第二章 11
「――クロウ。クロウ」
ふと耳元で、声が聞こえた。
「……はひ……じぇんぶ夢だと言ってくだしゃい……」
九郎は寝ぼけまなこで体を起こす。
するとケイがそばにいた。
昨日と同じ白衣姿のヒーラーは、微笑みながら九郎の頬を指でつつく。
「はいはい、ぜんぶ夢よ、ぜんぶ夢。目が覚めた?」
「……ああ、ケイさんか。おはよぉ~ぐると」
「はい、おはよう。まだ朝早いけど、仕事の前にクロウの服を見繕ってきたから、ちょっと見てちょうだい。ああ、顔を洗ってからでいいから」
「服……?」
「そうよ。いつまでも、マータの魔法衣装なんか着ていられないでしょ?」
「ああ、それはたしかにそうだな」
「だから、昨日のうちに洋服屋さんで、売れ残りの地味な服を適当にもらってきたの。一応、クロウに似合いそうなのを選んできたから、ちょっと着てみてちょうだい」
「地味なヤツか。そいつは助かるな――って、あれ?」
九郎は周りを見て首をひねった。
隣のソファで寝ていたコツメがどこにも見当たらない。
「なあ、ケイさん。ここにもう一人いなかったか? 昨日、女の子を一人泊めたんだけど」
「ああ、長い黒髪の子でしょ? その子なら、さっき出て行ったわよ」
「出て行った?」
「ええ。朝ごはんに誘ったんだけど、丁寧に頭を下げて出て行っちゃった。どうやら人見知りするタイプだったみたいね」
「ふーん、そっか。人見知りするような感じはしなかったけど、まあ、いいか。それじゃ、ちょっと顔を洗ってくるよ」
九郎はすぐに立ち上がり、裏庭の井戸で顔を洗った。
外はまだ薄暗いが、雨はとっくに上がっていた。
吐き出す息は白く霞み、濃い霧が肌にしっとり絡んでくる。
見上げれば、高い空。
薄い紫から水色に、ゆっくりと流れていく。
ふと足下に目を落とすと、青い毛の子猫がすり寄っていた。
「……どうやら今日は、晴れそうだぞ」
九郎は子猫に向かって微笑んだ。
「――はい、クロウ。こんな感じだけど、気に入った?」
居間に戻った九郎は、ケイが用意した服を着て、
じっとりと姿見をにらみつけた。
「……いや、気に入るも何も、たしかさっき、地味な服って言わなかったか?」
「ええ、言ったわよ。売れ残っていた服の中では、かなり地味な方なんだけど」
「おいおい、これが地味って、いったいどんなラインナップの服屋だよ……」
九郎はがっくりと肩を落とし、鏡の中の自分をにらんだ。
(……ぬぅ。白いブラウスとベージュのズボンは、まぁいいだろう。しかし、何で上着が薄い桃色のセーラー服なんだ? しかも裾が太ももまで伸びているから、ほとんどワンピースじゃねーか。さらにスカーフは濃い桃色で、革のミドルブーツは赤茶色。そのうえ桃色の髪にオレンジのリボンまで付けたら――)
「――これじゃあ女子高生アイドルそのものじゃねぇかぁぁーっっ! あぁんっ!? あああああぁんっっっ!?」
思わず声を張り上げながら白衣のヒーラーに詰め寄った。
するとケイはにっこり微笑み、手を叩く。
「その女子高生アイドルっていうのはよく分からないけど、とってもよく似合っているわよ。クロウの頭の中はちょっとアレだけど、見た目は可愛い女の子なんだから。それくらいオシャレしないと、もったいないからね」
「おいこらテメー、ちょっと待て。あんた今、オサレって言ったか? オサレって言ったのか? まさかこの服、ほんとはあんたの趣味じゃねーだろうな? あぁん?」
「――あん? 私の趣味ですが、何か」
ケイはいきなり両目を見開いてにらみ下ろした。
「……あっ、いえ、何でもないっす」
鬼神のごとき眼光に、九郎はとっさに目を逸らす。
そして、うつむき加減に胸の前で指を合わせ、小さな声で謝罪した。
「す……すんませんっした……。わざわざ服を持って来ていただいたのに、感じの悪いこと言って、ほんとすんませんっした……。だからもう、蹴り飛ばさないでください……」
「ええ、もちろん」
ヒーラーは一瞬で目元を和らげ、朗らかに微笑んだ。
「この私がクロウのことを蹴り飛ばすなんて、そんなことするはずがないじゃない。それよりも、昨日の話、どうするか決まった?」
「……ああ、うん。決めたよ」
その問いに、九郎は表情を引き締めた。
そしてケイをまっすぐ見つめ、はっきり答える。
「オレ、魔王を倒しに行ってきます」
「……そっか」
ケイは白衣のポケットに両手を突っ込み、桃色の髪の少女を見つめる。
「それじゃあ、考えが変わったのね」
「変わったというか、気づいたんだ。昨日、ここに泊めたヤツに言われたんだよ」
九郎は楕円形のテーブルに手を伸ばし、
置きっぱなしになっていた七枚の銀貨に指で触れた。
「たぶん、あいつは昨日、働くか働かないかで迷っていたんだと思う。だけど、思い切って働いて、この銀貨を手に入れた。そしてあいつはこの金を得たことよりも、二人の人間に出会えたことをよかったと言っていた。だからオレも、思い切ってやってみようと思ったんだ」
言って、指先で銀貨を弾く。
銀貨は二枚のコインに軽く当たり、澄んだ音を響かせた。
「もちろん、魔王を倒すなんて現実的には不可能だと思う。だけど、行動すれば何かが変わるかも知れない。あいつが銀貨を手に入れて、オレと出会ったように、オレも何かを手に入れて、誰かと出会えるかも知れない。まあ、お先はほとんど真っ暗だけど、閉じこもっていたら暗いままだし、何もしなければ何も変わらない。だけど、道を進めばいいことが待っているかも知れない。もしかしたら、思いもかけないことが起きるかも知れない。だからオレは、オレの命を守るために、魔王を倒しに行こうと決めたんだ」
九郎は顔を上げて、ケイを見つめた。
ケイは微笑みながら、ゆっくりと口を開く。
「そっか。いつ行くの?」
「時間がないから、このあとすぐ」
「思い切りがいいんだ」
「何も持ってないから身軽なだけさ」
わざとらしく、肩をすくめる。
「とりあえず、昨日教えてもらったラッシュの街に行ってみるよ。そこで仕事をしながら情報を集めて、魔王を倒す方法を考えようと思う」
「一人で大丈夫?」
「ああ、もちろん」
九郎は小さなこぶしで、薄い胸を叩いてみせる。
「こう見えて、光の柱に選ばれた救世主ってヤツだからな。可能性はあるだろ」
「ふふ、昨日はあんなにわんわん泣いていたのにね」
「それは言わない約束だろ」
くすりと笑われ、九郎は恥ずかしそうに顔を背けた。
「それじゃあ、これは私からの餞別よ」
ケイは椅子に置いていたカバンに手を入れた。
そして革の袋を二つ取り出し、テーブルに置いて指でさす。
「こっちの大きい方には銀貨が二百枚、小さい方には金貨が三枚入っているわ。金貨一枚は銀貨百枚分の価値があるから、盗まれないように気をつけてね」
「えっ?」
一瞬、呆気に取られた。
「あっ、いや、そんな大金もらえないよ」
「いいのよ。こんな事態になったのは、ほとんどマータの責任だからね。孫としてはこれくらいの償いは当然よ。ついでに、マータからも餞別を出してもらわないとね」
言ってカバンに手を突っ込み、今度は四枚の金属板をテーブルに並べた。
どれも本のしおりに使えそうなサイズで、
一枚は鉄のように黒く、三枚は虹のような銀色に輝いている。
「これは……?」
「この金属板は、マータが作ったアミュレットよ。これを持っている人間が死にかけると、魔法の力が自動的に発動して、身代わりになってくれるの。たぶん黒い方よりも、虹銀の方が効果はかなり高いはずよ」
「でも、これってけっこう貴重じゃないのか?」
「いいのよ、別に。マータが元に戻れば、こんなものはいくらでも作れるんだから。ああ、そうそう、いろいろ調べてみたんだけど、マータを元に戻す薬が作れそうなの。たぶん、放っておいても一か月ほどで元に戻ると思うけど、とりあえず魔法ギルドを通じて材料の調達を頼んだから、もっと早く元に戻せると思う。そしたらすぐにマータを向かわせるから、それまでは頑張って生き延びてね。昨日も説明したけど、マータなら魔法契約の変更なんて簡単にできるから」
「ケイさん……」
九郎は潤んだ瞳でケイを見つめた。
「すいません……。ほんと、何から何まで気を使ってもらっちゃって……」
「だからいいって。それよりも、パンを買ってきたから、玉子でも焼いて朝ごはんにしましょうか。クロウもお料理、手伝ってみる?」
「……ああ、もちろん」
九郎は微笑みながらうなずいた。
それから――。
朝食を一緒にとったケイは別れを告げると、
青い毛の子猫を抱いて、診療所に戻っていった。
九郎は昨日使った革のカバンに荷物を詰め込み、
役場でもらった桃色のローブを羽織る。
そして旅立ちの準備が完了すると、部屋の中をぐるりと見回した。
広い居間には、楕円形の分厚いテーブルに、大きな姿見。
勝手に火が点く魔法のランプに、魔法の暖炉。
濡れた服を乾かした物干し台に、ソファと長椅子。
壁際の棚には様々な置物や道具が並び、静寂の中に溶け込んでいる。
「……たったの一日だったけど、世話になったな。それじゃあ一発、魔王をぶっ倒しに行ってくるぜ」
九郎はこぶしを握り、気合いを入れた。
そして意気揚々とドアを開けて、一歩を踏み出す。
直後――いきなり陽気な声が飛んできた。
「――はぁ~い、グッドモォーニーンっ!」
九郎はきょとんとまばたいた。
玄関先には、なぜか銀髪の若い女性が立っていた。
昨日と同じエンジ色のエプロンドレスを着たサーネだ。
酒場のウェイトレスは顔の横でダブルピースを決めたまま、
満面の笑みで声を張り上げる。
「イエーイ! クロウが旅に出るって聞いたから、お見送りに来ちゃったよぉ~んっ! ついでに残りの銀貨、一八五枚も渡してプリぃ~ズっ! はい、ピスピスっ!」
その瞬間、九郎は石のように固まった。
そして顔面からだらだらと汗を垂れ流しながら、
悪魔のような笑顔を見つめ続けた。