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第一章 1 : バスに乗り 電車に乗って 往くレール



「――おい、弥生やよい。もう六時半だぞ。そろそろ起きて、朝飯を作ってくれ」



 起き抜けのストレッチを終えた大黒九郎おおくろくろうは、

 ベッドで眠り続けている新妻を見下ろして眉を寄せた。



「……う……ん、うん、うん……うん、うん……すー……」



 弥生はわずかに声を漏らした。

 しかし寝返りを打つだけで、起き上がる気配はまったくない。



「おい、起きろよ。今週の朝飯当番はおまえだろ。というかおまえ、もう五か月ぐらい、朝飯作ってないじゃないか」



 九郎は呆れ顔で掛け布団をバサリとめくる。



 しかし、パジャマ姿の妻は、それでもまったく動じない。

 九郎が足の裏で背中を押しても、ノーリアクションで寝続ける。



「おまえ、何だよ、この背中の肉。また太っただろ」


「……うっさい。ほっとけーき」



 弥生は再び寝返りを打ちながら、夫の足を叩き落とす。



「……あんたねぇ、ほんと、いい加減にしなさいよ。たかが朝ごはんぐらいで、いちいち目くじら立てんじゃないわよ、みっともない。どこまでサイテーな人間なのよ。だいたいさぁ、あたしは低血圧で、朝は苦手だって知ってるでしょ? それなのに、何でそんな嫌味を言うわけ? あんたって、いったいどんだけ心が狭いのよ。とにかく、あたしは今、眠たいの。ものすごぉーく眠たいわけ。分かる? あんたにはあんたの生活リズムがあるように、あたしにもあたしの生活リズムってものがあるの。いくら夫婦といっても別々の人間なんだから、そういうところは尊重し合うのが当然でしょ。だからもう、あたしのことはほっといて、さっさと仕事に行きなさいよ」



 言って、弥生は掛け布団を両手でつかみ、頭の先まで覆い隠す。



 その態度に、夫の口からため息が漏れた。

 九郎は再び掛け布団をはぎ取ろうとしたが、

 弥生は頑として手を離さない。



「おまえさぁ、ほんと、マジでふざけんなよ? 誰だっていつかは起きなきゃいけないんだから、低血圧なんか何の言い訳にもならねーだろ。そんなもんは早く寝て、早く起きればいいだけじゃねーか。というかおまえ、また遅くまでネットゲームしてたんだろ。いったい何時まで遊んでいたんだよ」



「……ん~、四時半ぐら~い」

「はあ? 四時半っておまえ、そりゃほとんど徹夜じゃねーか」



 九郎は呆れて宙をにらんだ。

 そしてそのままジャージを脱ぎ出し、

 スーツに着替えながら言葉を続ける。



「……ったく。ネトゲをするなとは言わないけどさ、おまえは専業主婦なんだから、朝起きて夜は寝て、昼間にゲームすりゃいいじゃねーか。一日中家にいるのに、どうしてそんな狂った生活リズムになるんだよ」



「……ん~、だってほらぁ~、あたしって、けっこう大きなギルドのマスターやってるじゃん? だからさぁ、ギルメンの面倒を見たり、ギルドのホームページを更新したり、いろいろと忙しいのよぉ~」



「はあ? バカかおまえは。ネトゲのギルメンより、旦那の面倒を見る方が最優先事項だろうが。そもそもホームページの更新より、現実のホームを掃除しろ、このボケ。まったく。おまえほんと、マジで何言ってんの? マジで何言っちゃってくれてんの? オレが毎日働いているから、おまえはネトゲの廃人プレイヤーをやれているんだろうが。だったらオレのメシぐらい作らないとダメに決まってるじゃねーか。というかおまえさあ、結婚したとたんに会社やめて専業主婦になるなんて、なにそれ? そんな話、結婚前は一言も言ってなかったじゃねーか。そんな大事なことを、何でオレに相談もしないで勝手に決めるんだよ」



「……はあ? なにそれって、そっちこそ、なにそれ? あんたってほんっと、いちいち小さい男ねぇ。あたしが会社をやめたのは、もう五か月も前じゃない。それを今さら蒸し返してどうすんのよ。だいたいさぁ、あたしのことをあたしが決めて何が悪いわけ? たしかに今はあんたの朝ごはんを作っていないけど、普段はちゃーんと主婦やってんだから、文句を言われる筋合いなんかどこにもないじゃない」




「黙れ、このクサレ主婦」




 言って、九郎はベッドを蹴り飛ばした。



「こっちは文句を付ける筋合いがありまくりだから言ってんだよ。いいか? おまえは朝飯を作らないし、休みの日の昼飯も作らない。夕飯はスーパーかコンビニの弁当ばかり。それのどこが、ちゃんとした主婦なんだよ」



「だったら逆に聞かせてもらうけど、それのどこが悪いのよ。江戸時代はお昼ごはんを食べていなかったんだし、最近では五人に一人が朝ごはんを食べていないんだから、何の問題もないじゃない。そもそもねぇ、休みの日のお昼ごはんぐらい、あんたが作りなさいよ。休日だからって、家でゴロゴロしてんじゃないわよ。主婦にだって休みは必要なんだから、土日ぐらいはあたしにもゆっくりさせるのが常識でしょうが」



「はあ? テメー、マジで何言ってんだ? 毎日働いているオレに、土日の食事を作れって言うのか?」



「それと、祝日もね」




 その瞬間、九郎の顔面は般若と化した。




「おまえほんと、何言ってんの? だったらオレは、いつゆっくりできるんだよ。それでなくても洗濯は一日おきにオレがして、家の掃除もオレがして、食器洗いもオレがして、ゴミ出しもオレがして、食料品も日用品も仕事帰りにオレが買っているんだぞ。おまえなんか結婚してからこの半年間、まともな主婦やってねーじゃねーか。あぁん?」



「あぁん? じゃないわよ。そっちこそ何言ってんの? あんたはいったいどこに目をつけてんの? まったくもう、ほんとに何も分かっていないわねぇ。いーい? 主婦ってのはねぇ、毎日好きなだけゴロゴロして、お昼はプライムとネトフリでアニメを見ながらカップ麺を食べて、ネトゲの合間にトイレとお風呂を済ませるのが仕事なの。それがデフォルトのベーシックライフなの。世界中の主婦ってのは、漏れなく全員がそうやって生活してんの。そんな常識も知らないなんて、世間知らずにもほどが――」



「世間知らずはテメーだ、ボケ。主に腐っていると書いて主腐と読むダメオンナが、あんまなめた口叩いてんじゃねーぞ、コラ。そのデフォルトが債務不履行って意味なら間違っちゃいないが、そんな腐った幻想はオレの右手でマジぶち壊すぞ、コノヤロー」



「ちょっと! あんたねぇっ! ヒトがまだしゃべっているのに、途中で口を挟むのはやめなさいよ。そんなマナーも守れないほど精神が未熟だから、二十代後半になってもアニメなんか見続けるダメな大人になってんのよ。しかも、せっかくあたしが処分してあげた円盤セットをまた買いそろえるなんて、あんたほんと、頭おかしいんじゃない?」




「あぁ? ンだとコラ。ざけんなよ? もう一度言うけど、ざけんなよ?」



 

 九郎はさらにベッドを蹴りつけ、

 ふとんにくるまる妻を全力でにらみ下ろす。



「オレの唯一の趣味のアニメコレクションを勝手に売り払っておいて、何だその言い草は? しかも、おまえだってたった今、ネトフリでアニメ見てるって言ったじゃねーか。何だそのダブルスタンダードは? テメーはどんだけ自分勝手な女性様なんだ? あぁん? おうコラ、あぁん?」



「うっさいわねぇ。あたしはねぇ、アニメなんて幼稚なものはキライなの。だけどネトゲでコラボしてるから仕方なく見ているわけ。そうじゃないと、ギルメンと会話がかみ合わないってことぐらい、言われなくても察しなさいよ。ほんっとあんたって、サイテーのサイアクね。いーい? あたしはねぇ、人とのコミュニケーションを円滑にするために努力してんの。あんたみたいな自己中心的なアニメオタクなんかと一緒にしないでちょうだい」



「はあ? 何言ってんだテメーは。アニメだってドラマや映画と同じように、サスペンスとかコメディとか、青春ものとか恋愛ものとか、いろんなジャンルがあるじゃねーか。それを一括りにしてバカにしてんじゃねーぞコラ。アニメをまとめて幼稚って決めつけるのは、思考が停止した差別主義者のやることだ。テメーみたいな腐った偏見を持つウンコヤローが、いっちょまえにコミュニケーションを語ってんじゃねーぞ、コノヤロー。というか、ネトゲのギルメンより先に、オレとのコミュニケーションを円滑にしろ、このボケ」



「だからこうして、話してあげてるんじゃない。それの何が不満なわけ? あんたって、本当に我がままな性格してんのね。自分が一番にされないと我慢できないって、どんだけ子どもなのよ。とにかく、あたしはこれ以上ないほど完璧な主婦をやってんの。そして、うちのギルメンもみんなそうやって生きてるの。だからこれが、一般的な家庭のあり方なのよ。こんな当たり前のことに、あんたはさっきから何を言ってんの? あんまり理不尽な言いがかりつけると、いくら温厚なあたしでも本気で怒るわよ?」



「逆だボケ。怒ってんのはこっちだボケナス。テメーのギルメンたちが別の意味で廃人だってことはよーく分かったが、それが一般的な家庭なら、日本はとっくに滅びてるぞ」



「はあ? 日本のどこが滅んでるって言うのよ。あたしもギルメンも、ネトゲの運営会社だって、ちゃーんと平常運転してるじゃない。何なの? あんたって、どうして論理的な会話ができないの? まともな受け答えができないんなら、その減らず口をしっかり閉じて黙っていなさいよ。あんたのバカが世間にバレると、あたしまで恥ずかしい思いをするじゃない」



「こっちはテメーの生活態度を、動画でアップして全世界にバラしたいけどな」



「だったらやればいいじゃない。誰が見たって、あたしに『イイネ』するに決まってるんだから。だいたいねぇ、あんたがあたしにどんな不満を持っているのか知らないけど、そんなモノはただの被害妄想よ。あんたみたいな現実を直視できない男に、勝手な理想を押しつけられるのは、はっきり言って迷惑なの。あんただってもういい年なんだから、アニメと現実の区別ぐらいちゃんとつけなさいよ」



「黙れスカタン。テメーの方こそネトゲの世界線を切り捨てて、さっさと現実で朝飯作れやアホンダラ」



「だからさあ、そういう、どっかのアニメで聞いたような単語を使うのはやめなさいって、いつも言ってるでしょ。ほんっと、みっともないったらありゃしない。しかも、たかが朝ごはんの一つや二つで、いつまでグジグジ言ってんのよ。そんなつまらないことであたしの睡眠時間を削るなんて、あんたってどんだけ非常識なの? こっちは三時間後にボス狩りがあるんだから、忙しいことぐらい分かるでしょ」




「わ・か・る・わ・け・ねぇーだろぉっ! このスットコドッコイがぁっ!」




 九郎は思わず、脱いだジャージを掛け布団に叩きつけた。



「テメーはほんと、マジで何言ってんだコラ。アニメは現実の鏡だぞ? 今どきアニメに出てくる単語を一つも使わないヤツなんて一人もいねーんだよ、このスカポンタン。というか、テメーのボス狩りスケジュールなんざ知るかボケ」



「ボケてんのはあんたの方じゃない。あたしの夫でいたいなら、すべてのボスの出現時間を四時間ごとにチェックして、あたしの都合に合わせる努力ぐらいしなさいよ。ネトゲは遊びじゃないんだから、あんまり甘ったれたこと言ってんじゃないわよ」



「ネトゲが遊びじゃないのは運営会社だけだって早く気づけ、このドアホウ」



「アホはあんたよ。いーい? 人間ってのはねぇ、好きなことに一生懸命になる生き物なの。その気持ちが理解できないって言う方がアホなのよ。とにかく、あたしには時間がないの。それともあんた、まさかあたしに、寝不足のままボス狩りに参加しろって言ってるわけ? それで操作をミスったらどう責任取るつもりなのよ。あんたねぇ、あんまり自分勝手なことばっかり言ってあたしを困らせるなら、そのうち家庭内暴力で訴えるわよ?」



「オーケイ、いいだろう。望むところだ。テメーのその腐った自信がどこから湧いてくるのか死ぬほど疑問だが、ぜんぜん負ける気がしないからな」



「はあ? 何よそれ? そういう根拠のない強がりはやめなさいよ。聞いてるこっちが情けなくなるじゃない。とにかく、いくらあたしが心の広い女の子でも、限度ってものがあることを肝に銘じておきなさい」



「そっちこそさっさと起きて鏡を見て、女の子のカテゴリーには限度があることを肝に銘じろ。それと、オレの限度はとっくにブチ切れてるから、グダグダ言わずに食事の準備に取り掛かれ」



「はあ? あんたみたいな口だけ男が、どれだけブチ切れていようが知ったことじゃないわよ。バカじゃないの。いーい? 争いって言うのはねぇ、同じレベルの者同士でしか発生しないの。つまりあたしは、あんたみたいなバカは相手にしないわけ。一般常識のある大人はね、精神が未熟なアニメオタクなんか相手にしないの。だけどねぇ、だからと言ってあんまりあたしに甘えてばかりいると、そのうち痛い目に遭うんだから覚悟しておきなさい」



「アホか、おまえは。争いってのは、おまえみたいな声の大きなバカが一方的に引き起こすんだ。自分のことを棚に上げて、人のことをバカにして、訴えるとか痛い目に遭うとか恫喝して、何なんだ、その態度は。おまえはどんだけ反社会的な性格してんだよ」



「はあ? 何言ってんの? あたしはねぇ、二十六年も社会生活してきたの。反社会的なわけないじゃない。むしろ、あたしみたいな善良な一般市民を非難するあんたの方が、反社会的って言うのよ。あんたはさっきからあたしの揚げ足を取っているつもりなのかも知れないけどさぁ、自分の言ってることがぜんぜん筋が通ってないって、早く気づきなさいよ」




「おまえの主張はブーメランすぎて、草も生えないけどな」




「何がブーメランよ。そういう、ネットやテレビで聞きかじった言葉ばかり使ってるから、あんたはバカだって言われるのよ。まったくもう。あんたと話していると、本当にバカらしくなってくるわね。いったいどうやって成長したら、そんなねじ曲がった性格になるのか教えてほしいくらいだわ」



「オレはおまえの成長過程なんか死んでも聞きたくないけどな。というか、ほんと何で、テメーなんかと結婚したのかさっぱり分からん。その点だけは、たしかにオレは大バカだったな」



「なに、そのイヤラシイ言い方。そうやってねぇ、自分をバカにするふりをして、ヒトを責めるのはやめなさいよ。ほんっと、サイアク。こっちなんか、あんたと付き合った瞬間から後悔しているんだから。それでも結婚してあげたのはね、あたし専用のライフライナーだから我慢してあげてんの。その辺ちゃんと分かってんの? ATMが毎月オートで補充されなかったら、あんたとなんか結婚するはずないじゃない」



「おう、懐かしいな、ライフライナー。そこまでぶっちゃけられると逆に清々しいが、あとでボイスレコーダーをポチッておくから、また明日にでもぶっちゃけてくれ」



「何が清々しいよ。本当にそう思っていたら、そんなセリフが出てくるはずないじゃない。それにボイスレコーダーごときでムダ金使うくらいなら、次のボーナスは全部あたしに寄こしなさいよ。それを全部ガチャに突っ込むことで、今日のところは許してあげるから。そして、これ以上あたしを怒らせる前に、さっさとバスに乗って電車に乗って仕事に行きなさいよ」



「何が『許してあげる』だ。テメーの方こそ、あと一言でもオレの神経を逆なでしたらマジで終わりだぞ。そうなる前に、さっさと起きて朝飯を作れ」



「はあ? 何が終わりなのよ。そういう脅迫めいたことを言うのは犯罪行為だって知らないの? まったく。そこまで常識知らずのバカが、よくもまあ、その年まで生きてこられたわね。とにかく、そんなに朝ごはんが必要なら、駅の立ち食いそば屋でいなり寿司でも食べればいいじゃない。生卵のトッピングぐらいなら認めてあげるから、これ以上ゴチャゴチャ言うのはやめなさいよ」



「あー、はいはい、オーケーオーケー、よく言った。一般的な価値観ではなぁ、家族ってのは性格の一部が嫌いでも、全部を嫌うことはあり得ない。つまりテメーは今この瞬間から、もはやオレの妻ではない。というか、『生たまいなり』はレベル高すぎだろ」



 九郎は鏡を見ながらネクタイを締めて、にっこりと微笑んだ。



 そしてすぐに肩を回して気合いを入れて、

 キッチンからラップフィルムを取ってきた。



「ちょっとぉ、バタバタ歩かないでよぉ。このマンション、けっこう足音が響くんだから、下の人に迷惑じゃない」



「そっちこそガタガタ言うな。テメーの腐った生き様は、オレの人生に大迷惑なんだよ、このボケが」



 言いながら、九郎は掛け布団を強引に引きはがす。

 そして、体を丸めている弥生を見下ろした。




「……ぬぅ、こいつはひどい。見るに堪えない、物体エックスじゃねーか……」




 想像を絶する新妻の寝姿に、九郎は深々と息を吐き出した。



(……結婚前はこまめに美容院でセットしていた黒髪も、今では艶を失ってボサボサに伸び放題。体重四十八キロをキープしていた小柄な体格も、いつの間にか前後左右にぼってりと拡張し、たったの半年でおそらく八十キロ……いや、九十キロは軽く突破している。初めて出会ったころは透きとおるように白かった肌も、今じゃ乾いた皮脂でボロボロだ。さらに一目で分かるたるんだ腹はタプンタプン。しかも体臭は明らかに生ゴミ臭い……)




「……これはもはや、オンナではない」




 夫は遠い目をして呟いた。



 そしてすぐに弥生の体を足で蹴ってうつ伏せにし、

 ぶよぶよの両手と両足をラップフィルムでぐるぐるに巻いて縛り上げた。



「えっ? ちょっ、ちょっとぉ~、何よこれ~? 朝っぱらから何するのよぉ~。そういうプレイは、あたしキライだって知ってるでしょ~?」



「は? プレイ? は? プレイだと? テメーは何を勘違いしている。このオレに動物をどうこうする趣味なんぞ欠片もないわ。これはただのブタの出荷だ」



「はあ? 何よ、ブタって。こんな可愛い女の子に、それはさすがにひどくない?」



「は? オンナノコ? 可愛い女の子だと? テメーは何を勘違いしている。ハタチを過ぎて女の子と言えるのは、体脂肪率三十パーセントまでだ、ボケ。つまりおまえは、とっくの昔にあらゆる意味で終わってる」



 九郎は縛り終わった妻を見下ろし、両手をはたく。

 それから通勤用のカバンを肩に掛け、携帯電話を耳に当てた。



「ねえ、ちょっとぉ~。こんな時に、いったいどこに電話するつもりなのよぉ~」


「いいからブタは黙ってろ――ああ、もしもし? おはようございます、大黒です。朝早くにすみません、お義母さん」


「え? お義母さんって、もしかしてあたしのママ? 何でいきなりママに電話してんの?」


「ブタは黙ってろと言っただろ」

「だからブタって誰のこと――むごっ!」



 九郎はとっさに枕をつかみ、弥生の顔を押さえつけた。



「――ああ、すいません、お義母さん。ブタというのはお宅の娘さんのことなのでお気になさらず。えっと、それでですね、お義母さん――ああ、いえいえ、とりあえず黙って聞け。それで、朝から大変申し訳ないのですが、今この時をもちまして、娘さんとはきれいさっぱり離婚します。そして今から、そちらまで返品に伺います。お宅のブタは、お宅の玄関先に転がしておきますので、気が向いたら拾っておいてください。それじゃ、失礼しまーす――ガッツかしこ、っと」



 返事を聞かずに電話を切って、九郎はこぶしを握りしめた。

 それから弥生の体を玄関まで引きずり、マンションの外廊下に転がした。



「ねぇ、ねぇ、ちょっと、ちょっとぉ~。別れるって何のことよぉ~。あんたまさか、このあたしと本気で離婚するって言うわけ~? そんなの冗談じゃないわよぉ~。そんなのあたし、絶対に納得しないわよぉ~?」



「黙れブタ。冗談じゃないのは、おまえの生き様だ」



 九郎はドアにカギをかけ、

 マグロみたいに転がって頬を膨らませている弥生をにらみ下ろした。



「もぉ~、だから誰がブタなのよ~。あたしみたいな可愛いお嫁さんなんか滅多にいないのに、よくもそんなことが言えるわね~」


「あ? どこのどいつが可愛いお嫁さんだと? テメーの目玉がゲシュタルト崩壊してんのは勝手だが、オレの精神まで汚染するのはやめろ。そしてそのウンコ臭い口は永久に閉じていろ」


「はあ? 誰の口がウンコ臭いって――あ」



 その時突然、隣の部屋から中年男性が廊下に出てきた。



 隣人に気づいた弥生は、慌てて口を閉じて目を逸らす。


 男は弥生を見てぎょっと目を見開いたが、

 すぐに九郎に顔を向けて、軽く頭を下げた。


「……えっと、おはようございます、お隣の大黒さん」


「ああ、おはようございます、お隣の音成おとなりさん」



 九郎がにこやかに微笑むと、作業服に身を包んだ三十代の男も、

 朗らかな笑みを浮かべて言葉を続ける。



「それで、どうしたんですか? 奥さんが廊下に転がっているみたいですけど……?」


「ああ、いえ、ちょっとお恥ずかしい話なんですが」


 九郎は照れくさそうに頭をかいた。


「実はですね、今からちょっと、こいつを実家の方に返品しに行こうと思いまして」


「返品? 返品ってまさか、離婚するってことですか? おやおや。大黒さんのとこはまだ新婚ほやほやなのに、そりゃまたどうして、そんなことに?」


「いやいや、ほんと、これまた身内の恥をさらすようでお恥ずかしい限りなんですが……」


 訊かれて九郎は、さらに恥ずかしそうに頬をかく。


「実は結婚してからこの半年間、こいつときたらメシは作らないし家事もしないし、そのくせ徹夜でネットゲームをしてるんです」


「ほほう、ネットゲームですか」


「ええ。それでちょっと、ついさっき、そのことを注意したんですが、こいつときたら謝るどころか逆に開き直りやがりましてね。それでもう、こりゃダメだと、思った次第なんですよ」


「ああ、なるほど、そういうことですか」



 音成は、そっぽを向いている弥生を見下ろしながら、

 軽く苦笑いを浮かべて口を開く。



「まあ、それじゃあたしかに、大黒さんが怒るのも仕方がないですね。夫を金づるのように扱う奥さんなら、たしかにそうやって簀巻すまきにして、実家に突き返したくなるのも当然ですよ。……ああ、そうだ。それならちょっと、待っていてください」



 音成はすぐに家の中に戻っていった。



 そして、灰色のダクトテープと折り畳み式の台車を持ってくると、

 弥生の口をテープで塞ぎ、台車にのせてゴムの紐で固定した。



「――はい、これでよし。これで楽に運べるでしょう」

「おおっ! こいつはすごい!」



 九郎は心の底から感心した。



 パジャマ姿の弥生は台車の上で、

「ムガムガ」とうめきながら身をよじっている。

 しかし、グルグルに巻きつけたゴム紐で完全に固定されているので、

 身動き一つ取れないでいる。



「いやー、ありがとうございます、音成さん。こいつめっちゃ重いから、運ぶのが大変だったんですよねぇ」


「そうだと思いました。こういう経験なら、こちらにもありますからね」

「えっ? そうなんですか?」

「ええ、そうなんです」



 九郎が軽く驚くと、

 今度は音成が照れくさそうに鼻の頭を指でかいた。



「実はうちの嫁も、かなりアレな女だったんですよ。あいつときたら、家事もしないで二、三か月平気で外をほっつき歩き、いつの間にか貯金をほとんど使い切っていたので、去年離婚してやったんです」



「おやまあ。そんなことがあったんですか」



「ええ。しかもその理由がまたひどいんです。あのアホ女ときたら、男性アイドルの全国ツアーを全部追っかけた上に、ホストに金を貢いでいやがったんです。いやいや、あの時はほんとにもう、どっかの山奥で首でも吊って死んでくれって思いましたからね」



「うわぁ~、それはまた、きっついお話ですねぇ」

「ええ、ほんとにもう、きついのなんのって話ですよ。あはははは」

「音成さんのとこに比べたら、うちはまだマシな方かも知れませんね。あはははは」

「いえいえ、そんなことはないでしょう。あはははは」

「ですよねー。あはははは」



 男二人は声を合わせて楽しそうに笑い合う。

 それから不意に、音成が九郎に訊いた。



「えっと、それじゃあ大黒さんは、これから車で、奥さんを実家に運ぶんですか?」


「ええ、そうするつもりです。こいつの実家はけっこう近くて、ここからそんなに時間がかからないんですよ」


「ほほう。と言うと、どの辺ですか?」


「どの辺って聞かれると……そうですね、海浜公園の方です。えっと、奉仕部で有名な高校の近くと言って、分かりますか?」


「奉仕部ですか? いやぁ、すいません。それはちょっと分からないですね。でも、海浜公園の方って言うと、もしかして、卸売市場おろしうりしじょうの手前にある高校かな?」


「ああ、そうです、そうです」


「やっぱりそうでしたか。それなら分かります。たしかにあそこまでなら、海沿いを走れば二十分もかかりませんね」


「ええ、そうなんですよ。まあ、さすがに仕事には遅刻しますが、それはもう仕方ないですからね」



「あ、だったら車で送りますよ」



 不意に音成が、軽い調子で九郎に言った。


「今日の工事現場はちょうどそっちの方なので、通り道ですからね。ただ、そのあとは最寄りの駅までしか送れませんけど、それでもいいですか?」


「ああ、いえいえ、さすがにそこまでは甘えられません。お気持ちだけでじゅうぶんです」


 九郎は慌てて手のひらを向けて断った。


 しかし笑みを浮かべる隣人は、首を横に振ってさらに言う。


「いやいや、なんのなんの。困った時はお互い様って言うじゃないですか。こっちにとっては本当に通り道なので、遠慮なんかしないでください。それじゃ、エレベーターに乗りましょうか」



 音成は、促すように廊下の奥を手で差した。



 九郎は少し迷ったが、結局、照れくさそうに頭を下げた。


「いやぁ、そうですか? そこまで仰っていただけるなら、せっかくなのでお言葉に甘えさせていただきます。本当に、ありがとうございます」


「いえいえ、大したことじゃないので、気にしないでください」


 音成は嬉しそうに小さくうなずき、エレベーターホールへと足を向ける。


 九郎もすぐに台車を押して歩き出し、エレベーターに乗り込んだ。




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