理想の彼女
あの雨の夜以来、決まって金曜の夜は、杏胡が凌の手料理を食べに来るようになった。
杏胡とのセックスは、傷の癒し合いだと思う。繋がっている時間より、舐め合い、抱き合っている時間が長い。
夏菜とのそれは、快楽の追求だと思う。夏菜が達する瞬間の、眉根を寄せた顔が好きだ。喘ぎ声をあげる口を手で封じ、それでも漏れ聞こえることに征服欲が満たされる。キャリアという鎧を着た夏菜は、裸になると意外にも支配を好むタイプだった。
土曜日、診療を終えると凌はいつものように夏菜のマンションへ向かった。
凌とつき合うようになって、夏菜は自分の仕事先からも、クリニックからもアクセスのいい場所にマンションを借りた。夏菜の実家は横浜にあり、父親は一部上場企業の取締役だ。母親は音楽大出で、いまも自宅でピアノ教室を営んでいる。夏菜は幼い頃から育ちも頭も良く、大学卒業後は父のコネに頼ることなく、中堅外資系企業に就職した。つまり自立心も持ち合わせた、お嬢様ということだ。大学時代は準ミスキャンパスに選ばれたこともある才媛で、杏胡でなくとも理想的な彼女と誰もが言うだろう。
理想的?理想的すぎるさ。
そういう夏菜がなぜ、たかだか地方都市の名士の愛人の子である自分を選んだのか、凌にはさっぱりわからない。男として容姿はいたって人並みの域を超えてはいないし、将来のパートナーとしてのブランド力から言っても、ほかにもっと最適な男を見つけられるだろう。
いつものように堂々巡りする思いを抱えたまま、凌は瀟洒な夏菜のマンションのインターホンを押した。
「おかえりなさ~い」
エプロン姿の夏菜が、まるで新妻のように抱きついてくる。そんな行動も不可思議だ。女というのは勘がいい生き物だ。自分と杏胡の関係に変化が生じたことを、夏菜が気づかないはずがない。
それなのに、なぜいつも通り、いやいつも以上に迎え入れてくれるのだ。
「今日はね。白身魚のアクアパッツァにしたの。サラダはトマトとモツレラのカプレーゼ。ブルスケッタは、きのこのマリネと生ハムの2種類にしたんだけど、いいかしら?」
「うん。おいしそうだね。白ワインを買ってきたよ」
「ありがとう」
白ワインは、赤と違って程よく冷やしたほうが旨い。
「ワインクーラーはどこだっけ?」
「その棚の一番下」
陶製のワインクーラーを見つけて、凌は冷凍室から氷を出し、それに入れた。買ってきた白ワインをがしゃりと突っ込む。
それからキッチンに立つ夏菜の後ろに立った。
「手伝うよ」
「あん。大丈夫。音楽でも聴いていて。シャワーを浴びてきてもいいわ」
1年半のつき合いが過ぎても、夏菜は凌が料理好きだということを知らない。自分が愛人の子であることも。杏胡とのことは気づいているはずなのに、と思いながら凌はシャワーを浴びにバスルームへ行った。
その夜、ベッドの中でも夏菜は、何も聞かなかった。
「ベッドの中では文句や正論を言う女より、快楽の喘ぎ声をあげる女のほうが上等だ」
豪一郎の言葉をまた思い出しながら、悲しいくらい理想の彼女だと凌は思った。
母はどうなのだろう。不謹慎にもそんなことを思った。