描くということ。
絵とデザインは、正反対の方向を向いている。
そう言うと、多くの人は首をかしげる。同じだろう、と言う人もいる。似たようなものだろう、と。
しかし、全く違う。絵は、画家本人が何を言いたいのか、自分自身を突き詰めた上で描く。自分に向かうものだ。だから表現されたものが何なのか、人が見てもわからない時がある。
それは画家の、個人的なものの現れだからだ。画家自身の悩みや喜び、一人の人間の生きてきた日々を凝縮したものが、そこでは表現されている。
対してデザインは、その時代の人々の意識を平均化したものを描く。
デザインの場合は、何かを宣伝する為に作られる。だから、多くの人々に好まれなければならない。また、ぱっと見て、それが何であるのか、すぐにわからなければならない。
その結果デザインは、その時代の人々の最も心地よいと感じる形や色、流行の平均となってゆく。さもなければ、宣伝する商品やイベントが何であるのか、わからなくなってしまうのだ。
そこでは個性を出しても良いが、自分を出してはならないというルールがある。デザイナーが自分自身を少しでも出すと、それは個人を表現する作品となってしまい、宣伝するべき商品やイベントを損なってしまうのだ。
絵は、個人に向かうもの。デザインは、その時代を切り取ったもの。そう表現するのが、一番近いかもしれない。
「個人に向かう」絵は、そう考えると、先がないようにも思える。個人的なものの表現に過ぎないのなら、広がりなどなく、そこで終わってしまうのではないか。何にもならないのではないかと、考えたくもなる。
しかし、個人的なものほど、時代を超えるのだ。
現在残る多くの作品は、画家本人が「個人的に」、自分自身の感情や思考を突き詰めて残したものだ。ピカソのゲルニカは、画家本人の、戦争に対する怒りや悲しみ、覚えた痛みを描いたものだし、ダ・ビンチのモナリザも、画家本人の、個人的な思い入れや心情があったからこそ、描かれた。
他にも多くの作品があるが、どれも、突き詰めればとても「個人的な」ものである。
その「個人的な」部分を作品化するには、ひたすら追及し、余計なものを取り除き、中心部分に切り込んで「自分自身を見る」作業を、続けねばならないのだが。
そうして、「個人的な」部分を追及した作品は、見た人に何かを残す。そうして描いた画家本人も預かり知らぬ所で、静かに広がりを持ってゆく。
それは意図せずに、世界に触れることでもある。
だから残る。だから時代を超える。
描くとは、そういうことだ。
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頼まれて、絵に関するエッセイを書きました。上記の文章。絵とデザインの違いについて。
書きあげて渡したら、文章が固いとかきついとか、わかりづらいとか文句言われましたが。
署名もなしで、あいた所にちょっと載せるだけらしいので、あちこち変えられるのではないかと思います。それは良いのですが、絵とデザインの違いを知っている人は、案外少ないのではないかとも思いました。
デザイン勉強した人なら、ほとんどが知っていると思うのですが。向いている方向が、とにかく正反対。違う。
でも、同じようなものだと認識されてしまう。それで「せ○とくん」選考の時みたいな事になるのかな、と。あれ、一般公募じゃなくて、企画した本部かどこかが、自分たちで選んだ「芸術家」にデザイン依頼してるんですよね。デザイン関係者に依頼するべきだったのに。
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デザインの場合、時代の流行を常にリサーチして追い続けなければならないので、その時代を「切り取った」ものとなります。その分、時代が変わると理解されにくくなったりする。
資料として見ると、時代時代の人々の意識や流行、その時代に「当たり前」とされていたもの、などがうかがえるので、面白いものになります。
絵……芸術の場合、作り手が自分の内側に向かって作るので。個人的なものとなる。
けれど、個人は時代と世界につながって存在します。その時代の空気を蓄積し、その上で「個人」がいるわけですから、時として、預言的な作品が産まれたりもする。
ヒトラーは古典的な芸術作品を好み、抽象的なものの多い、現代芸術を攻撃しました。現代芸術の作家たちの多くはドイツを逃げ出して、別の国に亡命しましたが、彼らの作品は、不安や、不安を感じさせるものを表現したものが多かった。あるいは、権威に対して反抗するような表現。あたりまえとされる事へのアンチテーゼ。
ドイツにいた時点で、そういう作品を作っていた。じわじわと戦争に向かう、国の空気を感じ、未来に不安を覚えていたのかもしれません。
そのような作品は、権力者を告発するものともなりかねない。作家本人が意識しなくとも、そうなってしまう作品というのは、あるものです。
ヒトラーが現代芸術をことさら弾圧したのも、意識の底で、そういう事を感じ取っていたのかもしれません。
2010年09月11日




