アリエッティ観てきました。
スタジオジブリの「借りぐらしのアリエッティ」、観て来ました。
……ううう~んんん……。
いや、悪くはない。悪くはないんですが。
何だろう、この、「もう少しがんばりましょう」みたいな意識が残る、終わった時の感覚。
悪くはないんだけどなあ。
なぜか、「これだけ?」と言いたくなってしまうと言う?
つらつらと思い返している内に、気がついた。
空間が出来てない。
宮崎アニメ(駿監督の作品)では、必ず、要所要所にはさまれる、心象をふくめた空間の表現。それがなかった。
千と千尋、での花の乱舞する庭、広がる海。水の空間。
ハウル、での霧の荒野、飛翔する魔術師たちの空。
もののけ姫、での逃げようと走る草原、戦おうとした時の森、荒野。
そこにあるものを見る時、それだけでなく。そこにいて、見ている人の、心象=感情、心の動きまでふくめて、宮崎 駿監督は空間を形作り、表現している。
アリエッティに、それはなかった。
「広い」とか、「大きい」とか言うセリフはあったが、そこに描かれるものは、あくまで常識の範囲内の、日常的にある風景。
アリエッティ自身の感じた心の動き、恐怖や好奇心、などといった感情を交えて見えた風景や、ものの見方ではなかった。
あと、宮崎アニメでは、水の表現が、異世界につながってるんじゃないかと思うぐらい、徹底して美しい。水を通して空に、異次元世界に、すぽーんと抜けて行ってしまえるんじゃないかと思えるほど、透徹で、しんとして、ただそこにあり、全てを飲み込み、在り続ける、そんな「水」が出る。
これもなかった。
川や池は出てきたが、それはあくまで風景の一部としての川であり、池に過ぎず。異世界にひょっこり行けちゃうんじゃないかというような、どーん! とした水がなかった。
残念。
最も、宮崎監督がコンテから何からやっちゃうと、変な現象が起きるのだが。関連商品は売れるけど、原作は売れないという。
多分、監督が原作を素材として、登場人物の心象風景を映像化し、別の世界にまでつきぬけちゃうような、練りこみ、作りこみをするからだろう。それを考えると、アリエッティの作り方は、ある意味「正しい」のかもしれない。
観ている人間は、「もうちょっとなあ……」といいたくなってしまうが。悪くはないんだ。本当に。でも、もうちょっとなあ……。
以前、私は絵について「個人的な」事を突き詰めたようなもの、と書いた事がある。宮崎アニメも同じ部分を持っている。
監督が作るものは、原作を非常に「個人的な」読み方、見方をした作品であり、徹底して「個人的」にこだわって作っている。
だからこそ、時代を超えてしまう。
なぜなら普通、一つの物事を「個人的に」突き詰める作業なんて、人はしない。「それなり」「適当」で、「こんなものだろう」と自分を納得させて流す。
そうしないと、情報量が多すぎて処理しきれなくなる。日常生活に支障が出てしまうのだ。
それを、彼は。風の流れ方、匂い、いろづいて感じられる感覚から、土のかたち、匂い、肌触り、聞こえてくる鳥の声、木々の葉ずれの音、足で大地を踏んだ感覚、風を受けた手、腕、頬の感じ、目にうつる色の変化、心の浮き沈みによって見える色彩の入れ替わり……まで。徹底して記憶して、掘り起こして再構成しようとする。
宮崎監督がやっているのはそういう事で、だから非常に「個人的」であって、同時に「とんでもなく凄まじい」作業なのだ。
だから見ていると、その世界に酔える。
宮崎 駿監督の作品作りは、真似しようとしてもできるものでもないが、とても参考になる。自分自身の作品を作ろうとするときに。
世界を構築するとは、ここまで妥協しない事なのかと、思わせてくれる。
彼に原作を使われる事は、はっきり言って、彼に作品の大切な部分を盗まれる事でもあるのだが。それでも良いや~、だって作った私より良い作品作って見せてくれるんだもん! と言ってしまえるものがある。いや、使われた作家が全員、そう思っているかどうかは知らないが。
でも徹底して自分の作品を突き詰めて、煮詰めて、読み込んでくれて。再構築したものを広げて見せてくれるのだ。悔しいと思う反面、うれしいと思わなければ、作家じゃないだろう。ここまでやってくれたのか! と思わされるはずだ。
いやもう、個人的なもの万歳。
体調を崩されたりしていないかなあ。また絵コンテ切って作品作ってくれないかなあ。
私の小説で、作品作って遊んでもらえないかなあ。
と、思ってしまった。無謀?
2010年09月23日 記事と返信コメントから改稿
宮崎監督の場合、原作はあってもなくても「宮崎さんの作品」になってしまう。ただ、体力がきついだろうなとは思います。今年の夏、無茶苦茶だったし。あれだけ作り込もうとすると、相当な胆力も必要になります。
金銭的な問題もあるし。資金がなければ作れない。アニメ業界、ずっとひどいことになってませんか、今。まともに評価されていない上、報酬も削られているとか聞きますけど。
本人がこれやりたい、というの、できない状況もあるだろうし……ゲドは、宮崎さんにとって、本当に、自分自身の原点みたいなものだったらしいし。それができなかったのも、辛かったとは思いますね。
児童文学系で、宮崎さんの解釈で作ると、どうなるかな、と思っているものはあります。現代のアニメ作家が作るとたぶん、手あかがついたような、ありきたりな解釈の作品になりかねない、でも彼なら別の解釈をしてくれるのではないか、と。
当たり前のものを、当り前に見るのは、難しいんですよ。
常識と言う名の偏見を身につけて、人は大人になってゆくらしいので(BYアインシュタイン)。その偏見を脱ぎ捨てて、そこにあるものをただ、そのままに見る事のできる人は、達人と呼ばれるたぐいの(笑)人になりますね。
宮崎監督の場合、それができている人なので。ごくフツーの作品、当り前の作品を、当り前に、特別にしてくれる。それ、見るのが私、好きなんですよねえ……。
もうちょっと、彼が遊べる状況なら良いな。と、思います。
※「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことを言う」……アルベルト・アインシュタイン




