梅雨の晴れ間の訪問者
杏胡が、再び発熱で休んでいる。ズル休みとは思わないが、心身は決して強くないと思う。
もうすぐ診療が終わる頃になって、16時にあがった木下に替わってその日受付にいた結衣がやってきた。
「先生、お客様です」
お客様?患者ではなく?
「どなた?」
「杏胡さんの保護者だそうです」
驚いて、凌は受付の方を見た。
受付の小窓の先で、軽く会釈する細身で真面目そうな30代位の女性が見えた。母親だろうか?それにしては少し若すぎるような…。
「もうすぐ診療が終わるから、待合室で待っていてもらって」
「はい」
結衣はそういって受付の方へ戻っていった。
何の目的だろう。
凌の心臓は、当然の不安に苛まれ、鼓動を速めた。
「突然すみません。杏胡がお世話になっているのに、これまでご挨拶にも伺わないで」
待合室で待っていた女性はそう言って、深々と頭を下げた。
「あ、いや。杏胡さんの体調はいかがですか?今日は、発熱でお休みということだったけれど」
「はい。大したことはありません。ただ母親に似て、少し躰が弱いものですから」
母親に似て?では、この人は誰だ。
「あの、失礼ですが」
「はい?」
「杏胡さんのお母さんでは?」
目の前の女性の顔が、赤くなった。
「私、杏胡の亡くなった母親の妹です。つまり叔母です」
「し、失礼しました。いや、杏胡さんのお母様にしてはお若いな、と思ったんですが」
慌てて言い繕う凌に、杏胡の叔母だという女性はさらに居心地悪そうにしている。
「あの。待合室で立ち話もなんですから、どこかでお茶でも」
「ご迷惑ではありませんか?」
「いえ。杏胡さんのことを、何も知らずに雇っているのもなんですから」
そう言ってから、何も知らないというのは語弊があるな、と凌は心の中で苦笑いした。
杏胡の叔母は、原田聡子と言った。35歳、凌と一つ違いでまだ独身だった。
クリニック近くのコーヒーショップで、簡単な自己紹介をした後、凌は言った。
「サンドイッチでも頼みますか?お腹、すいてないですか?」
「大丈夫です。でももうすぐ8時ですから、先生は何か召し上がってください」
「いや。僕は大丈夫です」
ウエイトレスに、二人分のコーヒーを注文した。沈黙が流れた。
「ええと」
凌が思い切って口火を切った。
「今日は、何かお話があっていらしたんじゃ?」
「はぁ」
コーヒーが運ばれてきた。
「何から話したらいいか…」
「今日、原田さんが訪ねていらしてることは、杏胡さんはご存知なんですか?」
遠まわしに、凌は探りを入れた。
「杏胡は、杏胡は、私じゃダメなんです」
突然、聡子はそう言った。
「ダメ?ダメってどういうことですか?」
「あの子、変わってるんです。そこはもう、父親そっくりで」
ますます、この家族の関係性がわからない。
「あの。杏胡さんと、杏胡さんのお父様と、原田さんは、いま現在どういうご関係でいるのですか?」
聡子が、きょとんとした顔つきになった。
「先生は、杏胡から何も訊いてらっしゃらないんですか?」
要領の悪い話しぶりに、さすがの凌も苛立ちを覚えた。
聡子の話をまとめるとこうだ。
杏胡の母親は、彼女が高校に入学してすぐに病死した。杏胡の父親は母親の葬儀が済むとほどなくして、海外へ転勤になった。高校へ入学したばかりの杏胡をいきなり海外に連れて行くのも、男手独りで育てるのにも無理があったので、取りあえず都内で働く聡子が面倒を見ることに落ち着いた。杏胡の父親も母親も地方都市の出身だったし、身近で適役は彼女だけだったということらしい。また聡子にすれば、家賃の高い東京で、家賃のいらない姉の一軒家に住み、生活費は杏胡の父親持ちというのは願ってもない条件だった。杏胡が、不登校になるまでは。
そこまで話を整理して、凌は注意深く確認をしてみた。
「杏胡さんの不登校の原因というのは…」
「よくある虐めです」
予想に反して、聡子はさらりと答えた。
「教師による、ですか?」
「え?同級生による虐めだと聞いていますけど」
聡子が怪訝そうにそう答える。
杏胡は、嘘をついていたのだろうか。いや、杏胡の話を自分が勝手に誤解したのだろうか。
「それで。僕に何をしろと?」
凌は単刀直入に切り込んでみた。
聡子の顔が、今度は青ざめる。忙しい人だ、と思った。
「私、結婚したい人がいるんです」