文字の勉強
机の上には紙と鉛筆。それから、文字を覚えるためと称されて置かれた分厚い本。相変わらずミリアを警戒しながら夕食に出ていたレティが、食べ終わった後に持ってきたものだ。
きっかけは、夕食中にシルヴィアが言った一言である。
「ミリア、学舎はあらかじめ基本的な知識が身についていることが要求されているの。皆入学前に家で教師を雇ってある程度学んでいるのだけれど。……まず、文字は読めるかしら」
門の中に教育機関は一切ない。自然識字率は低くなる。だが、文字に触れる機会がまったくないかというと、そういうわけではない。
「門の外から来る人のために店が看板を出しているので、ある程度なら。……でも、自信はないです」
音と文字が一対一対応していれば、読み聞かせてくれる人がいる場合表音文字は幼い子供でも覚えられる。この看板はこう読むのだと知れば、その看板に書かれている文字は分かるのだ。ただ、間違っていても正してくれる人がいなかったので、その知識が合っているのかが分からない。
ミリアはそのことを正直に述べた。
「じゃあ、まずは読み書きがしっかりできるようになることからかしら。急がないと間に合わないわね。家庭教師には来てもらっているけれども、毎日来てもらえるわけじゃあないし。私も夫も明日からは普通に仕事に戻らなければならないの。誰か、ミリアに勉強を教えてあげられる人いないかしら」
それを聞いたシルヴィアはあからさまにレティの方を見ながらそんなことを言う。
「分からないことが沢山あるまま、入学したらミリア大変よねえ」
「どれくらい、大変なのですか?」
「学舎で学ぶのは政治についてだから、言っていることがまったく分からないんじゃないかしら」
「入学前に、できる限り頑張ります。でも……」
シルヴィアの考えが分かったミリアは、それに合わせることにした。レティは決して冷たいわけではない。さっきだって、こちらを怖がりながらも必要なことは教えてくれた。レティの良心をつつくように、不安そうに言いよどませる。
「あ、あの、お母様っ」
「あら、どうしたのレティ」
「っ、私が」
「レティが?」
「私が……、ミリアに、教えてあげる。……あ、でも先生がいない時だけだから」
結果、見事にレティは引っかかってくれた。少し心が痛まないでもないが、このまま毎日自室に引きこもられていては話すきっかけさえほとんどない状態になる。それでは、いつまで経っても警戒を解いてもらえることはないだろう。相手に警戒を解いてもらうには、まず話して自分が無害だと知ってもらうことからなのだ。
そんな会話があったため、現在ミリアはレティの監督の下、文字の勉強を始めていた。
「このくに、ランディックは、ひとつのおおきな、しま、と、そのまわりにてんざいするいくつかのちいさな、しま、でこうせいされる。ねぇレティ、「しま」って何? 模様のしましまのことじゃないよね」
とりあえず、どの程度読めるのかという確認のために例文を読んでみてと言われたので読んでみたのだが、知らない言葉があったためそこで詰まってしまう。
「えっ!? えっとね、島っていうのは……」
4人用の木製テーブルの対角線上に位置取って座り、ミリアからしっかりと距離を取っているレティに訊いてみたところ、答えるのが難しい質問だったのかレティは一生懸命考え始めた。
「島を知らないなら、海も知らないよね」
「うん。しまとなにか関係あるの?」
「海はね、水がいっぱい溜まっているところ。それで、島は、海に囲まれているんだよ」
「水が溜まっているところなのに、ランディックは海に囲まれているの?」
「えっとね……、海は、すっごく広いの。ランディックより、ずっとずっと」
「水に、囲まれているんだ……」
レティはミリアに分かるように、分かりやすいようにと噛み砕いて説明してくれる。決して分かりやすい説明ではない。それでも、これが分からないのだからこれも知らないだろうと類推して教えてくれるのは、門の外の常識をほとんど持たないミリアにはありがたいことだった。
「このページは後からかなぁ。一枚めくってそこから読んでみて」
知らない言葉があると、どうしても意識がそちらに引きずられる。まず今ミリアが覚えるべきは文字の読み書きだ。言われた通りにページをめくり、そこに書いてあった例文を読んだ。
「ひとは、にくたいとそのなかにたくわえられているせいめいエネルギーのふたつがそんざいすることでいきている。どちらかがかけたばあいしんでしまう。にくたいがこわれればせいめいエネルギーが、うんさん、むしょう、し、せいめいエネルギーがかれればにくたいのかつどうがとまるためである。うんさんむしょうし?」
「雲散霧消。雲や霧って、消えちゃう、でしょ? そんな風に、消えること、だよ」
今度のミリアが分からなかった言葉は、レティの想定内だったらしい。
「大丈夫そう、だね。続けて」
そう言われたので、言われるままに続きを読む。
「だが、ひとがしぬげんいんは、ほとんどのばあいにくたいにある。なぜなら、いっしょうでつかうぶんよりもおおいせいめいエネルギーをひとはうまれもっているためである。ただし、スキルのつかいすぎによってせいめいエネルギーが、こかつ、するばあいがある。レティ、こかつってどういう意味?」
文脈から意味はなんとなくわかっていたが、聞いてみた。
「涸れて無くなること、だよ」
この言葉の意味を聞かれることも、想定の範囲内だったらしい。どうやら、ある程度の文に一つ、難しい単語が混ぜられているようだ。文字と、知識と、言葉を覚えるための本。ミリアは効率的だなぁと思いながら続きを読む。
「なお、じんたいにはすきるのつかいすぎにたいするリミッターがそなわっている。きょようりょうをすぎたばあい、にくたいはもうれつなくるしみにおそわれる。このリミッターによりたいていのにんげんはじぶんがげんかいをむかえていることにきがつくが、スキルのしゅるいによってはこのリミッターのはたらきがよわく、きづかずにつかいすぎて、ておくれになることがある。いか、リミッターがよわいスキルのいちらんをしるす」
一続きの文章はここで終わっていた。その下には、言葉が一語ずつ並べられている。見知ったスキルの名前がそこには並んでいた。
「うん、読むのは、問題ない。じゃあ、次は書く方。ここにあるスキルの名前、文字と音の対応に注意しながら書き写してみて」
そう言われたので言われた通りに書き写していく。一番上に書いてあった「しゅうふく」を書き写し、次の「きけんよち」を書き写そうとした時だった。
「あ、えっとね、そうじゃなくって……。一つ目を繰り返し書いてみて。その方が、覚えやすいから」
レティからアドバイスが飛んでくる。確かに、その方が効率がよさそうだ。そう思って、ミリアは一枚の紙に延々しゅうふくと書き始めた。それを見て、レティは修復スキルについての説明を始める。
「修復は、壊れたものを壊れる前に戻すことができるスキル。ただ、戻すものの大きさだけじゃなく、壊れてから経った時間も生気の消費量に影響するから消費量が分かりにくい。その上、リミッターの働きが悪いから、許容量超えが本人にも分からないスキルなの」
レティがらそんな解説が飛んできてミリアは驚く。普通、少なくとも門の中では、他人のスキルの消費生気についてそんな知識を持っている人はいない。そんなこと知らなくても、生きていけるからだ。門の外では、こんなことまでが常識なのだろうか。ミリアは気になってレティに聞いてみた。
それに対してレティから帰ってきた言葉は、
「たぶん、普通に生活している人は知らないと思うよ。でも、ここに名前が出ているスキルを持っている人は、それだけで生活していける。だから、国を治める人間はちゃんと知っておく必要があるの」
というものだった。どうやら、入学までに知らなければいけないことは山積みらしい。ミリアは文字こと一つをとっても効率のいい方法をとっている理由を察する。そうでもしなければ、間に合わないのだ。
「大丈夫だよ」
ミリアの不安を察したのか、レティが励ましの言葉をくれる。
「本当に覚えないといけないことは、この本一冊に詰まっているから。だから、大丈夫」
一冊と言われても、自分の手首の太さと同じ厚みのある本だ。簡単ではない。それでも、一冊だけと言い切られたことに、少し安堵したのは確かだった。
門の中には海が存在しないのでミリアは海を知りませんでした。
自分と常識がまるで違うミリアを見ていて、レティの警戒心はだいぶ薄れてきています。
レティの現在の警戒レベル 10段階中6