段取り力。
勉強するのにも、順番がある。
優先順位を決めなければならない、という事だ。
たとえば、中学や高校で、中間試験が迫る場合。勉強する科目は、一教科だけではない。最低五教科は勉強しなければならない。
その場合、「何から取り掛かるか」を、まず、決めなければならない。
優先順位をつける、というのは、そういう事だ。
普段、それなりに授業に出て、勉強しているのなら、自分の得意な科目、不得意な科目が何かぐらいはわかってくる。
たまに、全てがわからない! という人もいるが、視覚や聴覚に問題があり、授業を聞けないとか、日本語以外の言語が母国語なので、授業が理解できないとか、ディスレクシアやハイパーレクシアなどの問題を持つので、授業を理解するのに手助けが必要とか、
他に様々な理由があって、授業の理解が困難な状況にあると言うのではない限り、
自分の得意、不得意な教科の区別ぐらいはできるはずなので、そういう人のケースは割愛する。
ちなみに上記のかたがたの場合も、自分にできる限りの努力はされているので、得意、不得意の区別ぐらいはついている。
話が逸れた。
要は、順番である。試験勉強をする時、どの順番で勉強するか。
私は、中学生を何人かまとめて教えていた事があるが、
勉強が苦手、という子には、共通する特徴があった。
非常に真面目。
そして、苦手な科目から勉強を始めるのである。
祝日などに普段より時間を取り、好きな教科から勉強して、質問があれば言え。というスタイルを取る事があった。
中学生の生徒たちは五教科全てを持ってきて、ばらばらに質問してくる。なので、参考書を何冊か用意して、調べられるものは、自分で調べろ、としていたのだが、
いつまでも、数学の問題を前に、悩んでいる子がいる。
三時間ぐらいかけて、一問。
他の子が帰ったあとも、一人残って、うなっている。
数学にかかりきりで、他の教科はまるで手付かず。しかし、「何から勉強するか」と尋ねると、必ず、「数学から」と答える。
よほど数学が好きなのか、と思っていたら、そうではないようだ。
で、尋ねた。「数学から勉強すると言ってるが、数学が得意なのか?」
すると、「違う!」という返事。
「じゃあ、どうして、数学から始めるんだ?」と尋ねると、
「苦手だから、最初にやろうと思って」
ピーマンを最初に食べて、お肉は後から。の発想だろうか。
しかし、これは、途中で力尽きるやり方だ。
数学をやりながら、あれもまだやってない、これも後からやらなきゃ。と思ってしまい、
ストレスが倍増するからだ。
で、言った。
「勉強する時は、得意な科目からやりなさい」
* * *
仕事は、雑用から片付ける。
勉強は、得意なものからやる。
要は、
「簡単にできるものは何かを自分で判断して、
それから終わらせる」
という事だ。
この発想が、意外とできない人が多い。
そういう人がどのように仕事をしたり、勉強したりするかと言うと、
「手当たり次第」
目についた物からやる、という考え。
あるいは、
「大きな、難しい物から」
とにかく大きな物から片付けよう、小さい事は後回しで良いよね! という考え。
で、この方法でやると、どうなるか。
「全てが途中のまま、力尽き、
終わっていない雑用が、ひたすら積み上がり続ける」
触れてはならない腐海が、机のまわりや引き出しに出現。頭の中は常に、焦りに支配され、混乱。とにかくやらなきゃ! という意識のみがあり、忙しくしているのだが、
何もかもが、全く進まない。
という状況に。
数学をしていた中学生も、同じ状況だった。
とにかくやらなきゃ、で、ひたすら数学をやるが、
わかりにくい、わからない。進まない。
他の勉強もあるのに! と焦り、
しかし進まない。ストレス。とにかくやろう。またストレス。
頭の中が混乱。集中しなくちゃ! で、問題を見つめる。見つめる。
意味がわからない。でも見つめる。真面目だから見つめる。
時間だけが過ぎてゆく。
最後に、「私、頭が悪いから……」と言って、あきらめてしまう。
違う。
段取りができていないから、実力を発揮できないだけである。
* * *
段取り、というものは、目に見えないが、実は重要な物である。
十、能力を持つ者の、一しか使わないか、十を十二や十五まで引き上げる事ができるかは、段取りができたかどうかで決まる。
逆に言えば、たとえ十の能力を持つ者でも、
段取りが悪かったり、段取りを全く考えずに仕事をさせれば、一かニしか、能力を発揮できない。
優先順位を決める。
自分の能力と時間を、それに割り振る。
単にそれだけの事であるが。これを考えて自分の時間を使うようにすると、かなりストレスが減る。
小学校や中学校で、こういう事教えてくれないかな……結構重要だと思うんだけどな。
* * *
件の中学生に、わたしはまず、尋ねた。
「ちょっと考えてね。大きな部屋と、小さな部屋の二つが君の前にあって、
どちらも同じぐらい、ちらかっていて、汚れている。
掃除をしてください、と言われたら、どっちの部屋からしますか?」
中学生は、「大きな部屋から」と即答した。
「どうして?」と尋ねると、
「大きい部屋が終わったら、後からゆっくりできるし……」
「それ、間違いだから」
「ええっ!? なんで!?」
「大きい部屋は大きいから、なかなか終わらない。やっているうちに、まだ終わらない、まだ終わらないとイライラしてくるよ。
それに、『この部屋まだ終わらないのに、後もう一つ部屋がある……』って、掃除している間中、ずっとそういう思いが頭の中にあって、それもイライラの元になる。
イライラしていたら、変な失敗をしたりして、もっと遅れたりするでしょう? それにその分、疲れちゃうよね。
この場合は、小さい部屋から掃除するのが正解。
小さい部屋ならすぐ終わる。そうしたら、その後、大きい部屋に取りかかれる。
で、途中で疲れてしまったとしても、『でも、一つは終わっているし!』と思うことができる。その分、気が軽くなってイライラは減るよ。
勉強も同じ。得意なもの、すぐに終わるものをまず、先に終わらせる。
そのあと、時間のかかるものをじっくりやる。
そうしたら、『まだ、あれが終わってない』と思う事もないし。他のものが終わっている分、集中もしやすい。
どの順番で始めるかは、実は重要なんだよ」
こういうと、何やら感動された。
うん。だからさ。学校で教えてくれないかな、こういう事。
* * *
勉強が苦手、という子にもう一つあった特徴は、
物事をつなげて考える訓練ができていない、というものだった。
たぶん、真面目だからではないかと思う。
目の前にある出来事に、真面目に、ものすごく集中してしまい、
それで終わり。
その出来事が、次に結び付かない。ほとんど反射のように反応している状態である。
目の前にでてきた事を、いちいち一つずつ記憶していて、つながりがない。パソコンで言うなら、新しく記憶した事を、常に一つずつ、新しいフォルダを作って入れている状態だ。
普通なら、ある程度フォルダが増えれば、中身の似たものや関連するものはまとめて一つにしてしまうのだが、
真面目すぎてできない。
彼女の記憶の中には、ひたすら、中身が一つだけのフォルダが増えてゆく。
しかもこのフォルダ、他と関連性を持たない。全てが独立した状態である。
例をあげるなら、連立方程式。
一次方程式と、二次方程式の問題があったとする。
y=ax + b……1)
y=ax^2 + bx+c……2)
^2は、二乗と読んでほしい。ちょっとサイトで表現できなかった。
この方程式を解く場合、二つとも使って、組み合わせて、XとYの値を出す。
その場合、これを入れる記憶のフォルダは、
フォルダA y=ax + b……1)
フォルダB y=ax^2 + bx + c……2)と、フォルダA
という風に、入れ子状になって記憶される。もしくは、フォルダBにフォルダAが小さくくっついた感じ。
要は、二つの方程式が、関連のあるもの、として、くっついた状態で記憶されるのだ。
その上で、解き方がフォルダBの中に書きこまれる。結果として、大きなフォルダが一つ。その中に、三つの内容が書き込まれる。
しかし、彼女の記憶は違った。
y=ax + b……1)
y=ax^2 + bx +c……2)
これの解き方を記憶するのに彼女は、
フォルダA……y
フォルダB……ax
フォルダC……b
フォルダD……ax^2
フォルダE……bx
フォルダF……c
フォルダG……足し算で答えが出た時の経験。
フォルダH……引き算で答えが出た時の経験。
フォルダI……確か、掛け算もあったような。
フォルダJ……教科書の隅に書いた落書き。
このように、いくつものフォルダが、全て独立した状態で頭の中に現れ、
順序も何もなく、適当な場所にしまわれていた。
そうして問題を解く場合、AからJまでを引っ張り出し、いくつかを適当に組み合わせてみて、答えの出そうなものを選んでノートに書く、という方法で、問題を解いていた。
正解になるはずがない。
しかも恐ろしく時間がかかる。
本人はもう、ものすごく真面目にやっているのだが、
優先順位も何もつけず、全てを独立した、同じ順位の事柄として記憶しているので、
何か考える時には、全てが一度に頭の中に現れることになる。
その中から適当に選んで組み合わせ、正解を探すという作業をしているのだ。
これでは、正解にたどりつくまでに、果てしない忍耐と時間が必要になってしまう。
だが、この努力こそが勉強なのだと思っているので、
新しい問題が出されると、全く同じ手順を繰り返す。そうして、どのように問題を解くのか、手順をどう考えるのか、という事を理解しない。というか、できない。
それを覚えようとすると、新しいフォルダをまた、たくさん作らなければならないからだ。独立させて。
それでも覚えることは、日々増えてゆく。
やがて、増えすぎたフォルダに、どこに何があるのかわからない状態になる。ごちゃごちゃだ。
そうなると、面倒になるのだろう。古いものから消してゆく。
いらないと判断して、忘れるのだ。
この場合、内容で判断するのではなく、年数で判断している。三年以上前に習ったものは、いらないと判断するらしい。きれいに頭から削除してゆく。
そうして新しい記憶を入れる場所を、確保する。
その記憶もまた、各自一個ずつフォルダに入っており、他のフォルダと関連性を持たない。全てが独立した記憶として頭の中に置かれる。
初めて見た時は驚いた。こんな風に記憶する人がいるのかと。
彼女に問題をだして、解き方を説明した時、
途方に暮れた顔で、ぽかんとわたしを見つめていた。
彼女の頭の周囲には、アルファベットの断片が飛びまわっていた……そういう幻影が見えた。
(これを組み合わせて記憶することを、覚えさせないとなのか~……)
最初、ものすごく反発された。自分は今までのやり方で、問題なくやってきたと言われた。
問題ないわけがない。小さな子どもならともかく、その記憶方法では、遠からず破たんする。
習慣を変えようとする時、人間は反発するものだが……。
で、言った。
「今までのやり方でできると君は言ったが。その方法で、今、三時間かかって一問しか解けていない。
しかも間違いだ。
そのやり方では駄目だから、わたしの所に来たのだろう。君のやり方ではだめだ。自覚しろ。
君はいま、幾つだ。
中学三年になってから、わたしの所に来た。十四歳だな。
昔は、十五で大人だと言われた。だから、わたしも君を一人の人間として扱う。
はっきり言う。そのやり方は、何も考えず、ごまかして数字を書いているだけだ。
それを続けていると、数学だけではない。人と付き合う時にも、困ったことがあればごまかして、考えない、適当な事を言って、あとは知らないふりをするというのが、当たり前になるぞ。
そんな人間を信頼する者はいない。
君は最低でも五十は生きるだろう。もっと長生きするかもしれない。
この先の、三十年、四十年以上を。考えない、適当にやる、知らないふりをするで、ずっと生きるつもりか」
あぜんとされた。
まあ、そうだろう。数学やってて、いきなり人生論を言われたのだから。
でも、はっとなり、ここで反発しなければ! みたいな意地みたいなものを、彼女は、めらっと目に燃え上がらせた。
で、言われた。
「数学なんて、人生に何の意味もないじゃない! こんなのやったって、社会でなんの役にも立たないでしょ! どうせ学校出たら、やらないんだから!」
「役に立つよ」(←低音でお読みください)
わたしは思い切り、無表情&キッパリな言い方で、言い切った。
まさかそう言われるとは思わなかったらしく、彼女はぱかん、と口を開け、こちらを凝視した。
「立つよ。
説明してやろう」(←さらに低音、太字、拡大文字でお読みください)
それからわたしの繰り広げた説明を、彼女はだま~って聞いていたが、
そのうちだんだん涙目になってきた。
最終的に、じゃあ、問題解こうか。と言ったら、
とても素直にうなずいて、問題を解いてくれた。
よくわからないが、何かが彼女の中で崩壊し、新しい価値観が生まれたらしい。
しかしこれは、今回の話とは関係ない。段取りについて話を戻す。
数学などでは、小学校の時に習った事が、中学校で新しく習った事の基礎になっていたりする。忘れられると、新しく何かを覚えても、使えない。
これは、段取りを考える、訓練の第一歩なのだ。
自分の考えている事を整理し、異なる物事を結びつけて考える、基本の訓練になるのだ。数学やってると。
数字やアルファベット、公式を組み合わせたり、入れ替えたりする数学は、様々な物事に優先順位をつけ、並べ替え、どの方法が一番良いのか、また一番速いのか、考える訓練にもなる。
またこれは、何かを話す時、相手にわかるように言葉を選ぶ訓練にもなる。
過去に覚えた事を記憶から引っ張り出し、新しく知った事と結びつけて考える、というのは、ある程度の忍耐と繰り返しによる練習なくしては、できない。
数学の練習問題を解くのは、実は、それと同じ手順を踏んでいる。
そうして関連するものを結びつける、という能力は、訓練しないと育たない。
* * *
前述の中学生は、感受性の豊かな女の子だった。
しかし真面目で、段取りができておらず、物事を結びつけて考える訓練もできていなかった。
結果、彼女の世界は、ほとんど単語だけで構成されていた。助詞も助動詞もない。文章もない。
何かあれば、『むかつく』を連発して終わり。
「あ~、むかつく。むかつく。何の意味あるの、こんなことして。むかつく」
初めて来た時はずっと睨みつけられた。二回目に来た時、言われたのがそれだった。
ひたすら怒りをため込んで、コンプレックスで傷ついていた。
で、日記を書かせた。毎日書いたものに返事を書いた。知らない漢字は辞書を引かせて書かせた。
最初、1ページのほとんどがひらがなで、単語を書きなぐっていただけのものが、一か月、二か月すぎると変わってきた。
「嫌な事だけを書くのじゃなくて、うれしかった事を書いてごらん。朝、葉っぱに露が光っていたのを見た? 光が当たると、虹みたいにきらきらするでしょう」
「今日の給食はきらいな物ばかりだった? 好きな物はなかった? あったの。なら、それを書いて。辞書、ここにあるから。その漢字は調べてみて」
基礎の問題ばかりの薄い問題集をやらせ、一冊終わらせて、「終わった」という達成感を持たせてみた。
「一冊終わったね。じゃあ、もう一冊やってみよう。一冊できてしまっているから、今度のは、前より速くできるよ」
数学をおちついて考え、わからない文字は辞書を引き、日記を書くことで自分の気持ちを整理したその子は、
実力を伸ばして、あっさり志望高校に合格した。
数学と日記を書かせていたら、英語の成績も上がっていた。というか、他の科目も、総合的に上がっていたらしい。
うちに来た時は、学校の先生にもさじを投げられていたのだが。まあ良かった。
今思えば、良く言われた通りに日記書いてきたな、あの子。
* * *
段取りの仕方などについては、ビジネス書などでも書かれているので、気になる人はそういう本を探してみると良いだろう。
ネットでも、「夢を実現」とか、「目標の設定の仕方」とか、「仕事の仕方」とか、そういう感じのキーワードで探せば、何か出てくる。
有名なものが、「手帳に次の日のやることリストを六つ、厳選して書いておき、一日の終わりに出来ているものは二重線で消す。できていないものは、次の日のリストのトップに書く。そうして毎日続ける」というものだ。
小さい目標を短期に設定、をちまちま続けるわけであるが、続けていれば、達成感もあるし、達成した目標もかなりな量になる。
最近、わたしもやっている。リストを作ると、何を優先するかをまず考え、実行するにはどう時間を使えば良いかを考えるようになるので、
段取り力が現在、ちょっぴり上がっている気がする。
追記
なんかいろんな会社で、目標達成シートみたいなのに書き込んで、上司に報告、みたいのやっているみたいですね。事務職の人が「何書けば……」と頭を抱えているのが質問箱にありました(^_^;)
追記2
二乗の表現を調べたら、メールなどでは^2と書いて、二乗と読んでください、と但し書きをつけるのが、今は主流みたいです。**をつけるというのもありましたが、これはプログラム言語らしい。上記の内容の二乗の部分を^2に書き直しました。
☆★☆
長い文章になったなあ……。
以下、コメントに対する返信。
段取りは、考えてやってみると、いろいろ面白いですよ。順番を決めることで、ある種の決断力もつきます。
なお、中学二、三年程度の、連立方程式の証明問題をある程度やったら、文章力、上がります。
例題を見ながら、それの真似をして、証明の「型」通りにといてゆく。
これを繰り返す。見ながらでOK。繰り返す。
こうしていると、文章を書く時に、いらない枝葉をやたらくっつけないよう、文をシェイプアップする練習になります。わたし自身も中学時代に実体験しました。書く文章が変わった。
中学生レベルの証明問題の「型」は、マンガでいうなら、4コママンガみたいなものなのだと思います。シンプルで、起承転結があって、いらないもの全部そぎ落とされている。
それに合わせて、語彙を増やしたり、短い、質の良いエッセイを読んで、単語を調べたり、をすると、かなり文章力上がります。
こういうこと考えて、数学解いてみるのも、良いのじゃないかナ。文系の人間の場合。
2012年05月06日




