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ちょっとしたこと。~活動報告あれこれ。  作者: ゆずはらしの
音楽とか絵とか、アニメとか。
32/60

アリエッティ観てきました。

スタジオジブリの「借りぐらしのアリエッティ」、観て来ました。

 ……ううう~んんん……。


 いや、悪くはない。悪くはないんですが。

 何だろう、この、「もう少しがんばりましょう」みたいな意識が残る、終わった時の感覚。

 悪くはないんだけどなあ。

 なぜか、「これだけ?」と言いたくなってしまうと言う?



 つらつらと思い返している内に、気がついた。


 空間が出来てない。


 宮崎アニメ(駿監督の作品)では、必ず、要所要所にはさまれる、心象をふくめた空間の表現。それがなかった。


 千と千尋、での花の乱舞する庭、広がる海。水の空間。

 ハウル、での霧の荒野、飛翔する魔術師たちの空。

 もののけ姫、での逃げようと走る草原、戦おうとした時の森、荒野。


 そこにあるものを見る時、それだけでなく。そこにいて、見ている人の、心象=感情、心の動きまでふくめて、宮崎 駿監督は空間を形作り、表現している。


 アリエッティに、それはなかった。


「広い」とか、「大きい」とか言うセリフはあったが、そこに描かれるものは、あくまで常識の範囲内の、日常的にある風景。


 アリエッティ自身の感じた心の動き、恐怖や好奇心、などといった感情を交えて見えた風景や、ものの見方ではなかった。



 あと、宮崎アニメでは、水の表現が、異世界につながってるんじゃないかと思うぐらい、徹底して美しい。水を通して空に、異次元世界に、すぽーんと抜けて行ってしまえるんじゃないかと思えるほど、透徹で、しんとして、ただそこにあり、全てを飲み込み、在り続ける、そんな「水」が出る。


 これもなかった。


 川や池は出てきたが、それはあくまで風景の一部としての川であり、池に過ぎず。異世界にひょっこり行けちゃうんじゃないかというような、どーん! とした水がなかった。


 残念。


 最も、宮崎監督がコンテから何からやっちゃうと、変な現象が起きるのだが。関連商品は売れるけど、原作は売れないという。


 多分、監督が原作を素材として、登場人物の心象風景を映像化し、別の世界にまでつきぬけちゃうような、練りこみ、作りこみをするからだろう。それを考えると、アリエッティの作り方は、ある意味「正しい」のかもしれない。


 観ている人間は、「もうちょっとなあ……」といいたくなってしまうが。悪くはないんだ。本当に。でも、もうちょっとなあ……。



 以前、私は絵について「個人的な」事を突き詰めたようなもの、と書いた事がある。宮崎アニメも同じ部分を持っている。


 監督が作るものは、原作を非常に「個人的な」読み方、見方をした作品であり、徹底して「個人的」にこだわって作っている。


 だからこそ、時代を超えてしまう。


 なぜなら普通、一つの物事を「個人的に」突き詰める作業なんて、人はしない。「それなり」「適当」で、「こんなものだろう」と自分を納得させて流す。


 そうしないと、情報量が多すぎて処理しきれなくなる。日常生活に支障が出てしまうのだ。


 それを、彼は。風の流れ方、匂い、いろづいて感じられる感覚から、土のかたち、匂い、肌触り、聞こえてくる鳥の声、木々の葉ずれの音、足で大地を踏んだ感覚、風を受けた手、腕、頬の感じ、目にうつる色の変化、心の浮き沈みによって見える色彩の入れ替わり……まで。徹底して記憶して、掘り起こして再構成しようとする。


 宮崎監督がやっているのはそういう事で、だから非常に「個人的」であって、同時に「とんでもなく凄まじい」作業なのだ。


 だから見ていると、その世界に酔える。




 宮崎 駿監督の作品作りは、真似しようとしてもできるものでもないが、とても参考になる。自分自身の作品を作ろうとするときに。

 世界を構築するとは、ここまで妥協しない事なのかと、思わせてくれる。


 彼に原作を使われる事は、はっきり言って、彼に作品の大切な部分を盗まれる事でもあるのだが。それでも良いや~、だって作った私より良い作品作って見せてくれるんだもん! と言ってしまえるものがある。いや、使われた作家が全員、そう思っているかどうかは知らないが。


 でも徹底して自分の作品を突き詰めて、煮詰めて、読み込んでくれて。再構築したものを広げて見せてくれるのだ。悔しいと思う反面、うれしいと思わなければ、作家じゃないだろう。ここまでやってくれたのか! と思わされるはずだ。


 いやもう、個人的なもの万歳。


 体調を崩されたりしていないかなあ。また絵コンテ切って作品作ってくれないかなあ。

 私の小説で、作品作って遊んでもらえないかなあ。


 と、思ってしまった。無謀?



2010年09月23日 記事と返信コメントから改稿




宮崎監督の場合、原作はあってもなくても「宮崎さんの作品」になってしまう。ただ、体力がきついだろうなとは思います。今年の夏、無茶苦茶だったし。あれだけ作り込もうとすると、相当な胆力も必要になります。


金銭的な問題もあるし。資金がなければ作れない。アニメ業界、ずっとひどいことになってませんか、今。まともに評価されていない上、報酬も削られているとか聞きますけど。


本人がこれやりたい、というの、できない状況もあるだろうし……ゲドは、宮崎さんにとって、本当に、自分自身の原点みたいなものだったらしいし。それができなかったのも、辛かったとは思いますね。


児童文学系で、宮崎さんの解釈で作ると、どうなるかな、と思っているものはあります。現代のアニメ作家が作るとたぶん、手あかがついたような、ありきたりな解釈の作品になりかねない、でも彼なら別の解釈をしてくれるのではないか、と。


当たり前のものを、当り前に見るのは、難しいんですよ。


常識と言う名の偏見を身につけて、人は大人になってゆくらしいので(BYアインシュタイン)。その偏見を脱ぎ捨てて、そこにあるものをただ、そのままに見る事のできる人は、達人と呼ばれるたぐいの(笑)人になりますね。


宮崎監督の場合、それができている人なので。ごくフツーの作品、当り前の作品を、当り前に、特別にしてくれる。それ、見るのが私、好きなんですよねえ……。


もうちょっと、彼が遊べる状況なら良いな。と、思います。



※「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことを言う」……アルベルト・アインシュタイン



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