10
パットは月牙と手を繋いで暗い廊下を戻っていった。影花のお店へ通じる扉が闇の中にうっすらと見え始めたころ、パットはぽつりとつぶやいた。
「女王様、ちゃんと笑った方がお綺麗なのに。どうして嘘のお顔をなさるのかしら」
女王様の目の前で聞くのは、何だか怖いし失礼な気がした。だから、女王様のお部屋から出て、もう少しで夜の市場に帰れるというところまで来てやっと、口に出すことができたのだった。
「あのおばさんはね、とても残酷で恐ろしい暴君だと思われているんだ。王の位を得るために、夫や子供まで殺してしまったと」
「おばさ……女王様のこと? 本当に?」
月牙がさらりとひどい――失礼だという意味でも怖いという意味でも――ことを言ったので、パットは思わず立ち止まってしまった。見上げた月牙の表情はいつも通りに夜空の月みたいに明るくて優しくてとても綺麗で、だからこそどういうつもりでそんなことを言ったのか分からない。
「さあ。事実は彼女だけが知っているし、この国の者は事実を言われても信じないかもしれない。どうせ信じられないなら、怖がられていた方が楽なのかもしれないね」
「そんな。もし本当はそんなことがないんだったら――」
ちゃんと話して分かってもらわなくちゃ。パットがそう口にする前に、月牙は指先でパットの唇を止めてしまう。
「何度も話しても分かってもらえなかったら? 話したくなくなっても仕方ないとは思わない?」
「……分からないわ……」
話をしても聞いてもらえなかったことなんて、パットにはない。お父様もナースのアビーも、お友達も先生も――おばあ様も。ちゃんとパットの目を見て、頷いたり聞き返したり。嬉しいことには良かったねって、悲しいことには大丈夫? って言ってくれる。でも、女王様にはそんな人がいないのかしら。そんなことが続いたら、嘘でも平気な顔をしていなければと思うようになるのかしら。
「女王様、可哀想……」
影花のお店への扉はもう目の前だったけれど、パットは鍵を使うのをためらってしまった。扉を開ける代わりに、暗い廊下の方へ顔を向ける。女王様のお部屋の扉はもう見えないけれど、あの人はまだ鏡の中の嘘の姿を見ているのかしら。戻ってお話を聞いてあげる訳にはいかないのかしら。パットには優しくしてくれた人なのに、誰にも分かってもらえないなんて。
パットは、今にももと来た道を引き返しそうになったけれど――
「そうだね。でも違う世界の違う時代の人だから。パットにできることはないと思う」
月牙がまたさらりと告げて、パットをくるりと扉に向きなおらせた。背中に手を添えて、優しい笑顔で覗き込んできて。
「パットは帰る場所があるだろう。ずっとここにはいられないんだ」
パットが帰る場所――夜の市場から、またおばあ様のお屋敷に戻って。何日かお泊りしたらお父様が迎えに来る。お父様と暮らすおうちがパットの帰る場所。……それじゃあ、月牙とパットも違う世界に住んでいるということなのね。
「……帰らなくちゃ、なのね」
「うん。さあ、鍵を出して」
パットがどこに帰るつもりで言ったのか、月牙は分かってくれたのかしら。女王様を寂しいままで置いていくのも悲しいけれど、月牙と違う世界に住んでいると気づいたのも、パットにとってはとても悲しいことだった。
鈍く光る大きな鍵を掲げて鍵穴に差し込むと、パットの手にかちゃりと何かが動いた感触が伝わった。これでまた世界がつながった。扉を開ければそこにはもう夜の市場の華やかなざわめきが聞こえてくる。そして閉めれば、女王様のお部屋は遠い遠い別の世界。
扉を潜る瞬間に、パットは月牙の顔を見上げてみた。初めて会った時から同じ、優しくて綺麗な微笑み。――でも、月牙も女王様の鏡にいつもと同じ姿で映っていた。
月牙はどんな嘘をついているのかしら。本当の月牙はどんな姿をしているのかしら。とても、知りたかったけど。パットには尋ねる暇も勇気もなかった。だってパットと月牙も住む世界が違うのだから。
聞いても仕方ないだろう、なんて言われたら、とても悲しくなってしまうから。
「おや、無事にお戻りだねえ。お客様のご機嫌はどうだった?」
それに、機嫌良さそうに笑って、両手を広げてパットたちを出迎えた影花の横では、おばあ様が心配そうな顔で佇んでいたから。月牙とはずっと一緒にいられなくても、パットの世界にはお父様もおばあ様もいる。パットの大好きな人たち、パットを好きでいてくれる人たちが。女王様にお会いした後だと、そんな人たちがいるということが、どれだけ大事なことなのかよく分かった。
「大丈夫よ。ちゃんとお使いをしてきたわ」
だから、おばあ様を安心させてあげようと――パットは明るく笑って胸を張って見せた。