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お屋敷のディナーは、やっぱりパットの家でいただくのとは全然違って落ち着かなかった。
ひと皿ひと皿運ばれてくる料理。素材も馴染みのないものばかり。雉のローストとか、鱒の何とかいうソース添えとか。好物のはずのシェパード・パイだって、こんな壊れ物みたいにお上品な盛りつけで出されたのは初めてだった。
焼きたてのパンも、デザートのプディングも美味しかった……と、思うのだけど。でも、よく覚えていない。
銀のカトラリーは柔らかそうな輝きなのに触ってみると冷たくて。磁器、っていうのだろう。細かくて綺麗な草花が描かれたお皿は、ナイフを当てるのも怖いくらい。食事が美味しいというよりは、何か失敗しないかどきどきしてしまう。
広間のシャンデリアも綺麗だけど、料理や食器やカトラリーに投げる光はとても弱くて頼りない。部屋の隅には暗闇がわだかまって、何か不気味なものでも潜んでいそう。やっぱりパットにとってこのお屋敷は知らない場所だった。
それに何より、この後、が気になってしまうから。
料理に目を落としている振りで、おばあ様を上目遣いで盗み見してみる。おばあ様は、何もかも恐る恐るなパットとは違って、とても滑らかにカトラリーを操っている。まるで人形みたい、と思うほど。
お母様のお母様だし、ナースのアビーよりもずっと歳上の方のはず。お母様と……あともうひとりお子様が、パットにとっては叔父様がいらっしゃるらしいから、このお屋敷にも子供の声が響いていたこともあると思うのだけど。
でも、パットの目に映るお屋敷は暗くて静か。そのお屋敷のご主人様も、冷たそうな静かな人。銀色の髪に灰色の目。きっちりと結った髪も、長くて重そうなドレスも、首周りや袖口を飾るレースも。整いすぎて生きているようには思えなくなってしまう。
人形のお屋敷でディナーをいただいて、そして終わったらどこへ連れて行かれるんだろう? パットも人形にされてしまう?
時計の針の音と食器やカトラリーが触れ合う音が響くだけの広間。止まってしまったような時間の中で、パットも透明なガラスか何かに固められてしまったような気持ちを味わった。
ディナーの後のお茶を、おばあ様は随分と時間を掛けていただいていた。パットも同じくらいゆっくりにしようと思うのに、とても難しい。おばあ様とパットでは流れる時間が違うのかしら。チクタクという時計の音に、刻まれるような気持ちになった頃――
「そろそろ行きましょうか」
おばあ様がとてもさらりと言ったので、パットは椅子の上で小さく飛び跳ねた。行くって、このまま? 着替えたりしなくて良いのかしら。それに車は? ここへ来る時はお父様に送ってもらったのだけど。お屋敷なら馬車があったりするのかしら。準備はしてもらわなくて良いのかしら。それに、どこへ行くかはやっぱり教えてくれないんだ。
「パトリシア、こちらへ」
「は、はい」
たくさんの疑問がパットの頭の中でぐるぐると渦巻いていたけれど――どれも口にすることはできなかった。その前におばあ様は立ち上がってしまって、パットはぴょんと跳ぶようについて行く。ほら、やっぱりバネの仕掛けの人形みたい。
おばあ様は暗い廊下を音も立てずに歩く。ぴんと伸ばした背筋を見ていると、パットも身体に力が入ってしまって。静かで暗いお屋敷の奥深くへ、どんどん誘い込まれていくよう。
「あの……どこへ?」
やっと出すことができた声も掠れてしまってた。まるで怯えているようで、これでは失礼かしら。
「ああ……言っていなかったわね」
おばあ様は振り向くと、不思議そうに首を傾げた。パットの不安そうな表情に、初めて気付いたとでもいうように。
「灯りはつけられないの。気をつけて来てね」
尋ねたことには答えてもらえなかったけど、おばあ様は手を差し出してくれた。紙のように白くて乾いた手。古い木材を磨いたような、綺麗だけれど枯れたような質感の。
握っていて、ということなのね。
その手に触れるのも怖かったけど、はっきり断るのはもっと怖い。だからおずおずとおばあ様の手を握ると、驚くほどに温かかった。人形なんかじゃない。この人はちゃんと生きている。お母様のお母様で、パットのおばあ様。そう思うとほんの少しだけ安心できて、闇の中を進む勇気も出た。
おばあ様の手を握り締めながら廊下を進んで、階段を下ったり扉を潜ったりして。たどり着いたのはお屋敷の奥のある部屋の前だった。
「この部屋は……?」
お屋敷の造りや廊下の様子、左右の部屋との間を見て考えると、とても小さな部屋なのではないかと思う。
「物置のようなものよ。でも、用があるのはこの部屋ではないの」
おばあ様はあっさりと頷いて、また謎めいたことを言う。いつの間にかその手に光る鍵が握られているのを見て、パットは訳が分からなくなってしまった。
「でも、鍵……」
この部屋を開けるということではないの? 尋ねようとして――パットの舌は固まってしまった。それほど、その鍵が綺麗だったから。素材は――金? 銀? それとも何かパットの知らない宝石でも使っているのかしら。ほとんど真っ暗な中でもなぜかほんのりと光を放っていて、夜空に浮かぶ月のよう。煌く石が散りばめられているのも星を思わせて。一体何でできているのか、近くで見ているのに分からない。それに、金属でなくて宝石なら、こんな細かな彫刻なんてできるのかしら。
「この鍵に合う扉なんてないの。これは、夜を開く鍵だから」
鍵に目が釘づけになって。何も言えず動けないでいる間に、おばあ様はさっとその鍵を扉の鍵穴に挿した。
合わないのでは、なかったの…?
また一つ疑問が浮かぶけれど、それもすぐに吹き飛んでしまう。おばあ様が扉を引き開けると、光と色の洪水がパットの目をくらませたから。
思わず目を瞑って――恐る恐るまぶたを上げた時、目に入ったのはとても不思議な光景だった。扉の外は、薄暗い廊下。そして中は――
とても広い――何かの店、のようだった。天井から床までを占める棚には不思議な品々が並ぶ。
剥製。小さな竜や、鳥や動物や蜥蜴を組み合わせたようなおとぎ話の中の生物。鳥籠の中には透明の羽根の生えた妖精が。とてもよくできた人形――のはず。青や紫の葉の鉢植え。光る石を連ねた首飾りは見ているうちに色を変えて。
嗅いだことのない香りも鼻をくすぐる。甘いような辛いような、遠い国の香りだと何となく思う。
異国のようと思ったのは、ただひとり部屋の中にいた人が外国の服を着ていたからだった。重そうな刺繍を施した、ゆったりとした絹の服。絵本で見たことがあるけれど、絵柄はのっぺりとしてつまらなかった。でも、この人は生きてパットの目の前にいる。黒い髪はしっとりとして輝いて。肌は、パットたちとは違った色合いの、象牙のような白。部屋の中のどの品にも負けずに綺麗で光を放つよう、と思う。
瞳も夜空を宝石に閉じ込めたような深い深い黒。本でも読んでいたのかしら、伏せられていたその瞳がこちらを向くと――
「やあパット。久しぶり」
とても綺麗なその男の人は、にこりと笑ってそう言った。