不可思議な誘い
ミリアが学舎に入学してから四か月が経過した。季節が変わって、夏の本番までもう少しといったところである。入学を機に変わった生活習慣や授業形態もすっかり定着し、一日の過ごし方が定型して日常になっている。そして、ミリアの場合、学舎とは別にもう一つ、定型化した習慣があった。
「やあミリア、こんばんは」
それが、帰宅した後毎夜定時にアレンが遠話で話しかけてくるのを待つというものである。人というのは律儀なもので、別に待ち遠しいわけではなくてもその時間に来ると分かっているならばつい待ってしまうものらしい。
「今日の質問。七十七掛ける九十一掛ける百四十三引く一の答えは?」
「七十七掛ける九十一掛ける百四十三引く一で間違ってないよね。ちょっと待ってて」
最近では、ミリアからのアレンへの質問は、やたらとややこしい計算問題になっている。メモを取った上でしっかり向かい合わないと計算できないため、嫌がらせには向いている。おまけにミリアの方は、適当な数字を考えてあらかじめ答えを出しておくだけでいいので、まったくと言っていいほど手間がかからない。
ミリアがこういう類の質問を思いついて実行をした初回はアレンは戸惑って一度遠話を切ってまで、メモ書きできる紙を探してもう一度尋ね返すという状況になり大変愉快だったのだが、次の日からはちゃんと用意されていて、計算のみに集中できる環境を作っていた。
「って、ミリア、これ百万二千ぴったりじゃないか。中途半端な数字だから普通に計算したのに」
「私が毎回馬鹿正直に計算しなきゃいけない計算式にしてないって知ってるでしょ」
ミリアがアレンに毎夜出している計算式は、知っていれば計算しなくても答えが出せるが、知らないと計算が大変面倒なものが多い。
例えば今日の計算式であれば、答えの百万二千に一を足したものは、1001を二乗した数である。そして、1001は7と11と13を掛けた数字であるため、百万二千一は7×7×11×11×13×13で求められる数と等しい。
その順番を入れ替えて7×11×7×13×11×13とし、中途半端に前から二つずつ計算したものが、ミリアがアレンに出題した計算式だ。
よってミリアが今日アレンに頭を悩まさせるために行った計算は、7×11と7×13と11×13である。これくらいの計算なら暗算でもできる。一方でアレンは紙にペンを走らせることになるのだから、嫌がらせとしては手軽なことこの上ない。
ただ、すべてをそのような計算式にすると、最初から抜け道探しに走ってしまうため、たまに本当にただ複雑なだけのものも混ぜている。今日の式で気づくきっかけとなる点があるとしたら、77という明らかに7×11の結果だと分かる数と、あからさまに最後に引かれている1だろうか。
「今日のは普通の計算だと思ったのになぁ」
「そう見えるようにしてるからね」
問題は、この嫌がらせをアレンが少し楽しみにしていることぐらいだろうか。適当な数字の計算に見えた式が綺麗な数字を導くことを、とても気に入ってしまったらしい。
「それで、アレンは今日は何を聞きたいの?」
あまり感心されていても話が終わらないので、ミリアはアレンにアレンの分の質問を促す。この四か月門の中のことについて色々と聞かれてきた。水の確保方法から、人が売られる際の値段の相場まで、質問された内容は多岐に渡る。その際、あらかじめ聞く内容は決めていたようで、質問の瞬間にためらうようなことは一切なかった。
「ああうん、あのさ」
が、今日はここで一息ためらうような呼吸が入った。そして、一呼吸の後言葉が続けられる。
「ミリアは、門の中で暮らしって、どう思う? 今、門の外での生活を知った上で思ったことをなんでも聞きたい。大変だったとか、怖かったとか、なんでも」
今日まで一貫して門の中の事実しか聞いてこなかったというのに、ミリアの感想を求めるなんてどうしたことだろう。ミリアは不思議に思うが、問われるままに答えるのが約束だし、考えたところでアレンの思考回路が理解できる気もしない。質問の意図を不思議に思いながらも、ミリアはその問いに正直に答えることにした。
「思ったこと、かー。やっぱり、門の外は生きやすいってことかな。誰かに自由を奪われて売り飛ばされる心配は基本的にしなくていいし、飢えない程度の最低限の生活は保障されてる。ちゃんとした統治機関があるって大切なんだなぁって実感した」
まぁそれでもたまには事件が起こったり、飢えはなくても政府が保証しない生活の上での苦難はたくさんある。それでも、門の中に比べたら圧倒的に少ない。罪を犯せばまず間違いなく捕まるため、それさえも理解できない人か、突発的に感情任せに行われるか、発見されない手段を講じているかのどれかでしか犯罪が起こらないからだ。
生活も、収入が一定額以下の人間専用の居住施設が存在する。娯楽が決められた範囲でしか認められていないため進んで住みたがる人はいないが、職がない人には選択肢がない。そもそも、生まれ持ったスキルによって就職のしやすさが違う上、職を得にくい人の所持スキルは大抵破壊系統のスキルなのである。自暴自棄になって街中で破壊活動を行われるよりは、保護施設を整えて生活への不安を撤廃することは必須だった。
そういう事情のため、とにかく安全に生きたいだけなら門の外は最適の空間である。特に、門の中では金の代わりにしか見られない子どものうちは。
「やっぱり、そう思うよね。人が安全に生きるには、しっかりとした統治機関が必要だって」
ミリアの返答を聞いたアレンはとても嬉しそうだった。何がそんなに嬉しかったのか、ミリアには分からない。感じたままを述べただけなのに、何がそんなに嬉しいのだろう。
「ねえミリア、明日授業が終わったら、一人で屋上に来てくれないかな。そこで、話したいことがあるんだ」
「急に、どうしたの?」
「全部明日話すから、……駄目かな?」
「別にいいけど……」
そう思っていると、更に驚く発言が飛んできた。毎日こうして話しているのに、わざわざ会って話す必要があるとはどういうことだろう。断ってもよかったのだが、アレンの口調がいつになく真剣だったためつい受けてしまう。
「じゃあ明日、よろしくね」
そう言って、アレンからの遠話は切れた。何を話す気なのか、まったくもって想像がつかない。だが、いつものような答えるだけでいい質問とは違うことだけははっきりしていて、ミリアは既に了承したことを後悔し始めていた。
ミリアにとっての現段階のアレンの評価は、人の迷惑も顧みず好奇心のみで相手の都合を考えず行動するという点においてはまったく変わっていません。
結果、そういう人間に対する態度としてちょっとぐらい困らせてみようという思考に。




