第二章 9
「――それじゃあ、クロウ。私は診療所に戻って、マータを元に戻す方法を調べてみる。マータなら魔法契約の変更くらい、お手の物だからね。それまであなたはこの家を自由に使っていいけど、何か困ったことがあったら、とりあえず診療所まで来るように。くれぐれも、酒場の性悪女なんかに相談しちゃダメだからね」
今後のことについて話を終えたケイが、玄関ドアの手前で振り返り、九郎に言った。
「うぃっす……」
九郎は呆けた顔で弱々しく片手を上げる。
ケイは心配そうな表情を浮かべたが、息を吐き出し、ドアを開ける。
「……あらやだ。ちょっと降ってきたわね」
夕暮れの空は、一面灰色に覆われていた。
ぽつり、ぽつりと降り出した滴の中を、ケイは足早に去っていく。
白衣の背中を玄関先で呆然と見送った九郎は、
家に戻り、椅子に腰かけ、テーブルに頭をのせた。
「……ぜんぶ夢だと言ってくれぇ~」
再び子猫の頭をなでながら、鼻声で呟いた。
子猫は九郎の白い指をちろりと舐めて、
「にゃぁ~ん」と一声、小さく答える。
「ああ、そっか。昼飯を食ってなかったから、腹が減ったんだな。食材も自由に使っていいって言われたから、何か作ってやるよ。晩飯ぐらいはしっかり食わねーとな」
九郎は億劫そうに席を立ち、奥の台所へと足を向ける。
そして片っ端から棚を漁った。
「――えっと、干し貝柱に干しキノコ、それに乾燥コンブか。出汁はこれで取れそうだな。あとは、干し肉、チーズ、玉ねぎ、ニンニク、ニンジン、じゃがいも、しなびた青菜。それと大麦に米か……。やっぱり乾物が多いけど、食材はけっこうあるな。それじゃあ今夜は、玉ねぎなしのリゾットにするか」
呟きながら、素焼きの壺に入った塩や香辛料を調理台に並べていく。
それから壁際にあるレンガ造りのかまどをのぞき、
暖炉から火種を取って、火を熾す。
換気のために上の窓を大きく開けたら、
庇に当たる雨の音がかなり大きくなっていた。
「……こいつは本降りになりそうだな」
黒く変わりつつある雨雲を眺め、九郎は窓を半分ほど閉めた。
すると不意に、居間の方で音がした。
耳を澄ますと、リズミカルな音が繰り返し聞こえてくる。
「あれは……ノックの音か? ケイさん――じゃないよな。あの人なら勝手に入ってくるはずだし」
九郎は首をかしげながら居間に戻り、暖炉の火かき棒を手に取った。
そのまま両手で構えながら、玄関のドア越しに声をかける。
「はい、どちらさんですか?」
とたんにノックがぴたりと止まった。
しかし返事は聞こえてこない。
少し待っても、耳に届くのは雨音だけだ。
(……うーん、まいったなぁ。でも、ノックをするぐらいだから、押し込み強盗なんかじゃないよな。それにここは大賢者の家だし、わざわざ押し売りに来るヤツもいないだろ)
九郎は腹をくくり、ドアをゆっくり内側に引いて開ける。
そして訪問者を見たとたん、思わず目を丸くした。
「えっ? おまえらはたしか……」
玄関先には二人の人物が立っていた。
一人は白いローブをまとった、長い黒髪の少女。
もう一人は、茶色いワンピースの女の子だった。
二人とも髪の毛からぽたぽたと滴を垂らし、女の子の方は寒そうに震えている。
「――この子が、おまえに用事があるそうだ」
黒髪の少女が、女の子を指さしながら淡々と言った。
「オレに用事?」
九郎が目を向けると、女の子は小さなカゴを差し出してきた。
中には赤いトマトが三個入っている。
「あのぅ……これ、さっきわけてもらったので、おねえさんにお礼がしたくて……」
「えっ? そのトマト、オレにくれるのか?」
訊くと、女の子は小さくうなずく。
すると横から、黒髪の少女が淡々と口を挟む。
「おまえに仕事を譲ってもらった礼だ。黙って受け取ってやるといい」
その言葉に、九郎は思わず苦笑いを浮かべた。
「なるほど、そういうことか。何だか、逆に気を使わせちまって悪かったな。とりあえず二人とも中に入れよ。体を拭く物を取ってくるから、暖炉の前で待っていてくれ」
すぐに二人を招き入れ、寝室からタオルを取ってきて手渡した。
二人は頭を拭いて暖炉の火に手をかざす。
しかし、濡れた服からは滴が垂れ続けている。
「あー、その格好だとカゼ引くな。よし。おまえら、そこでちょっと待ってろ。今、風呂をいれてくるから」
「えっ? そんな、いいです――」
「ああ、いいからいいから」
遠慮しかけた女の子に、
九郎は片手を向けながらさっさと家の奥に移動する。
石造りの風呂場には、裏庭に通じるドアがあった。
ドアを開けると、すぐ目の前に屋根付きの井戸がある。
九郎は何度も水を汲んで往復し、石の浴槽を満たしていく。
そしてじゅうぶんに水が溜まったところで、水面に両手をかざした。
「さてと。ケイさんの言うとおり、魔法は上手に活用しないとな。――アタターカっ!」
魔言と同時に、手のひらの前に黄色い魔法陣が浮かび上がる。
すると数十秒で、水の中に細かな泡が立ち始めた。
さらに一分ほどで、ボコボコと音を立てながら湯気が立つ。
「……おっと、やばい。沸騰させたら入れないからな」
九郎は少し熱めに風呂を沸かした。
それから寝室に足を向け、マータの魔法衣装を二着手に取る。
その服を二人に渡し、風呂場へと連れていった。
*** *** ***
「――あ、あの、ごちそうさまでした。すごくおいしかったです」
少し大きめの魔法衣装に身を包んだ女の子が、丁寧に頭を下げた――。
二人を風呂場に案内した九郎は、濡れた服を暖炉に干し、
三人分の夕食を作って一緒にテーブルを囲んだ。
すると、食後のお茶を出した時に女の子から礼を言われ、
照れくさそうに微笑んだ。
「いやいや。あのトマトのおかげで、美味いトマトリゾットができたからな。わざわざ持ってきてくれてありがとな。えっと……名前は何て言うんだ?」
「あ、トリィです」
「そうか。オレは九郎だ。それで――」
九郎は黙々とお茶をすすっている少女にも顔を向ける。
「おまえは?」
「コツメだ」
やはり大賢者の衣装を着た少女は、目を合わさずに淡々と答える。
「そうか、トリィにコツメか。この村は、動物っぽい名前が多いんだな」
「それは違う」
黒髪少女がすぐに否定した。
「自分はこの村の住民ではない。ただの通りすがりだ」
「へぇ、そうなのか。じゃあ、何でトリィと一緒に来たんだよ」
「仕事先がたまたま一緒だった」
「仕事先って、おまえたしか、追加の求人依頼をオレに譲ってくれたよな? あれがトリィと同じ仕事だったのか」
その言葉に、トリィが肯定するようにうなずいている。
「ふーん、なるほどね。それでおまえは、オレを探しているトリィをわざわざ連れて来てくれたのか。でも、オレがここにいるってよく分かったな」
「当然だ。おまえは酒場に入ってきた時、大賢者の服を着ていた。だったら大賢者の家を尋ねればいい。簡単な推測だ」
「酒場? ああ、もしかしておまえ、酒場で朝飯食ってたヤツか」
「……あ、あの、おねえさん」
「ん?」
不意にトリィがおずおずと声をかけてきた。
「わたし、そろそろかえります。たぶん、おかあさんが心配しているとおもうので」
「あっ、そうか」
言われて慌てて窓を見た。
外は既に真っ暗で、雨がざあざあと降り続いている。
「うあ、やっべー、完璧に土砂降りじゃん。しかも、携帯電話がないから連絡もできねーし……。うーむ、ファンタジーの世界って、こういう時は不便なんだよなぁ……」
「うん? 何だ? その、はんたずぃ、とは?」
ふと、コツメが首をかしげて訊いてきた。
「ああ、いやいや、はんたずぃ、じゃなくてファンタジーな。おとぎ話の世界って意味さ。それよりトリィ。おまえの家って、村のどの辺なんだ?」
「えっと、東の一番はしっこの方です」
「ってことは、ここからほとんど正反対か……。よし、分かった。ちょっと待ってろ」
九郎はすぐに寝室に駆け込み、衣装箱からなめし革のマントを取ってきた。
そして自分の服に着替えたトリィにマントを着せて、フードを被らせる。
「うん、あのババアのだからおまえには少し大きいが、雨の日だからこれくらいでちょうどいいだろ」
「ありがとうございます。このマントは、あした返しにきますから」
「いや、その必要はない。オレが今から送っていってやるからな」
丁寧に頭を下げたトリィに、九郎は背中を向けてしゃがみ込む。
「ほら、早く背中に乗りな。こんな雨の中を歩いたら、せっかく乾いた服がまた濡れちまうからな」
「えっ? で、でも、そんなことをしたら、おねえさんがぬれちゃいますけど……?」
「いいんだよ、オレは。おまえを送ったあとに風呂に入るから大丈夫だ。だからほら、早く乗りな」
「えっ? えっ? で、でもぉ……」
トリィは困った顔をして一歩下がった。
すると、その小さな肩をコツメが押さえ、九郎の背中に軽く押しやった。
「遠慮するな。人の好意を受け取ることも、思いやりだ」
「へぇ。おまえ、なかなかいいこと言うじゃねーか」
九郎はトリィを背負って立ち上がり、コツメに微笑む。
コツメは淡々とした表情のまま、玄関のドアを開けた。
「よーし、トリィ、しっかりつかまってろよ」
「す、すいません……。どうもありがとうございます……」
トリィは照れくさそうに礼を言い、九郎の体にぎゅっとつかまる。
「おう、気にすんな。それじゃあ、コツメ。オレはちょっとトリィを送ってくるから、悪いけど、留守番を頼む」
その言葉に、コツメは無言で首を縦に振る。
九郎も一つうなずき返し、すぐに雨の中へと駆け出した。