13
市場を歩くと、色々な人の声が聞こえてくる。色々な生き物――翼の生えた馬とか、大きな蜥蜴とかの鳴き声や、見たことのない楽器が紡ぐ音楽も。でも、月牙が歌うように紡ぐ声は、どんな声や音よりもはっきりとダーリャの耳に届いてくる。
「鍵が回る音がすると、いつでもどきりとしてしまうんだ。彼女も夜の市場への鍵を持っているからね、会いに来てくれる時はいつも決まった扉からやって来るんだ」
月牙が言う彼女のことが、ほんの少しだけ明らかになった。夜の市場に住む人ではなくて、また別の世界に住む人らしい。そして少なくとも人魚ではない。人魚なら、建物の中の扉は使わないから。ダーリャが今夜そうしたように、水面に浮かぶ月の扉を使うはず。
「彼女が僕に会う気になってくれた。何か夜の市場で探すものがあって、僕を頼ってくれるのかもしれない。それともただ僕の顔を見たくなっただけかも――それなら、どれほど幸福なことか」
微笑みながら弾んだ声で語る月牙の表情は、ダーリャにも何だか見覚えがあった。嵐で沈んだ人間の船を探検しに行ったり、好きな果物がもう少しで枝から落ちそうなのを見つめたりする時の人魚たちの表情と似ているから。つまりは、もうすぐ素敵なものが手に入るかもしれない時の顔。
でも、その人が遊びに来ることのどこがそんなに嬉しいのかはよく分からない。沈んだ船からは綺麗な宝石が見つかるかもしれないし、新鮮な果物は海では珍しいもの。だから楽しみに待つのに、ただ誰かに会うということだけで、そのことを思い浮かべるだけで、どうして月牙はこんなに嬉しそうなんだろう。
「大抵はがっかりすることになるんだけどね。僕の店に来る客は多いから」
がっかりする、なんて言いながら、月牙はやっぱり微笑んでいる。これが愛ということなのかしら。でも、こんなのあまり素敵じゃないわ。ダーリャが危ない目にあったからって、愛を探すのを諦めさせようとしてるのかしら。
通りを行く人にぶつかりそうになるのを避けながら、ダーリャは月牙の本音を見通そうと一生懸命に目を凝らした。月牙――牙のように尖った月――の名前の通り、月のように綺麗な顔は本当にただ綺麗なだけで、何を考えているかなんて全然分からなかったけど。
「会えない時間が長すぎると、忘れられたのかと思ってしまう。前に会った時のあれが良くなかったんじゃないかとか、嫌われてしまったんじゃないかとか。そうすると僕も彼女を嫌いになってしまおうかとか、店をたたんでどこかへ行ってしまおうかとか思い出すんだ。それで僕に会えなくなって、困ってしまえば良い、とかね。逆に、次に会ったら帰れないように閉じ込めてしまおうかなんて、思ったりもする」
「ねえ、本当にそれが愛なの?」
「そうさ、少なくとも僕にとっては」
思わず口に出して聞いてしまうと、月牙は久しぶりにダーリャを見下ろして笑ってくれた。多分、今まではその彼女のことを思い浮かべていたんじゃないかしら。だってダーリャから目を離して前を向いた月牙は、またふわりと夢見るような微笑みを浮かべたから。
「でも不思議なもので、いざ彼女が来てくれるとそんな気持ちはすべて吹き飛んでしまうんだ。彼女は僕を忘れてなかった! 彼女の世界の色んなことを、少なくとも一晩の間は放っておいて、僕に会いにきてくれた! それだけで舞い上がって――飽き飽きしていたはずの市場の景色も生きかえって、そして僕はどうやって彼女を喜ばせるかしか考えられなくなってしまうんだ」
「他の世界に来てくれるのが、愛、なの……?」
やっと少し分かった気がして、ダーリャは小さな声で口をはさんだ。月牙の声はすっかり大きくなってしまっていて、すれ違う人が振り向くほどになっていたから、ダーリャは少し恥ずかしかった。でも、止めて欲しいからだけじゃなくて、海から消えたお姉様のことも思い出す。あのお姉様は、夜の市場を通ってどこか別の世界に行ってしまったのだと思う。
月牙みたいに、こんなに喜んで迎えてくれる人がいるのなら、海を捨てても構わないと思うのかしら。
「いいや。彼女は僕を愛していない。せいぜいが良い友だちというくらいさ」
でも、月牙はあっさりと首を振ってダーリャはますます訳が分からなくなってしまう。首を傾げて立ち止まってしまうと、月牙は背中を押して速く歩いて、と急かしてくる。そうして人の波を越えながら、綺麗な声がまた歌う。
「愛と言うのは、僕が今言ったことの全部。会えて嬉しい気持ちも、会えなくて寂しく辛い気持ちも。彼女のためなら何でもしたいと思うことも、来てくれないなら嫌ってやると思うことも。すべて、愛の一面なんだ」
「よく分からないわ……」
「分からないなら君に愛はまだ早い。でも分かった時には、愛はもう君のものだ。良いことばかりとは限らないけど。でも、確実に君も君の世界も変わる」
月牙が言うことは謎かけのようで、やっぱりよく分からない。でも、ひとつだけ分かったことがある。
「私、バカなことをしたのね……」
愛は夜の市場でも売っていないということみたい。それなら、ダーリャは一晩中手に入らないものを探して歩き回ったことになる。その上、人魚だって分かるように自分で言ってしまって、攫われそうになって。月牙の言うように愛が形のない気持ちだとしたら、みんなみんな無駄だった。
「そうかもね。でも、愛はバカげてて無駄なことだというのも、覚えておいても良いかもしれない。――さ、着いたよ」
落ち込んでうつむいてしまったダーリャの髪を、月牙は優しく梳いてくれた。言われて慌てて顔を上げると、そこには確かに見覚えのある鉱石西瓜の屋台があった。
「ダーリャ! どこに行ってたの!」
そして、こちらへ駆け寄ってくるお姉様たち。月と星の光にきらめく、見慣れた色の髪や瞳。聞きなれた声。
お姉様たちに抱きしめられて、ダーリャはやっと帰れたのね、と思うことができた。