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螺鈿の鏡――鏡はもう嵌ってないけどそう呼んでしまう――を大事に抱えて、お店を後にする前に。パットはふと影花に聞いてみた。
「私、女王様のところの鏡にはお化けみたいに映ってたの。……あんな風に、怖い姿に映ってしまったお客様には何ていうの?」
「別に、どうとでもなるさ」
パットには関係ないかもしれないけれど、お店はうまくいっているのかしら、と気になってしまったのだ。でも、影花は何でもないように肩をすくめると笑って答える。
「怪物の姿ならお客様についてる守り神ですよ、とか。不気味な姿でも嫌いなやつを呪い殺してくれますよ、とかね。人は――人じゃなくても――信じたいことを信じるもんだ」
そんなおとぎ話みたいなことを信じてしまうのかしら。不思議だったけど――でも、ここは夜の市場だし、影花は綺麗で朗らかな女の人だ。だから、お客さんたちもそういうものだと思ってしまうということかしら。
「だから、目の前のことを頭から信じない方が良いかもね。嘘を楽しめる歳になったらまたおいで」
「はい。よろしくお願いします」
よく分からないまま答えると、影花も満足そうにうなずいて手を振ってくれた。
それからは少し夜の市場を見て回って、月牙のお店に帰って。そして、パットはおばあ様と暗いお屋敷に戻ってきた。最初の時に使ったのと同じお屋敷の一番奥の一角へ。
「目が慣れないでしょう。転ばないように、手を握っていてね」
「はあい」
夜の市場のたくさんの月とたくさんの星、たくさんのお店を彩る色々な灯り。その赤や青や緑や黄色が、まだまぶたの裏にちかちかしているようだった。だから、お屋敷の暗い廊下はいっそう深い闇に包まれているようで、パットは目をせわしなく瞬かせてしまう。
もちろん辺りの様子もよく見えないから、ベッドを用意してもらった部屋まで戻る長い道の間、パットはおばあ様の手をしっかりと握っていた。すっかり疲れて眠くなっていたから、ひとりだとふらふらしてしまいそうでもあったから。
「ねえ、おばあ様」
歩きながら眠ってしまわないように、パットはおばあ様に話しかけた。ちゃんとしなきゃ、と思っているのに、小さな子供みたいに舌っ足らずになってしまったけど。
「おばあ様も、影花のお店に行ったことがあるのね」
「ええ、キャロル――あなたのお母様も連れて行ったの」
「おばあ様の鏡はどんな嘘をついたの?」
くすくすと、おばあ様が笑うのがパットの手に伝わってきた。
「見るたびに違うひげが生えてしまうの。どじょうみたいな細いのや、顔半分覆ってしまうようなあごひげとか。だから、私はすぐに嘘つきの鏡だって分かったのよ」
おばあ様のお顔にひげを落書きするいたずらを思い描いて、パットも笑った。少し眠気が覚めたので、次の質問はもう少しはっきりした声で。
「お母様のは?」
「二本足で歩く猫の姿になってしまうの。夜の市場でもそんな人がいるでしょう。耳はぴんと尖って、きちんと服を着て――」
「可愛いわね」
「でもあの子は気に入らなかったみたい。髪形が分からないのは困ると言って。……だからあまり使っていなかったようね」
もったいないわ、とパットは思った。確かにおめかしするのには使えないけど、猫になれる鏡なんて。耳をぴくぴくさせたら猫の耳が動くのかしら。鏡を見ながら灯りをつけたり消したりしたら、目も細くなったり丸くなったりするのかしら。それは、とても楽しそうなことなのに。
「私は夜の市場との付き合い方を分かり始めた頃にあのお店に行ったの。キャロルは、こちらの世界の方が自分の居場所だと、はっきり分かっていたようだった。……あなたは、あちらに惹かれすぎてはいないか、心配だったの」
「嘘に溺れてしまう……?」
女王様も、似たようなことを言っていた気がする。鏡の嘘に見とれて、何もできなくなってしまう、というようなことかしら。
「ええ。嘘と分かった上でたまに眺めるだけなら良いかもしれないけれど。嘘の方が本当だと信じてしまったら困るでしょう」
「影花も、最初は黙っていたし?」
「そうね。悪い人ではないけれど――でも、完全に安心ということでもないかしら」
おばあ様と月牙がいてくれてよかったわ、とパットは心の底から思った。たとえお使いの話が出ていなくても、女王様が鏡の嘘を教えてくれていなくても、おばあ様はしっかりとパットを見守って、いざという時は口をはさんでくれていたと思う。月牙も、影花が誤魔化したりしないように見張ってくれていたみたい。
「おばあ様、見ていてくれてありがとう」
改めてお礼を言って――同時に、パットはまだまだ子供だと思う。綺麗なものは見とれてしまうし、でも、嘘だと分かるといけないことだと思ってしまう。影花が言っていたように、嘘を楽しむようになんてなれるのかしら。
「いいえ。可愛い孫のためだもの――さあ、もう寝る時間ね」
そんなことを話している間に、パットは寝室の前にたどり着いていた。お屋敷にぴったりの、天蓋つきのお姫様のみたいなベッドがすぐそこに待っている。今夜は夜の市場に行く予定だったから、メイドの人たちがもう準備を整えていてくれているはず。
寝間着に着替えてベッドに横になると、さらりとしたリネンが気持ちよくてすぐに別の世界――今度は夢の世界へ行ってしまいそうだった。
「おやすみなさい、パトリシア」
「おやすみなさい、おばあ様」
髪を梳いてから頬を撫でてくれておばあ様の優しい温かい手は、夢の世界への最後のひと押し。おばあ様が枕元から立ち上がって、部屋から出て行ったのもどこか遠いことのよう。
今日はどんな夢を見るかしら。影花のお店のたくさんの鏡。たくさんの月牙とパットとおばあ様。数え切れないほどの顔の中に――お顔をよく覚えていないけど――お母様や女王様の姿も混ざっていそう。
目蓋の裏に蘇った女王様のお顔は、お人形みたいな冷たい笑顔ではなくて、少しお年を召して見えるけれど柔らかい表情だった。あちらの方が、女王様の本当のお顔なのかしら。嘘で隠して、誰にも見せない本当の笑顔を、パットには見せてくれたのかしら。子供だから? 他の世界から来たからかしら。ほんの一瞬だけの出会いだからこそ本当の笑顔を見せてくれたのなら――やっぱりお使いに行って良かったかしら。
女王様からいただいた真珠は、あの螺鈿の器に入れておこう。そして、女王様の優しい方の笑顔をちゃんと覚えておいてあげよう。
完全に寝入ってしまう前に、パットはぼんやりとそんなことを考えた。
「女王様の姿見の部屋の鍵」は今話で終わりです。
明日8/21からまた別の世界のエピソード「水底の鍵」を投稿開始します。