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パット。この人、パットって言った? それも久しぶり、って。初めて会う人なのに、どうして名前を知っているのかしら。
水槽からすくい上げられた金魚みたいに、パットはただ突っ立って口をぱくぱくとさせてしまう。その間に、おばあ様は綺麗な異国の男の人と話している。当たり前のことのように、親しげに、楽しそうに。
「本当に久しぶりね。貴方は変わらなくて羨ましいわ」
「君も変わらない。……魂は」
「そうなの? すっかり歳を取ってしまったと思っていたのだけれど」
おばあ様が笑っている。朗らかな声で、砕けた口調で知らない人と喋っている。さっきまでお人形のようだと思っていた人なのに。信じられなくて驚いて、パットは目をみはっておばあ様と男の人を見比べるだけ。
すると、男の人の夜の瞳がパットを捉えた。吸い込まれそうな、黒に似たとても深い色が笑っている。
「キャロルも変わらないじゃないか」
違う。私はパットよ。首を振ろうとしても、やっぱりまだ動けなくて。でも、おばあ様が代わりに応えてくれた。
「この子はパトリシアよ。キャロルの娘の」
「ああ……労働者と結婚したと言っていたっけ」
「夫の言い分ね。私は資産も才能もある若者だと言ったのだけど」
「君に相応しくないつまらない男だったね」
またパットを置いてけぼりのやり取りが続く。綺麗な人の綺麗な目も、おばあ様の方へ笑いかけている。どうにかついていこうと、パットは必死に頭を働かせた。
キャロルはパットのお母様。おばあ様の旦那様はパットのおじい様。会ったこともないけれど。お母様と結婚したのがお父様。でも若者だなんて呼び方は似合わない。友だちは素敵な小父様って言ったりするのに。
身近なような遠いような人たちの話を聞いているうちに、訳が分からなくなって頭がねじれてしまうようで。パットは目が回りそうになった。
「娘も夫も死んでしまったのよ。とても長い時間が経ったの」
「それだけの時間、僕を放っておいて、ね。――ねえ、小さいパトリシア」
ふわり、と。不思議な良い香りが漂った。と思った時には、男の人がパットの目の前に膝をついていた。香水をつける男の人なんて見たことがない。でも、おかしいなんて思わなくて、とても似合っているような気もする。
「君のおばあさんが君と同じ名前だって、知らなかった?」
「……知らない」
夜の瞳にすぐ近くで見つめられて、短く答えるのがやっとだった。男の人の顔を見ることもできなくて、来ている服の、細かな刺繍に焦点を合わせる。パットの知らない、きっとどこか遠くの国の花と蝶。糸自体が光っているような、でも控えめな光沢は絹のようだけど少し違う。夜露に濡れた花が月の光で輝くみたいな、柔らかい色の金や銀や赤や青。
「おばあ様に、だったの」
おばあ様のお屋敷の、暗くて静かな廊下から、くらくらするような色と香りが渦巻くこの場所へ。知らない人と、少しだけ知っているおばあ様のどこか遠いようなやり取り。短い間にたくさんのことがありすぎて、パットの頭の中はぐちゃぐちゃだった。でも、その中でひとつだけ、針に糸を通すみたいにすっと分かったことがある。
――やあパット、久しぶり。
さっきの言葉はパットではなく、もう一人のパトリシア――おばあ様に言ったものだったんだ。この変わった格好のとても綺麗な男の人は、お父様やお母様、おじい様のことまで知ってるくらい、おばあ様とは古い古いお友だちなんだ。
パットのお兄様といっても良いくらいの歳に見えるのに、どうしておばあ様とお友だちなのかは分からないけれど。あのとても嬉しそうな声が、パットのためのものではなかったのは、少し残念な気もするけれど。
とても短いことしか言えなかったのに、その人はちゃんと言いたいことを分かってくれたようだった。
「そう。パットが久しぶりに来てくれてとても嬉しいんだ。もしも君を紹介するためだというなら感謝しなければならないかな、リトル・レディ」
レディなんて呼ばれて、うっとりするような微笑みを見せられて。パットの心臓はどきどきとして、顔も熱くなってしまう。きっとリンゴのような頬になっているだろう。この人は雪のように真っ白な顔なのに、恥ずかしい。
「小さな女の子の相手の仕方を忘れてしまったの。ここならもしかしたら楽しいかもしれないと思って」
「良い考えだね」
おばあ様はとてもさらりと、ここ、と言った。男の人も、今度はおばあ様に向けて微笑んだ。それでパットはやっと我に返って、ちゃんとした質問を口にすることができた。
「ここは、どこなの?お屋敷のどこかなの?」
言いながら、絶対に違うとは分かっていたけれど。パットはおばあ様と階段を降りたんだから。お屋敷の地下にこんな広くて明るい部屋があるはずない。廊下の様子からも、扉の向こうは小さな部屋だと思ったのに。
「いつかの時代のどこかの国、どこでもあってどこでもない。でも呼び名は色々ある」
「…………?」
「百聞不如一見。見た方が早い」
ひんやりとした白い手に引かれながら、パットは初めて気がついた。この人、話す言葉が違うわ。どこか遠くの、パットが知らない国の言葉。でも、違う音なのになぜか意味が分かる――心の中で話をしているみたい。口はちゃんと動いて言葉を紡いでいるのに、変なの。
男の人はパットを壁に丸く空いた穴のところへ導いた。
おばあ様のお屋敷でも、パットの家でもこんな造りはないけれど、きっとこれは窓なんだろう。硝子は嵌められていないけれど、代わりに透けるような薄い布が掛けられている。
もしかしたら、この男の人の国ではこういう家が普通なのかも。だって、近づくにつれて空気の流れがパットの肌や鼻をくすぐる。それに、たくさんの人がざわめく気配が伝わってくる。話す声や笑い声、争う声。動物や鳥の鳴き声のようなのも。
この外に、きっと不思議なことが待っている。男の人がカーテンのような薄布に手を掛けた瞬間、パットの首筋にぞわりとしたものが走った。何があるのか、起きているのか。見るのが怖い。でも見たい。怖さと期待が肌の上をぴりぴりと駆ける。
「Markt der Nacht。marché de minuit。僕は夜市と呼んでパットはnightmarketと言う。とにかくどの世界でも、どの言葉でも――君が聞くことも言うこともできない言葉でも、ここの呼び名は皆同じ」
耳から聞こえて来るのにおかしなことではあるけれど、男の人の声はとても甘かった。舌がしびれてしまうほど、いっそ苦いと思うほど。それとも目の前に広がる光景に、パットは酔ってしまったのかもしれない。お父様のお酒を一口だけ飲ませてもらった時も、こんなふうに血が全身を熱く巡る感じがしたから。
「夜の市場、と言うんだよ」
その言葉に押し出されるように、パットは足を踏み出していた。