫁なんかと、これ以上一緒に暮らせるかっつーの。しかも、毎日順調にデブっていくって、あいつのDNAちょっとおかしいだろ。どこの巨人の末裔だよ。どっかの壁の中に百年ぐらい封印して、そのまま葬り去りたいレベルだぜ。……というか、結婚は人生の墓場ってよく言うけど、あのブタ嫁と同じ墓に入るなんて冗談じゃない。死んでいてもダッシュで逃げるぜ。オレはゾンビですか? いいえ、骨だけなのでスケルトンでぇーす。なんつって)



 脳内トークでクスクス笑い。

 周囲の乗客は目を逸らして軽く引き、九郎の周囲に隙間ができた。



(……だけど、それにしても、女があれほど急速に劣化するとは思いもしなかったが、いったい何なんだ、あの劇的ビフォーアフターは。たったの半年で四十キロ以上も体重が増えるって、どう考えてもおかしいだろ。あんなのほとんど詐欺じゃねーか。結婚失敗の達人たちは、『嫁を選ぶ時はそいつの母親を見ろ』ってよく言うけど、あれはどうやらマジだったな。あいつの母親もかなりデブっていたから間違いない。くそ……。愚か者は経験でしか学べないって言うけど、オレもその一人だったか……。でもさぁ、ほんと、あんなゴミ女と離婚するのにも金がかかるなんて、マジでやってらんねーなー、おい。世の中ちょっとおかしいだろ。嫁の体重が三十キロ以上増えたら、無条件で離婚できる法律とか作ってくんねーかなー、わりとマジで。こういうのって、どこに頼めばいいんだ? あとでちょっと、官房長官にでもメールしてみようかな――)



「ね……ねえ、ちょっとアンタ」


「――うん?」



 不意に声をかけられて、九郎は反射的に横を見た。

 するとなぜか、

 顔面を茶色に塗りたくった女子高生がじろりとにらみ上げている。


 九郎は思わずきょとんとした。



(……は? 何だこいつ? 茶色いメイクに、目の周りだけ真っ白? しかも長い髪をショッキングピンクに染めていやがる。これはどう見ても山形のヤマンバか、インドネシアの魔女だよな……?)



「何だおまえ。妖怪か?」


「んなっ!?」



 その瞬間、周囲の乗客全員が吹き出した。

 乗客たちは横を向き、肩を震わせながら笑いをこらえている。


 嘲笑の的になったミニスカセーラー服の女子高生は、

 茶色い顔を真っ赤にして、九郎をにらんで吠えかかる。


「だっ! だれが妖怪よっ! それよりアンタっ! わた……アタシのお尻を触ったでしょっ!」




「バカ言うな」




 九郎は瞬時に言い切った。


「いいか? 妖怪女子高生。オレはここに立った時から、両手で吊り革につかまっている。それでいったいどうやって、おまえのケツを触るんだよ。それ以前に、おまえみたいな妖怪のケツなんか、金をもらったって触りたくねーっつーの。自意識過剰も大概にしろ。このボケ。タコ。ヤマンバ。山行って穴掘って死ね」


「あっ!? 穴掘って死ねっ!? ひっ、ひどいっ!?」


 女子高生は、ぱっちりとした目をさらに見開いて声を張り上げる。


「とっ、とぼけないでくださいっ! あなた……アンタがアタシのお尻を触ったのを、この目でちゃんと見たんですっ! こっ、このヘンタイのチカンヤローっ! けっ、ケーサツを呼びますから、次の駅で降りてくださいっ!」



(はあ? 何だこいつ?)



 九郎は背の低い女子高生をじっと見つめた。

 それから呆れ顔で首を回す。


 周囲の乗客たちは、興味津々に九郎と女子高生を見つめていた。

 そのほとんどは好奇心丸出し。

 しかめ面、ニヤニヤ笑いもいくつかある。


 九郎は息を吐き出し、再び茶色い顔を見下ろしながら口を開く。


「なるほどな。警察に突き出すときたか。オーケーオーケー。そっちがその気なら、こっちもそれなりの対応をするまでだ」


 言って、九郎は意地悪そうにニヤリと笑う。

 そしてすぐに真面目な顔で、周囲の乗客に声をかける。


「あー、すいません。どなたかケータイで動画を撮ってもらえませんか? 今からオレの無実を証明しますので」


 するとほとんどの乗客が、素早く携帯電話を取り出した。


 ご協力ありがとうございます――と言いながら、

 九郎は無数のレンズに頭を下げる。

 それからすぐに、隣に立つスーツの中年男性に顔を向けた。



「それじゃあ、すいませんが、お隣さん」

「え? わ、私ですか?」

「ええ、そうです。えっと、オレのスーツの内ポケットにビニールの手袋が入っているので、それを取り出して、オレの手にはめてもらえませんか?」

「え? び、ビニールの手袋? ああ、まあ、それぐらいなら別にいいけど、何でそんなモノ持ってんの?」

「仕事で使うので、いつも持ち歩いているんです」

「へぇ、そうなんだ」

 


 中年男性は軽く首をかしげながら、

 言われたとおりに、半透明の手袋を九郎の手にはめた。



「ああ、すいません。どうもありがとうございます。……さて、それじゃあ、妖怪女子高生。いいか、よく聞けよ?」


「なっ、なんですか……?」


 自信満々の九郎を見て、

 女子高生はごくりとつばを飲み込んだ。


「最近は電車に乗るのもある意味命がけだからな、こんなこともあろうかと、オレは痴漢冤罪保険に加入しているんだ。しかも、オレのケータイには顧問弁護士の電話番号が登録してあって、電話一本ですぐに駆けつけてもらえる契約もしている」



「べっ、弁護士!?」



 そのとたん、女子高生は小さな顔を強張らせた。


「そうだ、弁護士だ。おまえは今、オレを痴漢と決めつけて、オレがおまえのケツに触ったと断言した。だからオレは周りの人に動画を撮ってもらい、手袋をはめてもらった。テレビドラマとかでよくあるだろ? 最近の警察の科学鑑定は、手にくっついた繊維が、どの洋服の繊維なのか分かるんだ。だからオレは次の駅で降りて、すぐに警察を呼ぶ。そしてオレの手の付着物を調べてもらう。そしたら、オレはおまえの体に一切触れていないことが証明される。それはつまり、おまえがオレに罪をなすりつけたことが証明されるということだ」


「そ……そんな……そこまで大ごとにしなくても……」


「おいおい、今さら何言ってんだよ」


 九郎は呆れ顔で、女子高生の顔を指さした。


「警察を呼ぶって言ったのはそっちが先じゃねーか。どうせ間抜けなおっさんから手っ取り早く金を巻き上げようとでも思ったんだろうが、残念だったな。金を巻き上げるどころか、逆にオレの方がおまえに慰謝料を請求させてもらう。それもかなりの額になるから、今のうちに覚悟しておけよ」



「いっ!? 慰謝料っ!? 慰謝料って……そ、そんな……」



 女子高生はがくがくと震え始めた。

 そして茶色い顔を青くしながら九郎を見上げ、

 小さな口をわなわなと動かして言葉を紡ぐ。


「ち……痴漢されたのはわたしなのに……なんであなたに、い、慰謝料を支払わないといけないんですか……?」


「おいおい、おまえ、ほんと何言ってんの? おまえはオレを痴漢にしようとしたんだぞ? そういう、示談金目当てで無実の人を痴漢に仕立て上げるのは、虚偽告訴罪っていう立派な犯罪だ。しかも、裁判で有罪が確定したら、十年以下の懲役になる、けっこうやばい犯罪なんだぞ?」



「じゅっ!? 十年!?」



 女子高生は両目を見開き、茶色い顔に大量の汗を噴き出した。


「そうだ。おまえが十六歳だったら、二十六歳まで刑務所に入るってことだ。でもな、それぐらいのバツは当然なんだよ」


 九郎は厳しい顔を前に突き出し、さらに言う。


「いいか? もしもオレが自分の無罪を証明できなかったら、仕事をクビになっていたし、おまえに多額の慰謝料を支払うことになっていた。そんなのどう考えたって無茶苦茶な話だろ。おまえはそんなリスクをオレに押しつけようとしたんだぞ? 汚い嘘をついて、ヒト一人の人生を破壊しようとしたんだ。だったら慰謝料を請求されるのは当然だろうが。しかもオレは、これでもそこそこいいところに勤めているからな。四千万か五千万は請求しないとわりに合わねーんだよ」



「ごっ!? 五千万っ!?」



 女子高生は目玉をひっくり返し、甲高い声を張り上げた。



「むっ! 無理っ! そんなの、五千万って、ぜったい無理ですっ!」



「だから、それはおまえの都合だろ? だけどおまえは、オレの都合を無視して痴漢にしようとしたじゃねーか。あんまり自分勝手なことばっかり言ってんじゃねーよ。おまえがオレから金をふんだくろうとした事実は、もう一生消えないんだ。おまえは警察に逮捕されて、オレから多額の慰謝料を請求される。そして実際に金を払うのは、おまえの親だ」


「やっ! やめてっ! お……おねがいっ! おねがいだからっ! お父さんとお母さんは関係ないじゃないですかっ!」


 女子高生は泣きそうな顔で目を潤ませている。


 しかし九郎は、感情のない顔で淡々と口を開く。


「いいや、関係は大アリだ。親ってのは、子どもの責任を負う義務があるからな。つまりおまえは、一生懸命に働いておまえを育ててきた親に、死ぬまで働いても返せない借金を背負わせてしまったんだ。これはおまえが招いたことだから、今さら何を言っても、もう遅い。自業自得というヤツだ」


「い、いや……ご、ごめ……ごめんなさい……。わた……わたし、そんなつもりじゃ……そんなつもりじゃ……」



 女子高生は自分の体を抱きしめて、ぼろぼろと涙を流し始めた。



 その姿を、九郎は冷ややかな目で見つめ続ける。

 

 そして次の駅に到着すると、周りの乗客に手伝ってもらい、

 女子高生を電車から降ろして警察を呼んだ。



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