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「そう……そうよ!」
愛、と聞いてダーリャは小さく飛び跳ねた。尾ひれをひるがえしたつもりだったのに、動いたのは疲れ切った人間の脚で、靴擦れの痛みに顔をしかめてしまったけれど。
「見つかった?」
「いいえ、まだ」
でも、足の痛みなんて大したことない。あれだけ笑われていじわるされても食い下がったのが良かったのかしら。愛を売ってる人が、わざわざ探しにきてくれたのかしら。
期待を込めて男の人を見上げると、その人の笑みが深まった。同時にダーリャの胸の鼓動も早くなる。
「ああ、良かった! 君の欲しいものを売ってあげられるかもしれなくてね。帰る前に会えて良かった! 二本脚は疲れるだろう、近くでお茶でもごちそうするよ」
「本当に? ありがとう、ご親切に!」
ほら、やっぱり。欲しいものを最後まで探し続けて良かった。頑張れば、あちらからやって来てくれるものなのね。鉱石西瓜を始めとして、重いお土産をずっと持ち歩いていて腕もすっかりくたびれていたけど、その甲斐があったというもの。
「お手をどうぞ、お姫様」
「……ありがとう」
男の人がお姫様って呼んでくれたのも、手を差し伸べてくれたのも。ランタンとか荷物を持ってくれたのも、何だかくすぐったくて嬉しくて。ダーリャはうきうきとした気分で、男の人の手を取った。
それでも、男の人が大通りを外れようとした時には、さすがにダーリャも声を上げた。
「裏通りには行っちゃダメってお姉様に言われてるんだけど」
「ああ、質の悪い店もあるからね」
男の人はダーリャの手をしっかり握ったまま肩を竦めた。
「姉さんの言うことはまったく正しいよ。……でも、これから行くのは店じゃないんだ。夜の市場には人が住むところもある――家に招きたいというだけだから、心配しないで」
「そう、なの……?」
「人魚だって船が行き交うところで寝たりしないだろう? 洞窟とか、そんなところがあるんじゃないか? 夜の市場の真ん中で暮らすなんて、うるさくてできないと思わないか?」
「そう、かしら」
確かに、裏通りのお店だったら嫌だけど、お家に招待してもらえるということなら大丈夫かも。それに、お茶を出してくれるって言っていたし。陸の上にいると身体が重くて、大して歩いてなくても疲れてしまう。今は沢山の荷物を抱えて歩き回った後だから、休ませてもらえるということがとても素敵に思える……気もする。
「そうだよ。じゃあ、来てくれるね?」
「……ええ」
そんなことを話している間にも、ふたりはたくさんの角を曲がって細い道に入っていて、どこをどう通って来たのかすっかり分からなくなってしまっていた。空を見上げても星や月が目まぐるしく入れ替わって、時間も方向も分からない。約束の白い満月は、まだ――かなり低く、建物の屋根にかかりそうな位置になっていたけど――見えているけれど。
後ろを振り返るダーリャの手を引っ張りながら、男の人は優しく語りかけてくれる。
「後でちゃんと送ってあげるから。姉さんたちはどこに待ってるの?」
「宝石細工の地底の小人のところよ。あの月が沈むまでに戻らなくちゃいけないの」
「もうすぐだから、心配しなくても大丈夫だよ」
「ええ、ありがとう」
愛を売るためにわざわざダーリャを探しにきてくれて、何から何まで面倒を見てくれるなんて。この人はとても優しい人なのかしら。それとも愛を欲しがる人は珍しくて、お客を逃したくないということなのかしら。でも、つまらないものならあのお姉様が海を捨ててしまうはずもないし。とても高価なものだから買い手がいないのかしら。
それなら、手持ちの金や真珠で足りるかしら。真珠採りの手伝いをするたびに、ダーリャのような子供の人魚も小さいのや歪んだ真珠を幾つかもらえる。数が集まったら糸で繋いで首飾りにしたりするのだけど、今夜はそれをこっそり隠し持ってきていたのだ。ドワーフの口調だと人魚の真珠は珍しくて貴重だということだけど、でも、ドワーフに卸したのは大粒の選りすぐったものばかりだった。
「ねえ、私が持ってる真珠は小さいのばかりなの。ちゃんと愛を売ってもらえるかしら?」
男の人の期待を裏切ってしまったら申し訳ないわ、と思って、ダーリャは恐る恐る切り出してみた。夜の市場で買い物をしている間に、人魚の真珠で愛を売ってもらおうとしていたこともある。それを聞きつけてこの人が探してくれたのだとしたら、想像しているのは大粒の立派な真珠なのかも。
「ああ、そんな心配はいらないよ。人魚を欲しがる客は多いからね、ちゃんと愛してくれるはずだ」
男の人の微笑みはずっと変わらず優しそう。でも、たまたま青い月が輝いたからかしら、どこか冷たく怖い気もして、ダーリャは思わず立ち止まる。
「……まだ時間がかかるの? 私もう帰りたい!」
「仕方ないな……」
男の人がため息交じりに言ったのは、帰してくれるということだと思いたかった。走って逃げるにもダーリャは道を知らないし、足も痛くて歩くだけでも辛いくらいだったから。早くお姉様のところに帰って、また尾ひれを使って海を泳ぎたかった。海ならもっと自由に身軽に動けるし、海底の谷間も海藻の森も、知らないところなんてないはずなのに。陸の上のこの路地裏では、ふと我に帰ると何もかもが分からなくて怖かった。
「足が痛いの……」
「うん、もう歩かなくて良いよ」
泣きそうになって訴えると、男の人はやっぱり優しく言って穏やかに笑った。でも、この笑顔は信じてはいけないものだったんだ。美味しそうな餌をぶら下げられたからって、すぐに食いつく魚はすぐに釣られてしまうのに。居心地の良い住み家を見つけたと思ったら、その家ごと陸に上げられてしまうタコなんかもよくいた。みんなと一緒にバカねって笑ってたはずなのに、ダーリャも見事に罠にかかってしまった。
疲れと恐怖で動けないダーリャを男の人がひょいと抱え上げると、路地裏のあちこちから人が集まる気配がした。