第三章 6
「――今日はコショウと砂糖と、小麦粉とレンズ豆を買います」
朝市の雑踏の中、昨日と同じ時間に顔を出した九郎は、
中年メイドの言葉に唖然とした。
「え……? いや、そんなに運んだら、オレの体の方が故障しそうなんだけど……」
活気のある中央通りの道端で、九郎は疲れ切った声を漏らす。
するとエスタは、鋭く見据えて言い放つ。
「お黙りなさい。朝っぱらから何ですか、その軟弱な声は。もっとお腹の底からしっかりと言いなさい」
「いや、それじゃ、黙るべきか、しゃべるべきか、よく分からないんだけど……」
「しゃべる時は、はっきり声を出しなさいと言っているのです。まったく。そんな、嫁入り前の小娘みたいな声を出していたら、荷物持ちなんか務まりません。ほら、さっさと荷車を引いてついてきなさい」
(いや……オレの体はどう見ても、嫁入り前の小娘だろうが……。なんちゅー理不尽なババアだよ……)
言われて思わずむっとして、わざと曖昧な声で返事をする。
「……うぇ~い」
「返事はきっちり『はい』と言いなさい」
「あー、はいはい、がんばりまっするぅ~」
「『はい』は一回。それと『まっする』は要りません。ふざけてないで、さっさとついてきなさい」
エスタはふいっと顔を背け、足早に市場の中へと向かっていく。
(……何なんだよ、あのババアは。何で昨日よりもカリカリしてんだ? まったく……。女の敵は女って言うけど、あれはどうやら本当らしいな)
九郎はメイドの背中をじっとりにらんだ。
そして心の中で「まっする」を連呼しながら、荷車を引いて歩き出した。
「――何だおまえ。今日もパンは要らねぇのか?」
新品のコッククートを着た中年男性が、ニヤニヤと笑いながら九郎に言った。
午後の一時過ぎに荷物運びを終えた九郎は、
昨日と同じように冷たいパンを投げ返し、コックをにらんで口を開く。
「いらねーよ。おまえみたいなゲスヤローが作ったパンなんて、何が入っているか分かったもんじゃねーからな」
「おいおい、ずいぶん失礼なヤツだな。俺はこの屋敷のコック長だぜ?」
「はっ。知ったことか。何がコック長だ。おまえのパンなんかより、近所のパン屋の方がよっぽど美味そうじゃねーか。とにかく、おまえはもう、二度とオレに話しかけるな。さもないと、マジで折りたたんで埋めるからな」
「はぁーん? 何だってぇ?」
コックは挑発するようにアゴを突き出す。
「もう一度言ってみろよ。おまえに話しかけたらどうなるって言うんだ? あぁーん?」
「話しかけたな」
九郎はゆらりと首を回し、コックを見据えた。
「よく言った。ならば戦争だ。この場にステップラーがないことを神に感謝するんだな」
九郎は両手の指をかぎ爪のように曲げながら歩き出す。
とたんにコックはギクリとしながら二、三歩下がる。
九郎は感情を消した瞳でまっすぐ進む。
そしてその指先をコックの口に向かって鋭く突き出した。
瞬間――エスタがいきなり体を割り込ませてきた。
「何ですか、この手は」
コックの前に立ちはだかったメイド長は、
九郎の細い腕をつかんで淡々と告げる。
「今日の荷物運びは終わりました。あなたはいったい何をやっているのですか」
「はあ? そっちこそ、何でそんなクズをかばうんだよ」
すぐに手を引き、エスタをにらむ。
するとエスタは再び九郎の手首をガッチリつかみ、門の方へと歩き出す。
「お、おい、いったいどこに行くんだよ」
「あなたの仕事はもう終わりました。ここからすぐに立ち去りなさい。あのコックは、この屋敷の使用人です。管理責任のある私の前で、使用人に対する狼藉は許しません」
「はあ? だったら何で、あいつの暴言は見逃すんだよ。管理してねーじゃねーか」
「あの程度は暴言のうちに入りません」
「あー、そうかよ。使用人ならあんなクズでもかばうなんて、あんたは筋金入りの石頭だな」
「当然です。筋を通すのが私の仕事です」
「そうやって筋しか見てないから、曲がってることに気づけないんじゃねーのか?」
「子どもに説教される覚えはありません。いいから黙ってついてきなさい」
「あっそ……」
九郎は呆れ顔でため息を吐いた。
そして肩から力を抜いて、引かれて歩きながら言葉を続ける。
「まあ、筋を通そうとすること自体は悪くないけどさ、あんたも大変だな。あんなバカが部下にいたら苦労が絶えないだろ」
「お黙りなさい。あなたのような乱暴な娘に心配されるほど落ちぶれてはいません。それに、あの男の雇用を決めたのは先代のコック長です。彼は伯爵家に忠実に仕え、立派に務めを果たして亡くなりました。その意思を軽々しく変更することはできません」
「なるほどねぇ、そういう理由か。ま、義理と礼儀を重んじる精神ってのは、たしかにファンタジーの王道だからな」
「何ですか、その『はんたずぃ』とは」
「『はんたずぃ』じゃなくて、ファンタジーな。夢があふれる憧れの世界って意味だ。それよりエスタさん、あんたの心がけはたしかに立派だよ。適当な理由を付けて、バイトや派遣のクビを切る企業に見習わせてやりたいぐらいだ。だけどさあ、そういう義理と礼儀は、もっと相手を選んだ方がいいんじゃないか? あのバカは間違いなく、どこまでもつけ上がるぞ?」
「そんなことは、あなたに言われなくても分かっています」
エスタは九郎を門まで連れていき、手を離す。
「とにかく、今日もご苦労様でした。明日も同じ時間にお願いします。それと、明日の買い物は一度だけですので、それが済んだら約束の報酬をお渡しします」
「おっ、マジで? それを聞いて安心したよ。正直、あのコックの顔はこれ以上見たくなかったけど、あと一回なら我慢できないこともないからな。それじゃ、エスタさん、また明日。それと一応言っておくけど、ケンカを止めてくれたことには感謝するよ。面倒事は少ない方がいいからな」
九郎は気を取り直して軽く微笑み、手を振って門を出た。