大人の事情
叔母の聡子が訪ねてきた翌日、杏胡からメールが凌の携帯に送られてきた。
〈先生。迷惑かけてごめんね。私、クリニックやめます。いままでありがとうございました〉
ちょっと待て、と凌は思った。こんなメール一通でカタをつけようなんて、いくら杏胡でも、いくらバイトでも社会性がなさすぎる。
〈杏胡、ちゃんと話をしよう。金曜の夜、いつものようにウチへ来なさい〉
命令口調のメールに、せめてもの怒りを込めたつもりだった。
しかし、心配の種は別のところにあった。聡子が結婚したい相手というのは、案の定、杏胡の担任である教師だったのだ。
「不登校の相談に親身になってくださって。親でもないのに、そこまで姪を心配する貴女が、愛おしいと言ってくださって」
聡子は一転、ただの女の顔になって、初対面である凌の前でそうノロけたのだ。
その教師が、杏胡にどんな行為をしたか、聡子は知らないようだった。知らないほうがいい、と凌は思った。いや、杏胡は母の愛人と言った。杏胡の話にも若干の矛盾がある。真相を暴きたいわけではない。ただ、杏胡が心配なだけだ、と凌は自分に言い訊かせた。
しかし。
金曜の夜、0時を過ぎても杏胡は凌のマンションに現れなかった。携帯の電源も切ったままだ。
失敗した、と凌は思った。杏胡の住所を履歴書で確認しておけばよかった。こうなったら、明日にでも杏胡の家を訪ねるしかない。
叔母の聡子には、突然やめるという杏胡の真意を確かめに来たとでも言えばいい。
ああ、明日は土曜日だ。夏菜には少し遅れると、いや明日は都合が悪いと伝えよう。話が拗れるかもしれないから。
杏胡の家は、クリニックから6駅離れたところにあった。建売と思われる2階建の玄関に灯りがついているのを見て、凌はほっと安堵した。
杏胡に会えることを疑わず、凌はインターホンを押した。
「どなた?」
と出てきたのは、40代後半と思われる男だった。安っぽいスウェットの上下姿が、凌の神経を逆撫でする。
「一ノ瀬と言います。杏胡さんの働くクリニックの…」
男の顔が、いきなり愛想良くなり、凌は胸の奥がムカムカした。
「や、これは。先生でしたか。おーい、聡子」
すっかり夫婦気取りである。
聡子がエプロンで手を拭きながら出てくる。所帯じみた様子が、腹立たしいほどよく似合う。
「あら、先生。どうなさったんですか?」
どうなさったはないだろう。
「杏胡さんから、突然、クリニックをやめるという旨のメールをもらったものですから」
凌は憮然とした表情で答えた。
「あ、そうですか」
なぜ、驚きもしないんだ。
「あのう。杏胡はもう、此処にはいないんですけど」
あっさりと告げられた言葉に、凌の方が驚くばかりだった。
「いない?いないって、どういうことですか?」
杏胡は、突然出て行ったのだという。友達か誰かの家にしばらく泊まるから、この家は叔母さんが自由に使っていいよ、と言って。
「そ、それで、探しもしないんですか?」
非難めいた凌の言葉に、聡子は迷惑そうに答えた。
「私たちにだって、大人の事情というものがあるんです」