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ウミユリの谷は、小魚一匹泳ぐ姿もなくて静かだった。まるで海全体が眠っているよう。ううん、本当に眠っているんだ。人魚の歌声には魔力があるから。それも、特別歌の上手なお姉様たちが声を揃えて子守唄を歌っているから、貝も魚も、波でさえも時間が止まったように眠りに落ちてしまうのだ。
珊瑚と真珠と綺麗な貝殻の冠をかぶった女王様が、真珠貝をひとつひとつ開けていく。手に持っているのは、月の魔法がかけられているという光る鍵。持ち手は砕ける瞬間の波頭をレースみたいにかたどって、歯のところには色とりどりの宝石が散りばめられている。夜の市場で作られた、人魚の宝物なのよ、と。お姉様たちが教えてくれた。
「まあ、よく育っていること」
大きく育った真珠をつまみ上げて、女王様はにこりと笑った。真ん丸の大粒の真珠、虹を閉じ込めたみたいな輝きを放つそれは、ダーリャが掲げたシャコ貝に入れられた。
黒真珠はシリーン。桃色のはニルファ。金色がかったのはコルシェ。いびつな形のや砂粒みたいに小さい真珠は、一番下の妹たち。女王様が取り出した真珠は、次々とそれぞれの子が抱えたシャコ貝に入れられていく。
ひとつだって眩しいほど、灯りになるほど輝く真珠が、何十個、何百個と集まっていく。暗い海の底も、暖かい南の海のように明るくなって、人魚たちの色とりどりの髪や尾ひれやそれを飾る宝石をきらめかせる。その間にも、お姉様たちの歌声は響いていて。これは、人魚でなければ見ることも聞くこともできないとても綺麗な場面だった。
「これで、どれもいっぱいになったかしら」
谷の全ての貝を開けてしまうと、女王様はダーリャたちが掲げたシャコ貝の器を見渡して首を傾げた。女王様の言う通り、シャコ貝はどれもあふれそうなくらいに口までいっぱいに真珠を湛えて輝いていた。
「夜の市場に行く頃合いですわね」
「ええ、そうね。次の満月の夜にでも」
「今度は誰が参りましょうか」
「そうね……」
女王様の目――澄んだ海の深いところみたいな濃い青い目――が若い人魚たちを見渡すのを、ダーリャはどきどきしながら見返した。
今回は、私を選んでくださるかしら。
夜の市場へ真珠を卸しに行くのは、女王様が信頼している歳上のお姉様が交代でやる。でも、お店と大事な話をするだけではなくて、真珠を運んだり、代わりに市場で買ったお菓子や果物や違う世界のアクセサリーなんかを持ち帰る荷物持ちも何人か選ばれることになっている。女王様に呼んでもらうのは名誉なことだし、これも大事な役目だから、ダーリャと同じくらいの年頃の子たちは早く選ばれないかと競争してる。それに、空いた時間に夜の市場でお買い物ができるのもとっても素敵。
シリーンもニルファも。目をきらきらさせて女王様に訴えかけていただろう。誰も口に出してねだったりなんてお行儀が悪くてできないけれど、他の子よりも先に呼ばれたくてたまらないのだ。
と、女王様の目がダーリャと合って――にこり、と笑ったので心臓がどきりと跳ねた。女王様の唇が動いて、優しい声がかけられるのが信じられないくらい嬉しい。
「ダーリャ。今回はあなたもついて行ってちょうだい」
「はいっ」
ダーリャが喜びのあまりに跳ねると、眠った谷間にさざ波が起きた。もちろん、抱えた真珠をこぼしてしまわないようにそっと、だけど。
「今度はダーリャかぁ」
「いいなあ」
「お土産をお願いね」
「私、鉱石西瓜が良い!」
皆が口々にうらやましそうに言うのもくすぐったくて、シャコ貝を抱えたまま、ダーリャはさらにくるくると回った。回るたびに皆の髪や目や尾ひれの色――青に赤、黄色に緑、誰ひとり同じではない色々な色――が混ざり合って、とても綺麗。だから、余計に嬉しくなってしまって止まらない。
「ダーリャ! 真珠をみんなばらまいてしまうつもりなの!?」
とうとうお姉様に腕をつかまれて止められてしまったくらい。
「ごめんなさい! でも、とっても嬉しいんですもの!」
それでもダーリャはずっとくすくすと笑っていたから、お姉様ももう、と呆れたように苦笑い。
「満月の夜まではまだ日があるわ。だから落ち着いてお行儀良く待ちなさいな。女王様がやっぱり違う子にする、なんておっしゃらないように」
「それはイヤ! 女王様、私、良い子にしますから!」
慌てて水をかいて女王様の近くへ泳ぎ寄ると、女王様も笑っていた。夜の市場に使いを出すのはしょっちゅうあることじゃないから、女王様もお土産が楽しみなのかしら。
「ええ、信じているわ、ダーリャ。――それでは皆、帰りましょうか」
女王様を先頭に、人魚たちは住み家へと帰る。色々な色の髪や尾ひれのきらめきは、海のどんな魚や貝よりもまぶしくて綺麗なもの。人魚は海では一番綺麗なものだとダーリャは教えられてきた。
でも、夜の市場だとどうかしら。不思議なものばかりがあるというあそこなら、もっと素敵なものもあるんじゃないかしら。例えば――愛、とか。お手伝いのお駄賃で買えるものなのかしら。
ダーリャは今から満月の夜が待ち遠しかった。