第十章 11
「――がっはぁぁっ!」
腹を殴られて前につんのめった九郎は、
後頭部を蹴られて地面を舐めた。
九郎は悶絶寸前だった。
血の気の失せた顔面は青に染まり、
うつ伏せに倒れた体は小刻みにけいれんしている。
半分開いた口からは胃液がごぽりと噴き出し、
ほとんど白目を剥いている。
「……まったく。武器を壊したぐらいで勝った気になるな。今日はこれくらいで許してやるが、年上にはもっと敬意を払え、馬鹿娘」
無様に転がった九郎を見下ろし、クンナは冷たい声で言い捨てた。
そして折れた剣を鞘に戻し、メイレスの後ろに戻っていく。
そのとたん、周りを取り囲む騎士たちが一斉に拍手した。
鋼の拳が天を衝き、長槍が大地を叩く。
誰もがクンナの勝利を称え、甲高い口笛が鳴り響いた。
一瞬で喧噪に包まれた前庭で、オーラとコツメは顔を見合わせ肩をすくめる。
マガクとクサリンはすぐさま九郎に駆け寄った。
「クロさん、クロさん。大丈夫ですかぁ? 聞こえますかぁ? ハトバクで、あの猿女を悶絶地獄に叩き落としていいですかぁ? え? 返事がないのはゴーサイン? わっかりましたぁ。それじゃあちょっくら地面に沈めて、お口を植木鉢にしてきますね」
「――いえ。その必要はありません」
瞬時にステッキを引き抜いたクサリンに、マガクが静かに声をかける。
「見たところ血は吐いていませんし、意識もあります。痛みだけを与えるように手加減したのでしょう。この程度なら数分で回復します」
「た……たしかに、そうだな……」
九郎が横たわったまま声を漏らした。
「い……痛みはもう、けっこう引いてきた……。しょ……勝負の内容では、オレが勝っていたからな……。次は……完璧に叩きのめしてやるぜ……」
「え? そうなんですかぁ? それじゃあ、痛みはほとんど引いたんですね?」
クサリンの問いかけに、九郎はわずかにアゴを引く。
「ま……まあ……最初に比べればな……。まだちょっと、動けそうにないけど……」
「そうですかぁ。それじゃあ――ハトバク」
クサリンはにっこり笑って魔言を唱えた。
直後、ステッキの周りにどす黒い魔法陣が浮かび上がり、
クンナがバタリと地面に倒れた。
クサリンはゆっくりと振り返り、
ビクンビクンとけいれんしているクンナを眺めてニヤリと笑う。
「わたしの目から見ても、今の勝負は引き分けでしたからねぇ。だったら、痛みも半分こにしないと不公平じゃないですかぁ。うっふふふぅ~。これがほんとの、痛み分けですぅ~」
「マジかよ……」
激痛が消えた九郎は体を起こし、クサリンをじっとりと見た。
「おまえだけは、マジで敵にしたくねぇな……」
「えへへぇ、うふふぅ、えっへへへぇ~」
クサリンは九郎の言葉を軽く聞き流し、
苦しみ悶えるクンナを見ながら満面の笑みを浮かべている。
マガクは口元を引き締め、緑の髪の少女から目を逸らす。
馬車の前に立つオーラとコツメは、クサリンに向けて親指を立てている。
それから少しして、クンナはメイレスに支えられて立ち上がった。
茶色い髪の女騎士は、腰の剣を鞘ごと抜いて杖にして、
青い顔で体を震わせながら九郎をにらみつけている。
「いやぁ、ごめんね、クロちゃん。うちの子が粗相をしちゃって」
メイレスが苦笑いを浮かべながら九郎に近づいてきた。
「あの子は昔っから負けず嫌いでねぇ。しかも気が短くてケンカっぱやくて、誰かれかまわず噛みついちゃうんだよねぇ」
「おいおい……。そいつはもはや猿というより、野犬じゃねーか」
九郎もすぐに立ち上がり、ローブの汚れを払いながらメイレスに訊く。
「そんで、状況がよく分からないんだが、何でおまえたちがこの村にいるんだよ。それに何だ? その格好は。傭兵のくせに、何でいきなりアルバカンの正規軍に入ってんだ?」
「いやぁ、実はボク、アルバカンの王様になっちゃったんだよねぇ」
「……はい?」
九郎はぱちくりとまばたいた。
メイレスは照れくさそうに頬をかきながら言葉を続ける。
「だからさぁ、ボクは五番目の王子だったんだよ。ほら、この前の爆発で王位継承者が全員死んじゃったでしょ? それでどうしようか悩んでたんだよねぇ。はっきり言って、王座にはこれっぽっちも興味がないし、ボクに政治ができるとは思えない。だからさ、いっそのことサザランに占領してもらえるとありがたいなぁって、本気で思っていたんだよねぇ」
「あー……ああ、うん、そうかそうか、えっと……え?」
九郎は訳が分からないといった表情でマガクを見上げた。
灰色の巨人は淡々とした顔のまま首を小さく横に振る。
その横に立つクサリンも、後ろに並ぶオーラとコツメも、
そろって首を横に振る。
「それじゃあ、えっとぉ……」
九郎は困惑した表情でメイレスを指さした。
しかしそのまま何も言わずに落ちていた棍棒を拾い上げて分解し、
腰の後ろの鞘に戻す。
それから垂れていたワイヤーを巻き戻し、
飛苦無を腰のケースにきちんとしまう。
そうして考えをまとめてから、改めてメイレスを見上げ、口を開く。
「……えっと、つまりあれか。おまえはアホな王族が嫌になって城を飛び出し、傭兵として生きていた。だけどいきなり王位継承者が全滅して、アルバカンが混乱に陥った。するといきなり、誰かがおまえに王様になってくれと頼みに来た。おまえはその願いを無視していたけど、日が経つにつれて気になり始めた。それで次第に心境が変化して、王になることを承諾した。――って感じなんだな?」
「おおぉ~、さっすがクロちゃん。まさにそのとおりだよぉ」
メイレスは目を見開き、感心しながら九郎を見つめる。
しかし九郎はため息を吐き、眉を寄せながら手のひらを向けて言う。
「いや、そういう設定はラノベやアニメじゃ鉄板中の鉄板だからな。むしろ当たっていた方が信じられん。というよりおまえ、マジで王様になったのか?」
「まあねぇ。イゼロンでクロちゃんと別れてから大急ぎで国に戻って、ほんの四日前に即位したばかりだけどね」
「ふーん。何だかずいぶんと慌ただしい即位だな。何か急ぐ必要でもあったのか?」
「そうそう、ちょっと面倒なことが起きちゃってね。ほら、アルバカンもけっこう大きい国だからさ、困ったことに王位継承権を持たない貴族たちが、王座を狙って内乱を起こしちゃったんだよ」
言って、メイレスは呆れ顔で肩をすくめる。
「ああ、なるほど、そういうことか。だから急いで王になって、内乱を収拾するために軍隊を率いているのか」
「うーん、さすがクロちゃん。話が早いねぇ」
「いや、だけど、そこまではいいとして、何でジンガの村なんかにいるんだよ。ここは独立自治区だから、アルバカンとは関係ないだろ」
「だから真っ先にここに来たんだよ」
メイレスは顔を曇らせながら、北東の空に目を向ける。
「軍を立ち上げた貴族の一人が、領土を拡張するために、独立自治区に攻め込んだんだ。まったく。アルバカンの人間ってのは目先の利益しか考えないから、ほんとに困るんだよねぇ」
「ああ、そういう理由だったのか」
九郎はため息混じりに呟いた。
「つまり、その貴族の軍隊が近づいてきたから、村人全員が避難したってわけか。そして、おまえらはその軍隊を倒すためにここまで来たってわけだな」
「それと、理由はもう一つ。――ほらこれ」
メイレスは革張りの手鏡を取り出して九郎に向けた。
鏡には、上空から見たマータの家が映っている。
「何だこれ? 鏡じゃないのか?」
「これは魔法の鏡なんだ。この前、クロちゃんに手鏡をあげたでしょ? あれを持っている人の場所が、この鏡に映るんだ」
「えっ!? なにそれっ!? まさかおまえストーカーかっ!?」
九郎は慌てて一歩下がる。
メイレスは苦笑しながら頭をかいた。
「そのストーカーっていう意味は分からないけど、ちょっとね、クロちゃんのことが気になっていたんだよ。だってほら、クロちゃんにアホな魔法契約をかけたのは、うちのアホな父親だからねぇ」
「ああ、なんだ、そういうことか」
「それで、どうだった? 魔法契約の変更はできた?」
「うーん、それが……」
訊かれたとたん、九郎はがっくりと肩を落とし、息を吐いた。
「あと一歩のところで、あの殺人コックがいきなり出てきて、改ざんの指輪を盗んでいきやがったんだ」
「え? 殺人コックって、まさかギルバートかい?」
「そうそう。あの頭のおかしな逆恨みヤローだ。で、そいつを追跡しようとしたら、おまえの騎兵隊が駆けつけてきて、見事に邪魔してくれたってわけだ」
「あらら。それは悪いことをしちゃったねぇ。ほんと、ごめんねぇ」
メイレスは申し訳なさそうに頭を下げた。
九郎は軽く手のひらを向けて、諦め顔で首を振る。
「……いや、あの殺人コックは幻影の指輪を持っていたからな。捕まえるのはおそらく不可能だったと思う。だから、おまえに責任を押しつけたりなんかしねーよ」
「そっかぁ。そう言ってもらえると助かるよ。でもそうすると、わざわざ会いに来た甲斐があったみたいだねぇ」
「――たしかにそうですね」
不意にマガクが口を挟んだ。
「これで、改ざんの指輪を探す必要がなくなりました」
「……え?」
九郎はきょとんとして巨人を見上げた。
「探す必要がない? え? なにそれ? どゆこと?」
「簡単な話ですよ、クロウさん」
マガクは慇懃に姿勢を正し、言葉を続ける。
「クロウさんの魔法契約は、アルバカンの王と取り交わした契約です。それは前の王、チャブル・パーキン個人ではなく、アルバカン王国の王が契約の対象者ということです。つまり、クロウさんと大賢者マータ、そしてアルバカン王の三名がそろえば、魔法契約は通常の方法で、変更や解除が出来るということです」
「え……? アルバカンの王って、まさか……」
「そうです」
愕然と目を見張った九郎に、マガクは一つうなずいた。
「そちらの若き王子が王に即位されたのであれば、クロウさんとの魔法契約は、新たな王の精神体に引き継がれています」
「ま……ま、ま、ま……マジで……?」
「はい。マジです」
「え……ちょま……ちょ、ま……マジで……マジで……」
言いながら、九郎の瞳に涙が浮かんだ。
九郎は思わずクサリンを見た。
オーラとコツメにも目を向けた。
クサリンは喜びの笑みを浮かべている。
オーラとコツメは親指を立てて力強くうなずいた。
九郎はそばに立つメイレスを見上げた。
そして、震える口で言葉を紡ぐ。
「そ……それじゃあ、おまえ、わざわざオレのために、ここまで来てくれたのか……?」
桃色の髪の少女の涙を見て、若き新王は申し訳なさそうに顔を歪める。
「元はと言えば、うちのアホな父親のせいだからね。それに、クロちゃんからサザランの皇帝の話を聞いて、自分がどれだけ無責任な生き方をしているか痛感したんだ。アルバカンを立て直せるのはボクだけなのに、何もしないでいる自分が恥ずかしくなったんだ。そのことに気づかせてくれたクロちゃんは、正真正銘、アルバカンの救世主だと思う。だからボクはここに来たんだ。これは、王としての当然の義務だ」
「お……おまえ……ちょ……ちょっと待って……ちょっと待って……」
九郎の目から堰を切ったように涙があふれた。
細い肩は小さく上下し、手はわなわなと震えている。
拭っても拭っても、涙はあふれて止まらない。
「それじゃあオレ……死なないで……死なないで済むのかよ……」
「――うむ。やはり、行動してよかったな」
涙で濡れた両手を見下ろす九郎の肩に、コツメがそっと手を置いた。
九郎は反射的に顔を上げる。
コツメはマータの家を指さしていた。
「そういや……そうだったな……。あの日、オレの背中を押してくれたのはおまえだったな……」
「さて。そんなつもりはなかったが、とにかく、一か月よくやった」
「おまえ……こんな時に、そんなこと言うなよ……」
九郎の目に、雨の夜と暖炉が浮かんだ。
長いひと月が脳裏をよぎる。
最初のトラブルを生んだのは、大賢者の青い魔法衣装だった。
最初に慰めてくれたのは、カバンに潜り込んだ青い子猫だった。
最初に腹が立ったのは守銭奴のウェイトレスで、
最初に感動したのは、初めて目にした魔法陣だった。
それから、いきなり蹴り飛ばしてきた白衣のヒーラーに、
トマトをくれた優しい女の子。
初めての民兵ギルド会館では、オッサンたちにいちゃもんをつけられた。
口やかましい中年メイドにはこき使われた。
汗水流して荷車を引いて、いかれたコックに逆恨みされた。
森の中で手ぬぐいを巻いて、震えながら全裸で洗濯をした。
追加報酬でもらったパンツを握りしめ、一人で静かに涙を流した。
三人娘を仲間に迎え、山の奥でガマを倒し、
盗賊たちに殺されかけて、薬師の三人に救われた。
いきなり逮捕に来た警備兵を口先三寸で追い返し、
夜の森でたき火を囲み、ウサギと鴨の味を知った。
襲われた馬車に加勢して、酒場でアシュボラを堪能した。
世間知らずの皇女殿下と馬車から飛び降り、
夜の風呂ですっぽんぽんにひん剥かれた。
若き皇帝と鍋をつつき、大きな胸のウェイトレスを抱きしめた。
白いパジャマの幼女を見つけ、黄金魔王に待ち伏せされた。
戦場と化した石の広場に巨人兵がすっ飛んできて、
青い閃光の大将軍が勝負を決めた。
いきなり絡んできた猿娘と角突き合わせ、
司書の悪女と焼肉酒場で化かし合った。
天冥樹の名物料理で、みんな仲良く腹を下した。
パラシュートで三人娘を蹴り落とし、
図書神殿のゾンビ巨人を、力を合わせて何とか倒した。
大法魔の悪だくみを、盗み聞きしてほくそ笑んだ。
ようやく戻ったジンガの村で、
神出鬼没の殺人コックに指輪を盗られて絶望した。
そして、突如駆けつけた騎兵団に度肝を抜かれ、
義理を通した若き新王に、涙が出た。
それから――。
何度も見上げた青い空。
曇り空。
雨の空。
煌めく星空。
そして今、目の前に広がる赤い夕焼け――。
思い出が、いくつもいくつも通り過ぎる。
九郎の顔がくしゃりと歪む。
瞳から、ぼろりぼろりと涙がこぼれ、
コツメに抱かれ、寄りかかる。
そして――。
そのまましばらく、静かに泣いた。