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【短編集】はじめまして

高野の久遠

作者: 山石尾花

 目を閉じれば、蓮華の花。

 八葉蓮華に広がるのは、久遠の曼荼羅世界。

 


 ──長い夢を見ていた。

 讃岐に生まれ、都で仏教を学んだ私は、天に導かれるように唐へ渡り、密教を学んだ。日本に帰国して教えを広め、紀の国は高野を賜ったのはもう遠い昔のことか。

 そして、この奥之院に入定してより千と二百。教えを守り、仏の道を信ずれば、兜率天とそつてんから弥勒菩薩の供としてこの世に生まれ出よう──そう、嘆く弟子達に語ったのが懐かしい。

 様々な地を訪れたが、やはりこの地が落ち着くのだ。ある時は厳父がごとく私たちを律し、ある時は慈母がごとく私たちを赦す──そんな高野の地に、初めてやって来た時の夢を見ていた。


 眠気まなこを擦り擦り、物音を立てぬよう、私は廟を出た。まだ陽は登っておらず、外は薄闇に包まれている。澄んだ空気が寝ぼけた身体をきりりと引き締め、自然と背筋が伸びた。

 廟を出ると、数多の燈籠の灯が私を出迎えた。燈籠堂で揺れる灯を眺めるにつけ、かつての日々が思い起こされる。人の心は月の満ち欠けのように変わりゆくものであり、私の心もまた留まることなく、常に変化しうねっていた。しかし、私が廟に籠もったあの日からずっと、この堂の灯は変わらない。消えずの炎が法衣の裾を照らし、赤い敷物に濃く淡く、影を落とした。

 堂の扉をそっと押し開け、外の空気を吸い込んだ。外の様子を見に行くのは、私の日課になっている。もちろん、誰にも見られぬよう、こっそりとだ。

 なに、若い頃のように、少しばかり散策するだけだ。これでも若い頃は修験者に混じり、方々の野山を駆けては、仏教について昼夜問わず思案したものだ。分かっておる、あまり遠出はせぬよ、私も若くはないのだから。


 道の両脇の石燈籠が、足元を微かに照らす。本当にここは光が絶えぬ場所だ。苔の上で朝露の玉がころころと滑り落ちる。落ちた雫は跳ねることなく、静かに地面に吸い込まれた。

 御廟橋ごびょうばしの前で、一度立ち止まり、逡巡する。渡るべきか、渡らざるべきか。

 あの世とこの世の境にいる己が、安易にうろつくべきではないのかもしれない。だが、今の世を見たいという誘惑に耐えきれず、結局いつも一歩踏み出してしまうのだ。一歩踏み出して仕舞えば迷いはない。むしろあの世とこの世という仕切りの、なんと瑣末なことよ。


 杉林の中、長く伸びた参道を軽やかに歩く。空気は瑞々しく、木々の呼吸が聞こえてきた。そして、むせ返る程の土のにおい。

 火照った素足の裏に石畳の冷たさが心地よい。参道にはそこかしこに墓碑が立ち並んでいて、魂の息吹を感じた。ここにいる魂は敵も味方も、貴賎もなく、ただ揺蕩っているだけだ。日本の時代を彩り、山河を駆け巡った数多の魂が、この高野の地で永遠の時に身を委ねている。私はその者達の、真言にも似た囁きに耳を傾け、しばし頭を垂れた。


 朱の根本大塔こんぽんだいとうの中に踏み入り、私はその中央の大日如来を仰ぎ見た。確か、私が入定する前は、まだこの塔は完成していなかったはずだ。この塔を見る度に、私は今なお、この地で信仰が盛んなことを肌で感じるのだ。教えは受け継がれ、連綿と続いていくことだろう。宇宙に果てがないのと同じように。


 大門をくぐり、左右の阿形あぎょう吽形うんぎょうに挨拶をする。この恐ろしげな顔も見慣れたもので、私はふと頬を緩ませた。大きく深呼吸してうんと背伸びをしてみれば、加太の岬が見渡せる。寄せる波が、白い飛沫しぶきをあげた。

 もっと見たい、と地を蹴り、雲を蹴り、もう一飛びする。上空から見る高野の眺めは何とも形容しがたい。

 紀伊山地の八つの山々に囲まれた盆地。巨大な蓮華座というべき真言の境、密教の聖地。

 盆地を駆け下る霧のように霊気が凝り、真白き海が蓮華を満たす。空と海が混じり合い、繊細で果てのない宇宙を成していた。

 朝日がさざ波を照らし、世界の始まりを告げた。雲海の下で人々が目を覚まし、今日という日に生まれ出ずる。

 世界が、生命が瑜伽ゆがし、仏と心を通わせる。悠久の時を経てなお、私は絶えず自我を見つめ直し、宇宙を瞑想するのだ。


 僧達が修行に勤しむ声がする。人々が高野に赴き、己を見つめる祈りが聞こえる。

 教えも祈りも、歴史も自然も、そして時間の流れも。ここにはすべてが混在し、現存し、不必要なものなど何一つない。命が繋がり、次なる命へと還元されていく。

 森羅万象に宿る仏が私に語りかけた。私もまた、仏であるのだと──。

 

 

 あぁ、いいところだが、そろそろ廟に戻らねばならぬらしい。

 御供所ごくじょから何やら音が聞こえる。おそらく、私の食事を支度しているのだろう。いつの間にか僧達が私に食事を運んでくる時間になったようだ。

 私が廟を空けているとなれば大騒ぎになるだろう。早く戻って、何食わぬ顔で坐していなければならぬ。まぁ、腹も減っていたところであるし、丁度良い。

 朝の高野は兎角冷える。法衣の胸元をしっかと閉じても、袂の隙間からぴりりとした空気が染みてくる。

 

 いつかまた相見えることもあろうか。望めばいつでも、私はそこに在ろう。

 今はこの地で宇宙を見つめ、そして宇宙に成っていく。

 知らぬ間に蓮の華がさらに大きく開き、雲の海は風に吹かれて消えてしまった。

 私は再び廟に籠り、座して目を閉じる。ふぅ、と長く息を吐き、無限の曼荼羅世界に身を投じた。



 虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば

 我が願いも尽きん

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― 新着の感想 ―
[良い点] 風情が良い作品だと思います。 [一言] この連休中に、奥の院に行ってきます。
[良い点] しっとりしていますね。 こういうものを書いていると、血が沸き立ちませんか? 私は、沸き立ちます。 [一言] 最後の二行ですが、なんとか歌にすると…… 今からでも考えてみませんか?
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