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本日2回目の更新です。
一万の民の命を代償に、父母の魂を解き放つか。それとも死してなお母を鳥籠に閉じ込め続けるのを良しとするか。いずれも選べないはずのことを、夜の市場とやらの怪しい店は彼に強いた。
店主も、鳥籠の中の鳥たちも。そして何より父と母が、彼の答えを待っている。無数の視線が矢となって、彼を貫くようだった。舌さえも針で留められたようで、容易には動かせなくて。それでも、全身の力を振り絞るように、彼はやっと声を紡いだ。
「余は――余には、その値は払えない……」
言った瞬間、全身から汗が吹き出して衣服を濡らした。それは安堵の汗なのか、取り返しのつかないことをしてしまったための冷や汗なのか。彼自身にも分からなかったが――とにかく、言ってしまったのだ。
「そうですか。残念ですね」
言葉とは裏腹に、店主の声にはさほど負の感情は聞こえなかった。ただ、浮ついた調子はすっかり去って、どこか醒めて冷ややかな、突き放した空気が漂っていた。まるで見えない堅固な壁が瞬時に築かれたような。
「それではまたのご来店をお待ちしております。次こそはお目に叶う品がありますように」
「あ……」
待て、と言う間もなかったし、また言えるはずもなかった。冷やかしの客に対して店の者が取るものとして、あまりに真っ当な態度だから。
父でさえ犯すことのなかった罪。母のために万もの民の魂を差し出すこと。そのような罪に手を染めるほど彼は狂っていないはずだ。この夜の市場とやらで、恐らく彼はあまりにまとも過ぎるのだ。狂気の壁を越えることができないならば、この店の買い手にはなれないのだろう。
フードの店主は彼に背を向けた。もう語ることはないとでも言うかのように。
一歩二歩。彼は後ずさりした。そこからはもう逃げるように。鳥たちの目から背を向けて、扉へと駆ける。
その彼の背に向けて、父と母が鳴いていた。勝ち誇るような父の声と、悲しげな母の声と。
彼は母を見捨てたのだ。
気がつくと夜明け前の仄暗い闇の中、彼は執務室で倒れるように眠っていた。全ては悪い夢だった――と自身に言い聞かせようとしても、父の爪が抉った指先の傷は残ったままだった。
何より、鍵の輝きから目を背けることはできなかった。菫色の空に残った月の力によってか、真夜中の闇の中と同じように鍵は優しい光を放ち続けていたのだ。
その後、しばらくして母の離宮を取り壊すことにした。価値のあるものは粗方処分し終えたからだ。彼は当分妃を持つ予定はないし、まして父のように寵姫を囲うつもりはさらさらない。残すだけ金を食うものだと考えたのだ。
あるいはそのように考えたということにした。幸い彼の判断を怪しむ者は、少なくとも表向きはいなかった。父と違って美しい女に溺れることはない、と。彼は民と臣下を安心させなければならないのだ。
もちろん本当の理由はあの夜のことを思い出すのが怖かったのだ。あれ以来――昼であろうと夜であろうと――何度離宮を訪れてもあの店に行くことはできなかった。やはり場所ではなく鍵が問題だったということらしい。それでも離宮を見るたびに心がざわつくから、いっそあらゆる壁や床下を浚って、何もないということを確かめたかった。
事実、離宮を取り壊しても鳥籠の欠片ひとつ、羽毛一枚たりとも見つかることはなく。そのことは、彼を心から安堵させた。
すると残ったのはあの鍵だけ。夜ごと月の輝きを放つ美しい鍵。その鍵を見るたびに、彼はどこかの扉の鍵穴にそれを差し込む幻を見ることになった。どのような扉でもあの店に行くことができるのだろうか。父と母はまだあの店で同じ鳥籠に囚われているのだろうか。万一買い手がついたとしたら、その客は両親をどのように扱うのだろうか。
もう一度あの店を訪れたい。母に会いたい。その衝動というか欲望はあまりにも強かったので、彼は鍵を海に捨てた。あの輝きが手元にある限り、いつかまたあの店に行ってしまうと思ったのだ。もう一度母にあって、あの優しい目に見つめられて美しい声を聞いたなら。今度はどうなるか分からなかった。
海の底でもあの鍵は輝いているのだろうか。いつかどこかの岸辺に流れ着くこともあるのだろうか。もしも人が拾ったならば、あの輝きに導かれて夜の市場を訪ねることもあるのだろうか。
縋るにはあまりにもか細い希望だったし、あの番の鳥の値はやはり途方もなく高い。それでも彼は願ってやまない。
いつかの時代、どこかの国で。あの鍵を手にしてあの店を訪れた客が、彼がどうしてもできなかったことをしてくれること。父母を、あの鳥籠と妄執から解き放ってくれることを。
「鳥籠の鍵」は今話にて完結です。
そう遠くないうちに次のエピソードを投稿したいと思いますので、お待ちくださいますようお願いいたします。