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パットが選んだ赤い竜は、火花のような金を帯びた炎の色の目をしていた。その目が三日月の形に細められて、唸り声が言葉になってパットの耳に届く。言葉でない音が言葉として聞こえることに、パットはもう慣れ始めていた。
「こんばんは、良い夜だ」
「こんばんは、乗せてもらって良いですか?」
金の三日月が細くなって、竜は頷くように頭を動かした。
「人間の子は大好きだよ。柔らかい腿の肉なんか最高だ」
「つまらない冗談だ、パットに手を出したら許さない」
「分かっているさ」
竜が笑う低い響きが、パットの身体にも伝わった。竜は何だか機嫌が良いようだけど、本当に冗談なのかそれとも本気なのか、パットには全然分からなかった。
「大丈夫、僕がいるから安心して」
「うん……」
月牙に抱えられて、竜の背中に据えられた二人がけの鞍に乗る。竜の鱗によく映える、凝った金の装飾が施されてる。鱗は一枚一枚がルビーのように煌めいて、竜が動く度に眩いほどの輝きを放つ。竜が首を持ち上げるとお尻の下で筋肉が動くのが分かる。広げる翼の薄い膜越しに見える夜の市場は少しぼやけて一層不思議。おばあ様のお屋敷の扉をくぐってから、見るもの全てが素敵なものばかりだったけど、竜の背から見る景色はまた格別だった。
周りを見渡せば、他の幻獣の背にもそれぞれお客が座っていく。一角獣に乗っているのは、とても綺麗な白いドレスの女の子。乙女じゃないと近づけないというのは本当だったのかしら。白鳥が曳く硝子の船で笑い合うのは、友達同士、それともきょうだい同士かしら。パットのように大人の人に付き添われている子もいる。
やがてほとんどの乗り物がいっぱいになると、陽気な音楽が流れ始める。おばあ様がお金を渡したのは、燕尾服を着た指揮者のような格好の人。でも音楽を奏でるのは楽団ではなくて、広場のあちこちに留まった色とりどりの鳥たちだった。オーケストラの楽器のように、大きな鳥は低い音、小さな鳥は高い音をさえずって。円を描いて飛んだり歩いたりする幻獣たちを可愛らしい響きがつつむ。
パットの乗った竜は高く低く、波を描くようにしてゆっくりと飛んだ。翼が髪を乱すのを抑えながら、身を乗り出して市場を見下ろそうとすると、月牙が腰のあたりをしっかり支えていてくれる。
「パットともこうして乗ったことがあるんだ。懐かしいなあ」
「おばあ様のことよね?」
「そう、それに君のお母様のキャロルとも。パットが連れて遊びに来てくれた」
パットは地上で待っているおばあ様を探して首を伸ばした。ランタンを持ってもらっているから、あのエメラルド色の輝きはとても目立つ。おばあ様も顔を上げて、パットたちを目で追っているようだった。ちょうど竜が高く飛んだところで表情までは見えないけれど、きっと笑っているような気がする。
「久しぶりって言ってたわ」
扉を開いてこちらの世界に入った時に、月牙が最初に言っていたことをパットは思い出した。とても嬉しそうだったのは、本当に長い長い間おばあ様と会ってなかったからだったのね。
「そう。大人になったから、結婚したから、子供ができたから。そうしてどんどん遊びに来る間が空いてしまった。僕のことは忘れたのかもと思ってた」
「そんなことない、と思うけど……」
パットはまだ子供だから、大人になるってどういうことかは分からない。でも、こんな素敵な市場のことを、こんな綺麗な月牙のことを忘れてしまうなんてあるはずがない。おばあ様だって、今夜はとても楽しそうにしていたのに。
「だったら良いけど」
竜はぐるぐると螺旋を描いて飛ぶ。高く、低く。それにつれて、パットの目に映る市場の景色も回る。一周するたびにおばあ様のランタンも目に入る。たまたま低く飛んだ時に手を振ると、おばあ様は笑って手を振り返してくれた。
音楽が終わりに近づくと、竜はふわりと地面に降り立った。それでも、竜の背から降りても、まだ雲の上を歩くようにふわふわとよろめいてしまう。そんなパットを支えながら月牙は身体を屈めて囁いた。
「小さなパット、また来てくれるよね? パットとまた会うことができて、とても嬉しいんだ。おばあ様におねだりして、夜の市場に来たいと言ってくれ」
「ええ、必ず。おばあ様とまた来るわ……!」
月牙のまとう良い香りにくすぐられて。手を広げて迎えるおばあ様に笑顔を向けながら。パットはしっかりと頷いた。
月牙のお店に戻って、あの扉を開いてみると、やっぱりおばあ様のお屋敷の廊下に繋がっていた。パットとおばあ様は暗い廊下。月牙は不思議な品の詰まったお店。扉を境に、ふたつの世界に分かれて交わす挨拶は何だかとてもおかしな感じ。
「じゃあ、またね」
「ええ。今日は色々とありがとう。パトリシアが喜んでくれて良かったわ」
「小さいパットも。よくお休み」
「お休みなさい、ありがとうございました」
そうして扉を閉めてしまうと、市場のざわめきも妖しい香りも感じられなくなった。廊下はひんやりと冷たくて、夜の静けさが耳に痛いと感じるくらい。持ち帰ってきたランタンの光も、夜の市場とは違ってどこか優しく和らいでいるようだった。
「さ、ベッドを作ってあるわ。疲れたでしょうからよく眠れるでしょう」
「はい、おばあ様」
でも、あまりにたくさんのことを見聞きしたパットには、包み込まれるような静けさはむしろ優しくて安心できる。もう怖くなんかないのに、手を引いてくれるおばあ様のぬくもりも。ぎゅっと握り返すことで、気持ちが伝えられれば良いと思う。
時計を見ると、まだ真夜中前だった。夜の市場で何時間も過ごしたはずなのに、あの扉は時間も越えてしまうのかしら。着替えを手伝ってくれた人たちも、何も聞いてこない。おばあ様とふたり、ずっといなかったのにも気付いていないみたい。
おばあ様に目で聞いてみると、にこりと笑うだけだった。それでパットもなんとなく分かった。これは、ふたりだけの秘密。他の人に言うことじゃないのね。
お屋敷の人たちが用意してくれたベッドは、白い薄い布が垂れる天蓋つきのものだった。寝っ転がれば彫刻の施された柱や天井の飾りが見えて、まるでお姫様みたい。身体を受け止める寝具の柔らかさに、眠る前の沈み込むような安らぎに。確かに帰ってきたのだと思うけれど、このベッドだとあの夜の世界とまだ繋がっているような気もする。目を開いたまま夢を見ているような――とても素敵なひと時だった。
まぶたはもうくっつきそうで、すぐにも本当の夢の世界に行けそうだった。でも、その前に、と。パットは必死に口を動かした。枕元で見守ってくれているおばあ様へ。
「おばあ様。また連れて行ってね。夜の市場……」
「ええ。気に入ってくれて嬉しいわ」
おばあ様の、かさかさしているけど温かい手がそっとパットの目の上に乗せられた。温かさと暗さに、眠気に逆らうのがいよいよ難しくなっていく。
「キャロルも小さい頃は行きたがった。あなたはいつまで付き合ってくれるのかしら……」
「お母様……?」
パットはお母様のことをあまり覚えていない。お母様は、パットが大きくなったら教えてくれるつもりだったのかしら。おばあ様と三人で、月牙に会いに行くなんてことも、もしかしたらあったのかしら。
聞きたいことも知りたいこともたくさんあった。おばあ様ともっとお話していたかった。
けれど、パットはそこから先を覚えていない。多分、月も星もない本当の夜、穏やかな闇に包まれて、いつしか眠ってしまったんだろう。