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息をするのも忘れて、という表現を、パットは本で読んだことがある。恋をした時、嬉しい時、怖い時。色々な場面で使われるけど、本当にあることだとは思ってなかった。そんなことがあるはずはない、大げさな言い方、ただの決まり文句なのね、って。
でも、息をすることができない――そんな暇も惜しいと思うことがあるのだと、パットは今初めて知った。
ここは夜の市場、というらしい。
確かに空を見上げれば月と星が輝いている。でも、たったそれだけのことでさえ当たり前のことではなかった。
黒い空にアラザンのような星が散っているのは、空のほんの一部だけ。あちらを見れば流れ星が雨のように降り注いで。別の方には、追いかけっこをするような赤と青の三日月が。それに、夜空にたなびく光のカーテンのようなのは、オーロラなの? でも、とても寒いところでなければ見えないのではなかったの?
空を見上げていたパットは、人通りの邪魔になっていたのかもしれない。そっと腕を引かれて――気がつくと、あの綺麗な男の人の腕の中、庇われるような格好だった。
「ここは、いつかの時代のどこかの国、どこでもあってどこでもない」
歌うような口調で、男の人はさっきと同じことを口ずさむ。パットの知らない言葉だから、歌っているのかそういう発音なのか分からない。ただ、とても綺麗な響きの声だった。
「けれど必ず夜なんだ。月の光の魔法の下で、会うはずのない人、重なるはずのない世界が集っているのかもしれないね」
夢のような声で、夢のようなことを言われて。つい、納得しそうになってしまう。でも、パットは騙されなかった。
違う時代の人、違う国の人というだけならまだ信じられる。だってお屋敷の扉が通じていたあのお店を出た大通りには、男の人以上に変わった服の人たちが行き来していた。
道を塞ぐように大きく広がったドレスのお姫様。見上げるほどに背が高いと見えるのは、髪を山のように結い上げて花や宝石や、模型の船なんかで飾ってるから。長い布を巻きつけたようなゆったりとした服の人も、きっと昔の国からやって来たんだろう。特にお姫様なんかは、パットは歴史の本で熱心に眺めたことがある。鮮やかな鳥の羽や毛皮をまとった人も、そういう国がどこかにはあるんだろうとは想像できる。
でも――
「いつの時代だって、あんなに流れ星が見えるなんて……いえ、第一、あんな色の月は見たことがないわ!」
ほんの少しの間だけだけど、パットはおばあ様とこの人と、連れ立ってこの夜の市場を歩いていた。目に入るもの全てがあまりにも不思議で、どこかから漂う――花や香水、お菓子やお料理の……? ――香りも、頭の芯をぼうっとさせてしまう。だから、夢の中でするように、よく知らない会ったばかりの人にもはっきりとものを言うことができた。おばあ様とこの人が砕けた調子で話しているのを近くて見たのも、そんなことができた理由かも。
「そうかな? 君が見たことないだけかも」
「だって、あるはずないもの」
それに、この人はとても優しく笑ってくれるし。だから、つい生意気な言い方になってしまう。唇を尖らせて、更に言い募ろうとして――でも、パットの舌は固まってしまった。
男の人の後ろ、たまたま通りかかってパットと目が合った人の姿に目が釘づけになってしまったから。
人、と言っても良いのかしら。だってその人の格好ときたら。雪のように真っ白で、月と星の光に煌く――毛並み。金を溶かして流し込んだような金の瞳、アーモンド型の宝石のようなそれには、縦長の瞳孔が走っていて。ぴんと立った三角の耳が、ぴくぴくと動いて四方の音を拾っているみたい。
すらりとした、とても綺麗な――猫、だった。パットの家の近くで昼寝しているのと同じような。二本の足で歩いていて、大人の人くらいの背丈がありそうなことを除けば、だけど。それに近所の野良猫たちは、革の服なんて着ていないけど。
何かの仮装なのかも、と思おうとして、でもやっぱりできなかった。パットと目が合ったその猫の人は、にいと口を裂くようにして、牙を見せて笑ったから。奥の方までずらりとならんだ鋭い牙は、差し歯なんかじゃ、絶対にない。ちらりと覗いたピンクの舌も、本物の猫のようにざらざらしているようだった。
「あるはずがない、かな?」
目を見開いて固まってしまったパットが何を見たのか、分かるはずがない。でも、大体想像がついたのだろう。楽しそうに笑う男の人は、とても意地悪だと思った。
「……いいえ」
こうなると認めない訳にはいかない。この市場にいるのは、パットの世界から来たお客様だけじゃない。違う世界――猫が服を着て歩くような世界にも、おばあ様が持っていたような鍵があって、ここへ通じる扉があるんだろう。そこでは流れ星が止むことなく降り注いでいるのかもしれないし、色の違う二つの月があるのかもしれない。
改めて見渡して見ると、違う世界からのお客様は猫の人だけではないみたい。
月の光の下、やけに顔色が悪いみたいと思った人をよく見れば、青く白く輝く真珠のような鱗が肌を覆っていた。蜥蜴や蛇もしかしたら竜の人なのかもしれない。
他にも、天使みたいな翼を持った人もいるし、飾りだと思っていた色とりどりの羽や毛皮、花や蔦も、作り物じゃなくてそういう人たちの世界があるのかしら。
「パトリシア」
どれが本物で偽物か、目を凝らしていたパットは、急にきちんとした名前で呼ばれてぴくりと跳ねた。
呼んだのは、もちろんおばあ様。でも、お屋敷にいた時のように厳しいお顔じゃなくて、楽しそうに微笑んでいる。
おばあ様も、私と同じ。ここがとても好きなのね。
おばあ様の落ち着いた色のドレスでさえも、ここならまた違った雰囲気になる。周りにたくさんの色が溢れてるから、きりっとして格好良い。こういうのを粋っていうのね。
「良かったら、お買い物をしてみない?」
「お買い物!」
パットは目を輝かせた。見ているだけでもこんなにどきどきするのに、不思議な綺麗な品物たちを、手にとって眺めることができたなら、どれほど楽しいだろう。
一も二もなく頷きかけて――でも、パットは萎れてしまう。大事なことに気付いたから。
「でも、お金が……」
ディナーの後にそのまま出かけたから、パットはお金なんて持ってなかった。そもそも、いつもだってお買い物をする時には、その都度お父様からお小遣いをもらうものだったから、自分のお財布だってまだないのに。
「孫を甘やかすのは老人の楽しみ。私に出させてちょうだい。――良かったら、だけど」
「え……」
無理だわ。おばあ様の言葉に対して、最初はそう思ってしまった。だってよく知らない方にお金を出してもらうなんて。お行儀が悪いことだと思ったから。
でも、おばあ様がどこか不安そうな顔をしているのに気付いて、パットは勇気を出すことにした。この方はパットのおばあ様で、パットはこの方の孫なんだもの。甘えた方が喜んでくれるなら。おねだりした方が可愛いなら。こういう時は子供らしくしなきゃいけない。
「……ええ、ありがとうございます、おばあ様! ここでお買い物ができるなんて嬉しいわ!」
もちろんお礼はちゃんと言った上で、だけど。