第十章 8
「――えっ!? なっ、なにっ!? なんの音!?」
青から赤に変わりつつある高い空に、
乾いた音が前触れなく響き渡った。
深い森の中を歩いていたジンジャーは、とっさに首をすくめて左右を見渡す。
「……何かの爆発音だ」
少し前を歩いていたサクナも足を止め、腰の剣に手を伸ばす。
「えっ? 爆発音ってまさか、あのコックの仕業……?」
「……分からない。音の感じは軽かった。あっちだ」
サクナはすぐに剣を抜き、慎重に森の奥へと歩き出す。
女伯爵の護衛は転がっている枯れ枝を回り込み、
落ち葉を静かに踏みしめ、ゆっくりと足を運ぶ。
ジンジャーもサクナを真似て、おそるおそるついていく。
一歩ごとに小枝を踏み折り、落ち葉をガサガサと踏みしだき、
存在感をまき散らしながらあたふた進む。
「あら。静かに歩くのって、けっこう難しいのね――むぐぐぐぐ」
のんきなジンジャーの口をサクナが突然片手で塞いだ。
さらにそのままジンジャーの細い腰を軽々と抱き上げ、
近くの木の陰に引っ張り込む。
「……誰か来る。静かにしてて」
「むごっごご」
サクナのささやき声に、ジンジャーは言葉にならない声を漏らす。
すると急に、小枝や落ち葉を踏み砕く音が近づいてきた。
「……はあはあ……クソが、いてぇじゃねぇか……」
それは全身傷だらけのギルバートだった。
不意に現れたギルバートは足を止め、近くの木に寄りかかる。
そして肩で呼吸を整えながら、腕や足に突き刺さったガラス片を引き抜き、
投げ捨てる。
薄汚れたコックコートはあちこちに焦げ目がついて、
さらにみすぼらしくなっている。
しかし表情だけはやけに明るい。
元コックはニヤリと顔を歪め、満足そうに言葉をこぼす。
「……だけど、へっ、ザマー見やがれ。これであのクソ生意気な小娘は、二日後にはくたばるからな。正義は必ず勝つってわけだ」
(むぐーっ! むぐぐぐむぐぐっ!)
ギルバートのひとり言に、ジンジャーは目を吊り上げ、
口の中で怒りを吐いた。
するとサクナは口をがっちり押えたまま、ジンジャーの耳元でそっとささやく。
「……つまり、あの子はまだ死んでない」
(むぐ。むぐぐむーぐ)
ジンジャーは一瞬で落ち着きを取り戻し、こくりとうなずく。
サクナは女伯爵の口から手を離し、
木の陰に隠れたままギルバートに目を向ける。
直後、ジンジャーのクシャミが森の中に響き渡った。
「――ぶへっくしょーいっっ! ……あ、ごめんなさい」
「だれだぁっ!」
ギルバートはびくりと肩を震わし、反射的に顔を向けた。
そして木の陰から出て来たサクナを見たとたん、驚愕に目を見開いた。
「てっ! テメーは伯爵の護衛じゃねぇかっ! なんでテメーがこんなところにいるんだよぉっ!」
「――お黙りなさい、ギルバート」
続いて姿を現したジンジャーが静かに命じた。
「はっ!? 伯爵!? なっ、なんでっ!? なんで伯爵までいるんだっ!?」
「決まっています――」
一瞬で顔に恐怖の色を浮かべた元コックに、
若き女伯爵は感情を消した青い瞳で淡々と宣告する。
「わずか数年とはいえ、あなたは我が家の使用人。つまり、その悪行は我が家の恥。栄えあるイカリンの名に泥を塗ったあなたを、これ以上捨ておくことはできません。故に、この場で誅殺します」
「……ふ……ふざ……ふざけん……ないでくださいよ……」
射抜くような鋭い視線に、ギルバートはおののきながら後ろに下がる。
「お……俺はもう……あんたの……あなたの屋敷のコックじゃねぇんだ。命令される筋合いなんか――」
「ないはずがありません。わたしはラッシュの支配者です。あなたの命は、わたしの足の下にあるのです」
「い……いや……それはたしかにそうっすけど……俺は、そんなに悪いことはしてないじゃないっすか……」
ギルバートは卑屈に腰を曲げながら、さらにたじたじと下がっていく。
「理解しろとは言いません。理解する必要もありません。黙ってその場にひざまずきなさい」
「い、いや……そ……そんなぁ……。ほんと……ほんともぉ、カンベンしてくださいよぉ……」
ギルバートは泣きそうな顔で震えながら、両膝を地面に落とす。
女伯爵は氷のような目で見下ろしたまま、冷たい声で言い放つ。
「ジンジャー・イカリンの名で命じます。サクナさん。あの者の首をはねなさい」
「……うん」
サクナは抜き身の剣を握りしめ、元コックにまっすぐ向かう。
「ふ……ふざ……ふざけんな……ふざけんなよ……」
ギルバートは迫り来る剣を見つめ、全身を激しく震わせている。
そしてサクナがあと数歩のところまで近づいた瞬間――。
悲鳴を上げながら逃げ出した。
「いっ! いやだぁーっ! いやだっ! いやだっ! 死にたくねぇーっ! 俺はまだ死にたくねぇぇーっっ!」
ギルバートは死に物狂いで藪をかき分け、獣のように走って逃げる。
瞬間――サクナは剣を脇に構え、素早く駆けた。
そして風のように一瞬で間合いを詰め、背後から獲物の肩を貫いた。
獣のような大絶叫。
ギルバートは痛みを叫んだ。
肩をねじって剣を引き抜き、血を吹き出しながら転げ回り、
地面を這って逃げ回る。
さらに手足に茶色い魔法陣を発動させて近くの大樹にへばりつき、
泣き叫びながら這い登っていく。
「……ヤモリみたい」
サクナは鋭く息を吸い込み、頭上の獲物を狩りに走る。
猿のように木から木に飛び移る元コックを見据えたまま、
足場の悪い森の中を素早く駆ける。
そしてギルバートが着地した枝に向かって宙を舞い――一刀両断。
ギルバートは足場を失い、切断された枝ごと落下。
地面に激突して転がりながら、なおも哀れっぽい悲鳴を上げて必死に逃げる。
そしてほとんど無意識に、握っていた枝を女伯爵に投げつけた。
「――えっ?」
二人を追いかけていたジンジャーは、飛んでくる枝を見てきょとんとした。
その断面はサクナの一撃で刃物のように尖っている。
枝は投げ槍と化して空を切り裂き、ジンジャーの胸に突き立った。
――寸前、風のように駆け戻ったサクナが弾き飛ばした。
「……危ない」
「ええ……」
ジンジャーは落ち葉にぺたりとへたり込んだ。
「今のはほんと、死ぬかと思った……」
「……ごめん。逃がした」
サクナはギルバートが逃げていった方向を見て呟き、剣を一振りして鞘に戻す。
「いいえ、今のはわたしのせいですから仕方がありません。それよりサクナさん。助けてくれて、ありがとね」
ジンジャーはサクナの手につかまって立ち上がり、
服についた枯れ葉を払いながら言葉を続ける。
「さてと。それじゃあ、街に戻ったら追撃隊を出しましょうか。それでも見つからなかったら放っておいてもいいでしょう。あのような者に、いつまでも関わっている暇はありませんからね」
「……でも、気になることを言っていた。あの子が死ぬって」
「ええ、たしかにそうね。ですから、わたしたちはクロウ様に会いに行きましょう。当初の予定とは違うけど、別の形で恩を売ることができるかも知れないし」
「……うん。でも、ちょっと待って」
「え?」
不意にサクナがジンジャーを木の陰に押し込んだ。
そして気配を殺しながら、森の奥に目を向ける。
「どうしたの、サクナさん」
「……馬が来る。しかも、かなりの数」
「馬?」
ジンジャーも木の陰からそっと顔をのぞかせる。
すると騎兵の一団が姿を現した。
数十騎の騎士たちが馬をゆっくり歩かせて、慎重に木々の間を進んでいく。
「……フルプレートの完全武装。あれはおそらく、アルバカンの正規兵」
「アルバカン?」
ジンジャーはアゴに指を当てて首をひねった。
「はて? どうしてアルバカンがジンガの村に出兵しているのかしら? そもそも、アルバカンの王族は死に絶えたのだから、軍隊が行動するはずないわよね……?」
「……分からない。でも、ヤツらに近づくのは危険。どうする?」
「そうね……」
訊かれてジンジャーは眉を寄せた。
「これはちょっと調べる必要があるわね。独立自治区にアルバカンの軍隊が侵入するのは、重大な協定違反よ。彼らの目的が何なのか、できる限り情報を集めましょう」
「……分かった。それじゃあ、こっち」
サクナは一つうなずき、すぐに足音を殺しながら歩き出す。
ジンジャーも黙って従い、小枝を踏み砕きながらついていった。