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夜の扉を開く鍵  作者: 悠井すみれ
始まりの鍵
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 振り子時計が五時を打った。長針がかちりと十二を指した瞬間に、あまりに不意に。


 もちろん三時にも四時にもあったことなのだけど、このお屋敷はあまり静かだからパットはすっかり忘れてしまってた。だから、後ろからわあっと大声を出されたみたいに、びくりとして顔を上げる。すると、壁にかかった大きな時計は、どうかしたの、とでも言いたげな知らん顔で、同じリズムで秒針を刻んでた。


 ぽぉん、ぽぉんと柔らかい音が続けてお屋敷に響く。古い時計が奏でる音は、古いお屋敷によく似合っている。驚いてしまったパットはお客様なのだと笑われているような、落ち着きがないと咎められているような気分になる。


 まだ、五時……。


 針を布に刺しながら、パットはそっと溜息を吐く。おばあ様には分からないように、こっそりと。おばあ様は晩餐(ディナー)は六時と言っていた。時間きっかりに動くお屋敷もおばあ様も怖いけれど、お食事ならまだやることは分かっているし、パットだってマナーはきちんと教わっている。


 でも、その後はどうしよう。


 どんなにゆっくりデザートをいただいたとしても、まだ八時。それから寝るまで何をしていれば良いのかしら。おばあ様のお屋敷にある本は難しいのばかりで、パットが好きな絵本なんかは一冊もなかった。今こうして刺繍をしているのも、他にすることがないから仕方なく。使用人の人達はぜんまい仕掛けの人形みたいで、女の子の相手なんかしてくれないし。

 おばあ様だって、何度もお会いしたことがある訳じゃないのに。明日のお昼にお父様が迎えに来るまで、ふたりきりで過ごさなければいけないなんて。


「退屈なのね、パトリシア」


 また溜息を吐こうとしたところに、心の中を見透かされたようにおばあ様が言ったので、パットは椅子から飛び上がった。針で指を刺しそうになって、慌てて持ち直して膝の上に置く。


「いいえ、そんなこと……!」


 首を振りながらおばあ様を恐る恐る見つめると、冷たい灰色の目が鋭くパットの方を見ていた。まるで睨まれているようで――やっぱりこの人と一緒にいるのは落ち着かない。

 ナースのアビーが風邪をひいてしまってパットの面倒を見られなくなったから、おばあ様のお屋敷に預けられることになったんだった。お父様もお仕事を調整してくれたから、今日明日だけのことのはず。でも、ずっと昔に亡くなってしまったお母様のお母様なんて、もうほとんど知らない人。お屋敷だって、古くて広くて、暗くなってくると隅の影が怖くて、くつろぐなんてできそうにない。だからパットはどうしたら良いか分からなくて、時計ばかり見てしまっていた。

 おばあ様はパットなんて知らない顔で、ずっとお茶を飲んでいたのだけれど――そんな様子も、全て分かっていたみたい。


「小さい子が楽しいことなんてないもの。仕方ないわ」

「そんなこと……」


 ない、と言い切れないのは、本当に楽しくないからだった。十歳なんてもう大人だと思っていたのに、おばあ様に失礼のない態度ができないなんて。パットはやっぱりまだまだ子供なのかもしれない。


 大人なら、このお屋敷ももっと楽しいのかしら……?


 お父様は素敵なお屋敷だから、と言っていた。どの部屋も庭のどんな片隅も、由緒ある立派な逸話があって、きちんと手入れされていて。いつまでも見飽きないんだ、って。そうして勝手に絵本のお城を想像していて――それで、思ったよりも暗くて静かなお屋敷を見て、パットはがっかりしてしまってた。


 玄関の扉を潜ったパットを迎えた、大きな階段。足元の絨毯はふかふかとして雪の上を歩くよう。薔薇の咲く温室、古い紙の匂いがする図書室。豪華な衣装を着た人たちの肖像画。窓枠やドアノブでさえ、ひとつひとつ細かな細工が施されて。

 どれもすごいとは思うけれど、楽しいとは思えなかった。むしろどれもパットを見張っているようで、ちゃんとしなくてはと思うと肩が凝ってしまいそう。


 答えに困っているうちに、おばあ様の銀色の眉が、ほんの少しだけ寄せられた。


「私も困っているの。キャロルが小さい頃のことなんてもうほとんど覚えていないから」


 キャロル、というのは亡くなったお母様のお名前だったはず。よく知らない人からよく知らない人の名前を聞くなんて、なんだか不思議な感じだった。そして、パットははっと気付いた。


 おばあ様も、ご迷惑だったのかしら。


 おばあ様だって、パットのことをよく知らないのは一緒だった。それも、ご自分のお屋敷に押しかけて来るなんて。本当は嫌だったのではないかしら。お父様は何て言ってお願いしたのかしら。


「あの、私……」


 言いかけても、何を言ったら良いかなんて分からない。もう帰ります? まさか。パットの家への道なんて覚えていないし、帰ってもお父様もアビーもいないのに、子供ひとりでしんと静まり返った家で過ごすなんて怖すぎる。

 だから、どうあってもこのお屋敷に泊めてもらわなくてはいけないのだけど。でも、おばあ様と一緒なのも怖くて。パットは何も言えなくなってしまう。


「ディナーを終えたら出掛けましょうか」


 かちゃり、と。静かな音を立てておばあ様がティーカップをソーサーに置いた。そう、お茶をいただくカップなんかも、このお屋敷にあるものは繊細でいかにも古そうで、下手な触り方をしてはいけなさそうで。そんな小さなものひとつひとつが、パットがのびのびとできない理由になってしまってる。

 でも、おばあ様にとっては多分全て当たり前にあるもの。その証拠におばあ様の動作はとても自然で優雅で上品だった。こういう人を貴婦人(マダム)って呼ぶんだろう。パットは辞書の意味を表すような人に初めて会った。


「出掛ける……どこへ……?」

「それはその時のお楽しみ。貴方も気に入ると良いのだけど」


 貴方()


 おばあ様の言い方はとても気になったけれど、おばあ様はまたティーカップを持ち上げてしまって、パットに説明するつもりはないみたい。

 目を閉じて静かにカップを傾けるおばあ様は、邪魔なんてしてはいけないみたい。おばあ様は、パットと違ってお屋敷の風景に馴染んでいる。お客様のパットはおいそれと口を挟んではいけないのだろう。

 だからパットは仕方なく刺繍の続きに取り掛かる。どこまで進めていたのだったか、すっかり分からなくなってしまってたけど。


 ディナーの後に、何があるのかしら。


 怖いような楽しみなような気持ちを、どうして良いか分からないまま。

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