第十章 9
「――はぁはぁ……どうやら……逃げ切れたようだな……へっ、ザマぁみろ……」
ギルバートは足を止めて木に寄りかかり、荒い息を整えた。
直後、激しい痛みに顔が歪んだ。
反射的に肩を押さえ、目を向ける。
すると穴の開いたコックコートが、赤い血で黒く染まっていた。
「……クソ。マジでクソいてぇ……。しかしまあ、あの護衛はマジでヤバイからな。腕を切り落とされなかっただけマシか……」
ギルバートはコートの袖を引き千切り、肩に巻いて血を止める。
「……にしても、まさか伯爵まで出てくるとは、マジでビビッたぜ。こりゃあもう、ラッシュには戻れねぇな……」
満身創痍の中年男は大きく息を吐き出した。
そしてそのまま木の根に尻を下ろし、顔を上げる。
枝葉の隙間から見える空は、既に赤い。
細い雲に息を吹くと、白い筋がかすかに伸びる。
「まったく……。どいつもこいつもバカばっかりだな。なんで物事をきちんと理解できねーんだよ。食い切れない食料を売っぱらってなにが悪い。生ゴミにするくらいなら、金に換えて俺の懐に入れる方が百倍もマシじゃねぇか。こっちはマジメに働いてんだから、それぐらいは当然の権利ってもんだろ。ったく、マジでわけが分からねぇぜ」
言ってるうちに、腹の底から不快な気分が湧いてきた。
ギルバートはツバを吐き出し、気を落ち着ける。
そして、左手にはめた黄金色の指輪を見ながらニヤリと笑う。
「だけどまあ、ようやく運が向いてきたな。あの小娘の話しぶりだと、こいつは相当なお宝だ。ローソシアに行って売り払えば、しばらくは遊んで暮らせるだろ」
「――だったら、こちらが買い取ろう」
「ンなっ!?」
不意に聞こえた冷たい声に、ギルバートの顔面が引きつった。
「だっ! だれだっ!?」
とっさに腰を浮かせて立ち上がり、首を回して周囲を見渡す。
しかし、薄暗い森の中に動くものは何もない。
「どっ、どこだっ! テメーっ! どこにいやがるっ!」
「――ここだ」
低い声とともに、中年の男が藪の中から現れた。
褐色の肌の、屈強そうな男だ。
地味な黒い服に身を包み、腰には剣を提げている。
短い黒髪の男は、ギルバートの十メートルほど手前で足を止めた。
「その左手の指輪、金貨二十枚で買い取ろう」
「金貨二十だと……?」
思わずニヤつきかけた口元を、ギルバートは慌てて引き締め、男をにらむ。
「ばっ、バカ言ってんじゃねぇっ! こいつはなっ、魔法契約の変更ができるスゲー指輪なんだぞっ! たった二十枚じゃわりに合わねぇんだよっ!」
「そうか。少し足りないか。ならば金貨二十枚に、おまえの命をつけてやろう」
「はあ? 俺の命だと? なんだそりゃ? テメー、いったいなに言ってんだ?」
「死にたくなければ指輪を置いて失せろと言っている」
言って、男は小さな巾着袋を放り投げた。
そして巾着袋が二人の間に転がったとたん、周囲の闇から男たちが姿を現し、
ギルバートを取り囲んだ。
総勢十五名の武装集団だ。
「ンなっ!? なんだテメーらっ!? いったい何者だっ!?」
「知る必要はない。指輪を置いて立ち去れ。断れば殺す」
一方的な冷たい声。
ギルバートの肩がビクリと跳ねる。
同時に慌てて後ろに下がり、木に背中を押しつける。
そして目を血走らせながら男たちを見渡したとたん、はっと気づき、
正面に立つ中年男を指さした。
「そっ! そうかっ! テメーらっ! その黒い髪に浅黒い肌っ! 伯爵の護衛と同じだっ! 南の国のヤツらだなっ!」
「だからどうした」
男は剣を抜き放ち、殺気を放ちながら三歩進む。
「わっ! 分かったぁーっ! 分かった分かったぁっ! 二十だっ! それでいいっ! 二十で売ったっ!」
ギルバートは慌てて指輪を引き抜き、巾着袋の横に放り投げた。
するとその時――森の中に小さな笑い声が静かに響いた。
苦笑する男の声だ。
「――誰だ」
中年男性は素早く斜め後ろを振り返り、剣を構える。
見ると、赤い木漏れ日の中に二人の人物が佇んでいた。
茶色いローブを着た男と、長い銀髪の若い女だ。
「知る必要はない――と答えたら、少しばかり皮肉が過ぎるというものでしょうか」
ローブの男が笑みを含んだ声で言った。
同時に銀髪の女が呆れた声を小さく漏らす。
「ケチケチしないで教えてあげればいいじゃないですかー。そういう態度はネチっこくて、すごーく感じが悪いです」
「ははは。それはどうも。おほめにあずかり、光栄です」
ローブの男は嬉しそうに微笑んだ。
そして地面に転がる指輪を指さし、黒髪の男たちに話しかける。
「えー、お取り込み中のところ申し訳ありませんが、その指輪はこちらのものです。何しろ三年もの時間をかけて、ようやく手に入れた貴重品ですからね。勝手に売買されたら困ります。というよりも、はらわたが煮えくり返って笑いが止まりません」
「あらあら」
銀髪の女が呆れ顔で肩をすくめる。
「そういう本音はケチケチして教えない方がいいですよ。あなたの見た目はひ弱だから、相手を逆上させるだけですから」
「ええ、それはもちろん分かっています。それが狙いですからね。まあ、とりあえず私が先にやりますから、あなたは取りこぼしをお願いします」
「はいはい。取りこぼしが出るといいですけどね」
女は軽く伸びをしながら男の後ろに下がっていく。
同時に十五人の黒髪たちは素早く走り、二人を囲んだ。
「誰だか知らないが――」
「無駄な言葉は大好きですよ」
中年男が口を開いたとたん、ローブの男が言葉をかぶせて遮った。
さらに薄い笑みを浮かべたまま、優雅な動きで右手を差し出す。
その手のひらの上に、黄色と赤の魔法陣が瞬時に浮かび、
融合して燃える炎の矢と化した。
「さてさて。遠路はるばるお越しいただいた皆々様。本日は尊い命を散らすため、わざわざご足労いただき、どうもご苦労様でした」
瞬間――炎の矢が光となって解き放たれた。
一筋の赤い光線が暗い森を駆け巡る。
炎の軌跡は瞬時に十五の心臓をすべて射抜き、天に昇ってかき消えた。
同時に黒髪たちの体が発火。
全員そろって燃え尽きて、灰となって風に散った。
「……ほーらね。取りこぼしなんか一つもないじゃないですかー。まったくもー。こーんなことなら、酒場で働いていた方がまーだマシってもんですよー」
冷たい風に舞い上がる灰と燃えカスを眺めながら、
銀髪の女はつまらなそうに息を吐く。
「いやいや。どうもすみません。ご存知のとおり、私は臆病者ですからね」
男は軽く肩をすくめて歩き出し、明るい声で女に尋ねる。
「それより、今の魔法はどうでしたか? 逆算魔法を応用した新開発の攻撃魔法なのですが、ちょっとばかり自信があるんですよねぇ。敵が避けても絶対に命中するところがポイントなんです」
「んー、そうですねぇ」
女は隣を歩きながら男を指さし、口を開く。
「まあ、たしかに発動は早い方でしたね。でも私なら、矢が飛ぶ前にあなたを切り刻んでいると思いますけど」
「ははは。こいつは手厳しい。ですが、たしかにそのとおり。実戦で魔法を使うのは無謀どころか愚行の極み。殺してくれと言ってるようなものですからねぇ」
「そうそう。大事なのはスピードです。戦場で魔法の発動に二秒もかかっていたら、軽く三回は殺されます。今だってあと十人多かったら、あなた一人じゃぶっ殺されていましたからね」
「ええ、それはもう、間違いなくそうでしょう。私はひ弱な魔法使いですからね。剣士とまともに戦って、勝てるはずがありません」
男と女はのんきに話しながら、ギルバートにゆっくり近づいていく。
ギルバートは、瞬時に燃え尽きた男たちを見て腰を抜かしていた。
そして木の根元にへたり込んだまま、
迫り来る二人を呆然と見上げ、震える口を何とか動かす。
「な……なんなんだよ、おまえらは……」
「おやおや。それはまたずいぶんとつまらない質問ですが、あなた、本当に知りたいのですか?」
ローブの男は腰を屈めて黄金色の指輪を拾い、懐にしまって優しく微笑む。
「まあ、教えてあげてもかまいませんが、どうせ無駄になりますよ?」
「ふ……ふざけんな……ふざけんじゃねぇ……。おまえらまさか、この俺を殺すつもりなのか……?」
ギルバートは地面に尻をこすりつけながら横にじわじわと逃げていく。
しかし、まっすぐ近づいてきた女と目が合ったとたん、
すくみ上がって動きが止まった。
「いいえ、違いますよ?」
銀髪の女がギルバートを見下ろし、淡々と宣告する。
「殺すつもりどころではありません。絶対に殺すんです」
「ぜ……絶対……!?」
「はい、そうです。あなたは今、サザランで一番強い剣士と、三番目に強い魔法使いに狙われています。仮に魔王があなたを助けに来ても、諸共に切り捨てます」
「はぁっ!? さっ!? サザランで一番!? それってまさかっ!? あのブルーナイトってことか!?」
「おやおや。さすがにご存知でしたか」
ローブの男がくすりと笑った。
「そうですよ。そちらの女性は正真正銘、サザランの宝剣を受け継ぐ最強騎士です。まあ、私はひ弱な魔法使いなので、三番どころかもっと下だと思いますけどね。とにかく、あなたには大変残念なお知らせですが、そちらの最強騎士さんは、あの桃色さんのお友達なんです」
「も、桃色!? それってまさか! あのクソ生意気な小娘のことか!?」
ギルバートが吠えたとたん、銀髪の女は嬉しそうに微笑んだ。
「はぁーい、そうでぇーす。何しろクロウさんのおかげで、酒場の売り上げは右肩上がりの大繁盛ですからねぇ。感謝感激雨あられ。おまけにあの子は、こんなろくでもない女を抱きしめて、慰めてくれたんです。だから――サザークロス」
言って、女は頭上に片手をかざす。
瞬間――空の彼方から青い光が降り注ぎ、一振りの剣が現れた。
女は青い剣を逆手に握り、そのままギルバートの心臓に突き立てた。
「ごぶ……」
ギルバートはわずかに血を吐き、白目を剥いて絶命した。
女は死体を踏んで剣を引き抜き、さらに三回突き刺した。
「――だから私は、あの子を傷つける人は嫌いなんです。嫌いです。黙って死ね」
女は言い捨て、剣を払い、血を飛ばす。
そしてすぐに剣を頭上に放り上げる。
ブルーソードは青い光と化して宙に消えた。
「……はい、お疲れ様でした。どうやら、憂さ晴らしぐらいにはなったようですね」
ローブの男が女の背後で微笑んだ。
それから赤い魔法陣を炎の矢に変え、
ギルバートの死体を欠片も残さず焼き尽くす。
銀髪の女はゆっくりと振り返り、男に向かって肩をすくめる。
「うーん、相手が弱すぎて、いまいちでしたねぇ」
「いやいや。それはどうもすみません。改ざんの指輪を手に入れるために、南のバインタイン祈祷国が精鋭部隊を送り込んだと聞きましてね。それであなたにご足労いただいたのですが、少しばかり拍子抜けでしたね」
「たしかにあそこの姫巫女たちは厄介ですけど、あなたはいつも慎重すぎるんです。しかも秘密が多すぎです。その指輪を手に入れるために頑張ったのはけっこうですが、そういう計画はもっと早く教えてください。王冠の魔王が出てきたからやっつけろだなんて、いきなり言われても困るんです」
「それはどうも申し訳ありません。次からはなるべく事前に打ち明けるよう、心がけておきましょう」
「うそつけ、このメガネ」
女は男の横を通り過ぎながら歯を剥いた。
そして金貨の入った巾着袋を拾い上げ、男に向ける。
「これ、もらってもいいですよね?」
「ええ、どうぞどうぞ。それより、これからどうしますか? 桃色さんのお手伝いに行くのでしたら、お付き合いしますけど」
「だから、そういう心にもないことは言わないでいいですって」
女は巾着袋の紐をベルトに結び、元来た道へと戻っていく。
「あっちにはマガクさんがいますからねぇ。あなただって、万事お任せするって言ったんでしょ?」
「ええ、それはたしかに言いましたけど、やはりこういう結果になりましたからねぇ」
男は女の隣を歩き、懐にしまった指輪をつつく。
「それは仕方ないでしょ。いくらマガクさんでも体は一つしかないんだから。それより、私は言われたとおりここまで一緒に来たんだから、あなたも約束はちゃんと守ってくださいよ?」
「ええ、それはもう、もちろんです。万が一にも桃色さんが生き残れたら、あとで魔法契約を書き換えますので、安心してください」
ローブの男はメガネのツルを指で押し上げ、ニヤリと笑う。
その隣で女は前を向いたまま、表情を冷たく引き締める。
そして二人は口を閉ざし、そのまま森の奥へと姿を消した。