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パットは森の香りを鼻に感じて目を覚ました。湿って少しひんやりとした香りは、爽やかで気持ち良い。でも、同時に変だわ、と思う。パットの家は街中にある。石炭の煤でいつも灰色の霧が立ち込めていて、ナースのアビーは窓を開けたがらないのに。いいえ、窓を開けたってこんな木と草の香りがするはずはない。
不思議に思いながら目を開けると、白いレースのドレープが視界いっぱいに広がって、いったいどこにいるのかしら、と一層混乱してしまう。
「おはよう、パトリシア。起こしてしまってごめんなさいね。でも、今でなければ見られないから」
「おばあ様……!」
柔らかくて穏やかな声に、昨夜の全てが蘇る。夜の市場、違う世界の星や月。見たことのないもの、食べたことのないもの。鉱石西瓜に赤い竜。月牙。良い香りのする、異国の衣装のとても綺麗な男の人。
そしてその思い出のどの場面にも、おばあ様がいてくれた。痩せているけど温かい手で、パットがはぐれないようにずっと握っていてくれた。
またおばあ様の傍に行きたくて、昨日のことが夢ではないと確かめたくて。パットは天蓋から垂れる布を掻き分けて、裸足でベッドから飛び降りた。
足の裏に感じるのは、冷たい床。頬に触れるのは夜明けの冴えた空気。パットが目を覚ましたのは、開け放った窓から外の風が入ってきたからだったみたい。おばあ様が窓辺に立っているから、きっとおばあ様が窓を開けたんだろう。
窓の外を見れば、暗くもなく明るくもなく、夜でも朝でもない時間。太陽が昇りきる前の空の色がこんな淡い菫色だなんて、パットは今初めて知った。
「今でなければ見られないものって……?」
尋ねながら、でも、同時に何のことだか分かった。
おばあ様が、あの、梟から買ったランタンを持っていたから。夜の市場では硝子の細工もののように見えた、蝶を閉じ込めた透明な花びらの蕾。でも、夜明けの明るさの中で見ると、それは確かに生きた花だった。硝子のように全てが透明なのではなくて、蕾の元の方は少し緑色がかっているし、瑞々しいしっとりとした厚みのある花びらの質感は、作り物では出せないと思う。
蜜に誘われて閉じ込められてしまったという蝶々は、一晩連れ回してしまったけれど、まだゆっくりと羽を揺らめかせていた。それを見てパットは少し安心する。市場で道を照らしてくれた、エメラルド色の光が蝶の羽根から来ているのだと、すっかり忘れてしまっていたから。
このランタンが、どうにかするのかしら。
首を傾げておばあ様を見上げると、おばあ様は黙って微笑んでランタンの蕾を窓辺に置いた。
窓から吹き寄せる風が、ランタンを揺らす――そういえば持っているのを忘れてしまうくらい軽かった――と、蕾が音もなくほころんだ。幾重にも重なって檻になっていた花びらが開いて、蓮の花のような形になる。空の菫色と、蝶の羽の緑色に染まる、透明な花。蝶の羽根も、もう遮るものなく輝いて、花の台座に飾られた宝石みたい。
自由になったのに気づいたのかしら、蝶は嬉しそうに羽根を震わせ――窓の外へと飛び立っていった。ふわふわと舞うように、緑の光の軌跡で不思議な絵を描くように。ちょうど太陽が顔を見せたのか、菫色の空に赤味が差して。透明な花があらゆる光の色に映える。
夜の市場は賑やかで、たくさんの人と音、ものと匂いに溢れていた。起こること全てを、目を離さないように見なくては、と思わされた。反対に、今パットが見ている光景はとても静か。でも、同じように目を離してはいけないと分かる。今のひと時しか見られないと、教えられなくても分かるから。この大切な一瞬を、瞬きする暇も惜しんで見守らなくてはいけないから。
そういえば月牙は、夜明けになると咲く花だと言っていたわ。だからおばあ様が起こしてくれたのね。
「……こちらで放してしまって良いのかしら」
夢から覚めたのに、こちらの世界に帰ってきたのに夢のように綺麗なものを見ることができた。蝶の光が見えなくなるまで息を呑んで見送って――それから何秒も経ってからやっと、パットは言葉を紡ぐことを思い出す。あの蝶は、この世界ではひとりぼっちになってしまったりしないのかしら。
すると、おばあ様がパットの髪を梳きながら教えてくれる。
「ランタンに潜んで世界を旅する種類の蝶と花だそうよ。そうやって種を広めるのですって。ある意味誰よりもよく夜の市場を利用しているのかもしれないわね」
「私も、他の世界に行けるのかしら」
あの蝶はこちらの世界で恋をして子供を残すのかしら。パットも夜の市場に行ったけれど、ほんの何時間かで帰ってきた。人魚の宮殿に連れていってもらったり、竜に乗って旅したりなんて、できないかしら。
「小さな蝶ならともかく、人間は難しいのではないかしら。たまにお客様として市場に行くくらいが丁度良いの」
「そう、なの……?」
納得したような、しないような。中途半端な気持ちでとりあえず頷くと、おばあ様は少し困ったような顔をした。
「綺麗なもの、素敵なものだけではないもの。他の世界にはとても恐ろしい怪物も人間も、沢山いるから」
「うん……」
「竜に食べられてしまうのは嫌でしょう?」
「イヤ!」
昨夜乗せてもらった竜の、鋭い爪や牙を思い出して、パットは震えた。あまりに怖くておばあ様に抱きつくと、しっかりと抱きしめ返してくれる。古びたようなリネンの香りがなぜだか懐かしくて安心する。パットを包み込むような温もりも。こんなに温かい人を、昨日はどうして人形のようだと思えたのだろう。
「食べられてしまうのはイヤだけど……夜の市場にはまた行きたいわ。また連れて行ってくれるのよね?」
おばあ様の温もりに顔を埋めながら、寝る前におねだりしたことをもう一度繰り返す。ゆうべはとても眠くて、ちゃんと約束してもらえたか自信がなくなってしまったから。
「ええ、きっと。危なくない歩き方を教えてあげましょう」
「お願いね、おばあ様」
パットとおばあ様は、くっついたままくすくすと笑い合った。
その間にも、太陽は昇り、辺りは明るくなっていく。お屋敷の人たちも目を覚まして働き出したのだろう、あちこちの扉が開け閉めされる音、人が行き交う気配が感じられる。空気が少し暖かくなったように思えるのは、厨房に火が入れられたからかもしれない。
パットがお屋敷にいる時間も、残り短くなっていた。
お父様は、約束通りお昼前に迎えに来てくれた。
お父様とおばあ様が大人のお話をしている間、パットはお屋敷のポーチから全体を眺めてみる。お父様に連れて来てもらった時は、とても暗くて憂鬱な雰囲気でこの玄関を潜ったものだった。おばあ様は知らない人だし、古いお屋敷は豪華すぎて怖かった。お父様が来てくれるまでの時間は、とてもとても長く感じられるだろうと、悲しいくらいに思っていたのに。
「パット、おばあ様にご挨拶を」
「はあい」
お父様に呼ばれて、パットはおばあ様に向かって軽くスカートを摘んで見せた。
「色々、ありがとうございました」
「良いのよ。――年寄りの相手をしてくれて良かった」
「私こそ」
「また遊びにいらっしゃい。楽しみにしているから」
「はい、必ず」
にこにこして見守っているお父様は、パットがおばあ様と仲良くなったと思って嬉しいのかしら。それは、確かにその通り。でも、ふたりの会話の本当の意味、ふたりが一緒に思い浮かべる光景は、お父様にも――誰にも秘密。
お父様が運転する車に乗って、街へと帰る。お屋敷が見えなくなる前に、パットはもう一度振り返って、見送るおばあ様に手を振った。
「素敵なお屋敷だったろう」
機嫌よくハンドルを握るお父様は、パットの表情に気付いていない。
「ええ、とっても素敵な夜だったの」
パットの目に映るのは、小さくなっていくお屋敷ではない。妖しい夜の市場と、綺麗な月牙。この世界と違う世界の住人たち。
あの市場をまた訪れるのが、もう待ち遠しくて仕方なかった。
夜の市場企画(http://nightmarkettale.tumblr.com/)の参加作品としては、ここまでで一部完結とさせていただきます。
今後、パットやおばあ様のその後、亡くなったお母様の話、その他鍵を手に入れて夜の市場を訪れた人々の話などを、連絡短編として不定期に投稿していきたいと思っています。
その際は、またお付き合いいただければ幸いです。