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第三章 『心象世界』
べつに規則正しい生活を心がけているわけではないが、勇者になってから朝に強くなった気がする。前までは部活で朝早く出かけていく妹に起こされても二度寝してしまう俺だったけど、異世界から帰って来た今ではきちんと目が覚めるようになっている。
なのでここ十日間で俺が遅刻するなんてことは一度もないのだが、それが災いしたせいで生活指導の富樫教諭に胡散臭い目で見られるように変わった。さらに富樫教諭はガンまでかけてくるので、俺は誇らしげにしておく。もう鋭角に唾を飛ばすアンタの説教は聞けることはなさそうだぜ。ああ、残念だな。嘘だけど。
まあそんな事情はともかくとして、俺たちが現代へ戻ってきてから十日が経過した。
俺とユウコのそれぞれの『核』は未だに猛威を振るい続け、今では学校中に勇者と魔王として認識されている。もちろん勇者と魔王に乗っ取った『核』の行動様式をフォーマットとしているから、俺たちは完璧なまでのトラブルメーカーとしての地位を確立してしまった。
ついでに俺とユウコを見守っている神様だが、違和感なく転入生として学校に馴染んでいるのだからもうめちゃくちゃだ。神様はクラスからのマスコット扱いに満足していて、解決策を見いだしやしない。否、必死には探しているのは解るんだけど、依然として見つからない。
「お兄ちゃーん。私もう行くからね」
「おう。危ない人に着いていくなよ」
「大丈夫だって。私はお兄ちゃん一筋だから心配いらないって」
そのセリフには脈略がないぞ。そもそも脈略を無視する奴だったが。
「そんなことないよ。みゃくりりゃくあるもん」
「おい。今、噛んだぞ」
「か、神真下!」
「はっ?」
「神様が真下にいるよっ」
「なんと伝わりにくいダジャレかっ!?」
しかも、伝わらなかったせいか言い直したし。
「てか、怖いから止めてくれ」
前にお腹がすいたと言って、拙い料理を作っている俺の股下からにょっきと現れたことがあった。あの時はかなりびっくりしたもので、危うく包丁を落としそうになって大惨事になりかけた。とんだ災難だったと、今思い出しても胆を冷やしてしまう。
「あははー。てか、それよりも遅刻しないでね。ってこのセリフはいらなくなったんだっけ」
「そうだぜ。今や俺は遅刻しない記録を更新しているからな」
「そっか。じゃあ、バイバーイ」
妹がドアの先で手を振って見えなくなる。と思ったら、またひょっこりと顔を出してきた。
「そうだお兄ちゃん。言い忘れていたことがあった」
「なんだ?」
「私、踏み台昇降体操の進化バージョンを見つけちゃった。だからさ、今日の夜に早速試してみようよ」
いや、そんなことをわくわくした調子で言われても、こっちはちっともときめかないんだが。
「あのな、わざわざ戻ってきてそこまでどうでもいいことを言う奴がいるか?」
「どうでもいいだなんて。私にとっては大事なことなんだよ」
踏み台昇降のやつ、ゴミに出そうかな。ゴミに出せばへんな懊悩に悩まされることもない。
「お兄ちゃんはそこのところわかってるの? とっても大事なんだって」
「そーですか」
「返事が棒読みすぎだよっ。お兄ちゃんひどいなっ」
結局、妹はぷんすかして出ていった。
俺は朝から妹の相手をするのは楽しいが疲れると思いながらも、丹念に身体をほぐしていく。
前まではここでひと眠りして惰眠を貪ってしまうところだったが、新しく進化した俺は一味も二味も違う。
妹の部屋で寝てるお姫様の麗しき寝顔を見たり、手間暇かけてコーヒーや紅茶や朝食を作ったり、当たりもしない占い情報を見たりと優雅に朝の時間を有効活用している。
そして最近の楽しみの一つにこれが加わった。
「起きろ、神様」
それはこのところすっかり寝ぼすけになってしまった神様を時間ギリギリで叩き起こすことだ。
いつも通りに居間のソファーでいぎたなく寝ている神様に向かって、ムーンサルトプレス辺りを遠慮なくかける。
「ウッ!」
「ウッ?」
「ウガゲボァ!」
「このタイミングで中二の時に山原が側溝へ落ちた時の悲鳴かよっ!」
この悲鳴はマイナーではなくメジャーだったのか。などと腕を組んで感慨深げになるけど。
「く、楠本さんっ。何するんですかっ?」
神様は涙目で抗議してくるが、俺はにやりと笑いながら地獄の使者のように残酷な顔をして告げる。
「四十秒で支度しな」
俺がこのセリフを放つと、神様は時計を見つめながら絶望的な表情に変わっていく。
「もうこんな時間なんて。なんでもっと早く起こしてくれなかったんですかぁ、楠本さん。朝ご飯が食べられないですよっ」
滂沱のごとく涙を流して抗議してくるが、俺が支度できるギリギリの時間に起こして楽しんでいるんだから仕方がない。
「楠本さんは悪魔です」
「勇者だぞ」
「悪魔の勇者ですね」
「そのネーミングはいいな。神様はセンスあるぞ」
「えへへ。って、ごまかされている気がしたり」
「お、気づいたか」
ともあれ、神様には勇者の『核』の影響が行使されないみたいから、楠本ヒサタカという素の姿でいられる。神様に対してはいきなり助太刀や説教したくなったりすることもないし、ハーレム機能も効果を為さないから構えることも全くない。原因を作った張本人なのでまことに不本意であるものの、俺にとっては貴重な存在となりつつあった。
「にしても、『核』の脅威は一向に収まらないよな」
「そうですね。もぐもぐ」
聞いているのか聞いていないのか解らない神様が急いで朝食を頬張っているのを見て、ついでだからと俺は妹の部屋にいるお姫様を呼びにいく。
お姫様は高貴な身分のお方なので、下着姿で寝ている可能性を確実に考慮しなくてはならない。過去の経験則から踏まえても、その辺は細心の注意を払わないとまた地雷を踏むことになる。
「お姫様、起きてるか?」
聞いてみても返事はない。
寝ているのかと思い、もう少し大きな声で同じことを問いかけてみるとお姫様の返答があった。
「ヒサタカ。私は起きてるわ」
心なしかお姫様の声も大きい。
「そっか。起きてるか。一応聞くけど、今、着替えの最中ではないよな」
「ええ」
「だったら入るぞ」
寝ているわけでもなく着替えの最中でない。
ならばとりあえずは大丈夫だと思い、俺はゆっくりとドアを開けていく。
いつもしているように妹の部屋の換気をして、そのついでにあの踏み台昇降を隠しておくのもいいかもしれない。ゴミに捨てるよりもはるかに建設的でまともな提案だ。などと考えていたところで、予想だにしない光景が広がっていたので唖然とする。
そこにあるのはとんでもないパラダイス。涅槃とシャングリラとかその辺の単語が当てはまるのか解らないけど、間違いなく最上級のスペシャルな空間。
あのスタイル抜群のお姫様がヘッドフォンをして下着姿で踊っている。いや、音楽に合わせて飛び跳ねている。豊かな胸元が上下に躍動していて、みんなでプールに行った時よりもさらに動きが激しく扇情的だ。とにもかくにも清楚な白い下着。胸、胸、胸。ダイナマイトボディーがこちらを誘惑してやまない。
「ちょっと待て。俺、凝視しすぎだからっ!」
おもわず自分自身へのツッコミを入れてしまうくらいにガン見をしていた。
紳士然とした姿からは程遠い状況で、とがめる人がいなかったことには心底ほっとしてしまうくらいだ。
お姫様は横を向いて踊っていたため、俺が大声を上げて一人ツッコミをしていたところでようやく気がついた。
「おはよう。ヒサタカ」
普通にあいさつをされても対応に困るし、どこに視線をやっていいか解らない。意識しなくても自然と視線が吸い寄せられてしまいそうである。
「ていうか、まずは服を着てくれ。な」
「え? どうして?」
お姫様は平然とした調子で言い切った。あまりにも自然すぎてこっちがおかしなことを言っているみたいだ。
「どうしても何もない。問答無用だ」
「でも、パンクロックとはこういうふうに聞くものではないの?」
「いやいや、どうしてそうなる」
お姫様による新しい音楽試聴のスタイルの確立だった。ていうか、そんなスタイルがまかり通ったら大変なことになるな。世の中はパンクロックであふれかえるぞ。
「とにかく、服を着てくれ」
「服、着ないとだめなの?」
「ああ、だめだ。服は着ないといけない。服は必要だ」
俺はしつこいくらいに念押しする。
「わかったわ。それがヒサタカのお願いなら」
そしてお姫様はいそいそと服を着始める。
着替えの様子もお姫様らしく華麗で、通常は女の子の着替えなど見てはいけないのに目が離せない。
「落ち着け、俺。こういうシチュエーションは異世界でもっとあったはずだ。異世界では下着姿のお姫様とせまいベッドで一緒に寝たこともあったじゃないかっ」
「そういえば、ヒサタカ」
おみ足を伸ばしてジーンズをくいっと上げる姿勢でお姫様が口を開く。
「な、何? お姫様」
俺は動揺を悟られないようにできるだけ平静を努めてみる。が、あまりうまくはいかなかった。ドンマイだ。
「私はね、もっとこの世界にあまねく知れ渡っている愛と平和について調べなくてはいけないの。それを啓蒙した音楽を教えてくれない?」
「そうか」
「そうよ。これが後にヒサタカたちの役に立つかもしれないわ」
ラブアンドピース。模範的なキャッチフレーズである。
「オーケー。わかった。できるだけ期待に応えるようにするからな。探しとく」
「ほんと? ありがとうヒサタカ。大好き」
不意打ちの反則技。ここで登場かよ。
「大好きだから」
「ああ、おう」
絶世の美女に面と向かって大好きと告げられるのが照れくさかったせいか、俺はそっぽを向いてぎこちなく答えてしまった。しかし、かわいいことこの上ない。ぜったいに国が傾くね。などと朝っぱらから呑気に考えている俺だった。
好奇心旺盛なお姫様は異世界間での文明の違いにもうまく適応しているもので、本能だけで行動していて何も考えてなさそうな神様とは違い意外と日々の生活もクリアーにこなしている。アグレッシブではあるが慎重派の側面も備わっているお姫様は、神様みたいに人気取りを狙い学校へ来て俺たちの基盤となる生活に迷惑をかけることもない。
魔法の鏡の追跡機能でここに来たのは突飛な行動だとしても、ここ十日間のお姫様を見れば色気以外で困らせられることはなかった。
お姫様もお姫様なりに今の俺とユウコの状況を解決しようと苦心したりしているけど、そのアプローチの仕方が常人には理解しがたい範疇にあるといってもいい。異世界人ならではの発想力と言ってしまえばそれまでなのだが、とにもかくにもやることが突飛で突発的である。
事実、この十日間でお姫様の発想による『核』の取り除き方法をたくさん試してもらったが、俺たちにとっては人体実験にあっているかのようだった。そう、人体実験。この言葉が一番適切だろう。思い出したくもない方法ばかりだったぜ。
こんなふうにお姫様は俺たちに協力をするのはやぶさかでない姿勢を見せてくれていたのだが、その一方でしっかりとした異世界での生活計画を立てているらしい。
俺にはその計画の一端ですら窺い知ることはできないが、お姫様がそんなことをぽつりと漏らしていたのは記憶している。
要するにお姫様の腹には一物あるということだ。
たでに一国のお姫様をしているわけではない。
「なあ、神様。オマエもお姫様までとはいかないが、少しは模範的な生活を送ったらどうだ?」
妹の部屋から急いで避難した俺は、短い朝食時間であれもこれも詰め込もうとする神様に問いかける。
「えっと、模範的な生活ですか?」
神様がもぐもぐと頬張りながらようやく振り向く。
「そうだよ。オマエにはその自覚が全然足りない」
「そうですかね」
「ああ」
「私には十分できていると思いますが」
神様が不思議そうに首をかしげている。だめだね、こりゃ。やっぱり神様は神様だ。
「とはいうが、オマエは食べることと寝ることにしか意識がいかないように見えるのだが」
「はうっ! 楠本さんの言うことに反論できなかったり」
俺とユウコが異世界から帰還してすでに十日が経つが、神様のぐうたら具合にはかなり磨きがかかっている。それはもう特殊な研磨剤でも使ったのかと思うくらいで、こちらとしてはただあきれるばかりである。もしかしたら今の生活の居心地の良さに慣れてしまったのかもしれない。
「とにかく、神様は神様なりにこの世界でうまくやっているというわけか」
「はいっ。私は神様なのでそれくらいできて当たり前ですよ。とくに神様の中で私は処世術には長けてますからっ」
おい、冗談はほどほどにしてくれ。処世術のかけらも感じられないぞ。
「ともあれ、ここの世界のみなさんは私にしっかりとお供えをしてくれるので最高ですね」
いや、それは違うぞ。クラスメイトは小さな子どもにお菓子をあげたくなるだけだし。
「まあ、それはいいけどさ」
俺は観念したように口を開く。
「オマエがここにいる理由を忘れてもらっては困るぜ。いいか、物事にはプライオリティーというのがある。そして今回のプライオリティーは俺とユウコがいまだに『核』に悩まされているということ。しかもその『核』の影響は段々と強くなってきているんだから問題なわけだ」
「はいっ」
神様が悔しそうに唇を噛んだ。
「その『核』についてはいまだに解明できないでいたり。本当に申し訳ないです」
つまるところ、全くもって原因究明には至らない。
俺は勇者という立場だから日常が騒がしくなるくらいで問題はないが、魔王であるユウコにとってはたまったもんじゃないだろう。
事態はわりと切迫していて、このままだと収拾がつかなくなる可能性すらある。前に先の悪い状況ばかりを考えていても仕方がないと思っていたが、そういう可能性も視野に入れなくてはならないところまで来ているのは確実だ。
段々と悪に身をやつしていく幼馴染に、ただ指をくわえて見ているだけの俺。
そんな状況にはぜったいになりたくなかったし、必ず避けなければならない出来事である。
「神様。もしこれから先、こういう状況がずっと続くならばどうすればいいんだろうな。俺はユウコが心配だよ」
「私も稲葉さんが心配です」
「そうだよな」
神様が朝ご飯を食べ終えて、俺たちは学校に行く用意を整える。異世界から帰還した後は、ユウコの強い要望により道すがらで合流をする決め事ができた。つまり、朝は三人で一緒に学校へ通うということである。これも遅刻がなくなった一つの遠因なのかもしれない。もっとも大事なのはそのことではないが。
「やはり現状ではどうにもならないです。私も神様にしかできないスペシャルなことをいくつか施してみましたが全く効果がなかったり」
神様が普通の口調で大事なことを言い出した。
「てか、そんなことをしてくれたのかよ」
「あっ、はい」
「だったら、さっきはなじってすまなかったな」
「いえ、それもまた真実ですから」
「そうか。それも真実か」
俺は独り言のようにつぶやく。
「楠本さん?」
「なあ、神様。俺のくだらない戯言を聞いてくれるか?」
「えっ?」
いきなりの俺の宣言に驚く神様だったが、落ち着いた後は先を促してくる。
「その続き、私に聞かせてください。楠本さん」
「ああ、解った」
そして俺はゆっくりと話しはじめる。
「あのな、神様」
「はい」
「ここまで真剣に悩んどいてアレだけどさ、俺は心のどこかではこんなことを思ったりしているんだ。それはこの今の状況から鑑みても俺たちの置かれている状況は前途多難で間違いないんだけど、でも、物事というのはやっぱり為るようにしか為らない気がするんだよ。
たとえば勇者が魔王に倒されるのが真実であったように、大切な物事というのはどこかですべて決まっていて――だからこそ適宜な時にしっかりとした行動すればいい気がしてやまないんだ。
つまり、俺たちはそのタイミングを逃さないようにそれだけを気をつける。そして後は、アドリブの出たとこ勝負だと。……俺はさ、心の一番深いところではそう思うんだ。こんなに甘くないのかもしれないけどな」
神様は俺の言葉を聞いても何も言わずに黙っている。
俺の説明が回りくどかったせいか、自分なりに噛み砕いているのかもしれない。
「だからさ、そのタイミングが来るまでは今までと変わらずに明るく楽しく過ごしていくべき、という結論に落ち着くわけだよ。結局は」
俺は頭をポリポリかきながら、一番言いたかったことを神様に伝えた。
事態は切迫しているかもしれないが、そんなことは知ったこちゃないという寛容な心のゆとりを持つべきなのだ。
「……」
にしても、こんなことを大真面目に語りたがるなんて、きっと勇者の『核』の影響が出ているに違いない。とんだ災難だぜ、全く。
「そうですか。楠本さんはそんなことを考えていたんですか」
「ああ、そうだよ」
「楠本さん。言ってしまえば、それは運命を委ねるということですね」
「そうか。運命を委ねるか。いい表現だな。やっぱり俺はそれでいいと思うぜ。それまでにしっかりと心構えだけはもって置かなくてはいけないけどな」
「そうですよね。それは大切だったり」
神様が笑顔で了承してくる。
俺のありきたりの日常を破壊した張本人でもあり迷惑もたくさんこうむっているのだが、神様に肯定されると自分の考えに確信が持てるのは不思議だ。きっと根っこのところでは神様に対する信頼を持っているせいだろう。まあ、そんなことはぜったいに言わないけど。
「この考えはユウコに伝えなといけないな。いつもどおりくだらないことを言って、ユウコの心配を取り除いてやるんだ」
「そうですねっ」
神様がこくりとうなずく。
外に出ると灼熱の太陽が容赦なく照りつけてくるのは夏であるから当然なのだが、『冷却』の簡易魔法を使いこなせる俺にとっては全くもってなんでもない。暑ければ『冷却』を使い、寒ければ『温暖』を使えばいい。
日々の生活に即している簡易魔法は人類の叡智でもある科学を完全に上回るといってもいいだろう。歩く冷房なんてもの存在しないんだからな。
ただ、暑いとか寒いとかいうよりももっと大変なことがあって、それはもちろん俺とユウコに備わっている『核』で間違いないといえてしまう。
そう、勇者と魔王の行動様式に乗っ取らせる『核』は俺たちの平穏な生活を見事に一変させた。
勇者である俺にはどんな悪行をも見逃さない正義を振りかざせさせたり、局地的におこる喧嘩や争いごとの仲裁させたり、たくさんの女の子に告白されたりと喧騒の日々を次から次へと与えてくれる。
その中でも一番の問題なのは女の子に好かれるというハーレム機能なのだが、『核』が効力を発揮している最中はどんな女の子も顔を赤らめていそいそと俺に告白してくるもんだからこっちは身が持たなくて困っている。どの女の子も決死の覚悟を身に秘めてやってくるので、それを断るのにものすごいエネルギーを消費するのだ。
対する魔王も同じで、道往く人々を大いに扇動してありとあらゆる悪の道へ進むように促したり、目には見えないほどのキズを車にこしらえるという地味なイタズラを決行したりと喧騒の日々は変わらない。
このように喧騒に身をやつした俺たちの日々を振り返ってみると『核』の効力は初期と全く変わっていないように思えるのだが、問題なのは範囲が大きくなったり頻度が増えたりしていることであった。
それと一度、魔王の『核』の効力が暴発して、ユウコが大規模な魔術結界をこしらえたのは問題だといえる。勇者の俺が近くにいたおかげですぐにそれを打ち消せて大事には至らなかったが、今までのパターンと明らかに違っていた。あの魔術結界は何だったのだろうかといまだに思う。
「……」
やはり魔王の『核』はどういう影響を及ぼすか解らない。
解らないからこそ、俺はこんなにも恐れている。
勇者と魔王。空想の産物であった存在のはずが実効力を伴って俺とユウコの内側に顕現された。それも異世界だけに飽き足らずこちらの世界まで。まさに神のイタズラだ。
けど、どうして勇者や魔王としての力が『核』として残って実効化されるのだろうか。
不思議だ。考えれば考えるほど不思議だ。俺たちのしたことは異世界で役割をこなしてきただけ。これが身に余る行為をした代償だというのか? ならあんまりだぜ。俺とユウコは神様に頼まれて異世界をとんぼ返りしてきただけなんだ。
いや、もはやそんなことはどうでもいい。俺たちのささやかな日常を返してくれ。俺と妹と幼馴染と友人と慎ましく暮らす平穏な日常を。などと叫んでも意味のないこととは気づいているけどね。
結局はこの自分の手でつかみとるしかないんだ。そしてそれはユウコではなくて俺の役目。昔から相場が決まっているさ。女ではなく男だと。
だから俺は待っているぜ。適宜なタイミングが来るのを。そうすべき行動を起こす大事な時を。
「ユウコ?」
登校中、隣を歩いていたユウコが右手で左腕を抑えている。
「どうした?」
と、俺は聞く。
「どうしたのですか? 稲葉さん」
と、神様も追随して聞く。
しかし、ユウコは表情豊かに首を振る。
この十日間、ユウコは気丈さを崩さず、そして無表情系幼馴染の面目もなく日々を過ごしてきた。
ユウコが無表情ではなくなってから十日が経つが、俺にとっては逆にどこか寂しい。感情を表してくれるのはいつものユウコと違う。なので、大切な何かを失ってしまったような寂寥感に襲われる。それは宙に向かって手を伸ばすようなもので、届かない何かを懸命に欲してしまう滑稽な感じだ。
「ユウコ?」
「この左手がヒサタカにくっつきたいっていう」
冗談である。てか、なんだそれ。
「そうかい。ということは、さっきみたいにへんなことは起こらないわけね」
「うん」
先ほどは横断歩道の白線を削るという地味なイタズラをやっていた。こんなのはかわいいものであるが。
「とにかく、今日と明日を乗り切れば夏休みがやってくる。夏休みになれば、学校に拘束もされないから少しは楽になるだろうな」
夏休みというのは学生にとって甘美な報酬そのものだが、今の俺たちにとっては安穏とした休息である。
とはいえ、夏休みに限らず自主的に学校を休む相談はしてきた。でも、それは適切じゃないような気がしたのだ。
もちろんものすごい問題がクラスメイトや学校関係者に起こりえる可能性を感じた場合には、俺とユウコはしばらく休養を取るつもりであるが。
「そうそうユウコ。夏休みは朝早く起きることもないからさ、わざわざ朝ご飯の分まで作らなくていいぞ。ユウコが大変だからな」
神様が口をあんぐりあけて唖然とした表情でこっちを見ている。おいしい朝ごはんが食べられなくなるのがそんなに残念か。どうせ起こさなければ寝ているくせに。
「私、作るけど」
「だってそれじゃあ大変だろ。ただでさえ夕飯で世話になっているし」
今、家にはお姫様と神様が同居しているため、ユウコが夕飯を作りにくる回数も格段と増えた。毎日とまではいかないが二日に一回というところまで来ているし、しかも朝ご飯まで作っていってくれるのだから大変だ。
「大丈夫」
「そうなのか?」
「ん」
「く、楠本さんっ。ここは稲葉さんのご厚意にあずかりましょうっ」
神様が真剣な声色で訴えてくる。
神様にとってはかなりの死活問題なんだろう。
「ヒサタカ。私の料理おいしくない?」
ユウコに上目使いで見つめられる。
「そ、そんなことないぞ。おいしいに決まっているじゃないか」
「なら、私作ってきていい?」
俺としてはユウコに余計な負担をかけたくなかったけど、ここで断ると一気に機嫌を損ねるような雰囲気が出来上がっていた。
「わかった。じゃあ夏休みになっても変わらずにお願いしていいか?」
「いいよ」
「ありがとうございますっ。稲葉さん。私、稲葉さんの料理が大好きだったり」
「ありがとう」
ユウコが嬉しそうに微笑む。
「私、稲葉さんの料理のためなら、どんなささいなことでもお役にたちますから。私の存在が必要になったら『神様』と心の中で念じてくださいね。私、すっ飛んで行きますので。もちろん魔王保険もまだ有効ですしね」
「ん。わかった」
ユウコがうなずく。
「ユウコ。俺からもお礼を言わせてくれ。ありがとう」
「うん。それに今は魔王だからできるだけヒサタカと神様の近くにいた方がいいし」
「そうだな。それは今まで通りに変わりなくやってくれ。学校でも放課後でも。あ、後、家に帰ってからは『核』の問題は起こさないように出来ているか?」
「大丈夫、問題ない」
「そうか」
「ん」
ユウコが俺たちと一緒にいない時の対処法は、とにかく意識のある時間を少なくすることである。なので、ユウコにとっての今の稲葉家は眠るだけの場所になっている。
これはユウコにとってあまりいいこととはいえないのだが、それ以外の対処法が現状のところでは存在しない。あるとしても俺たちの家に泊まり続けるという高校生には非現実なプランだけだ。
「ヒサタカ」
俺が難しい顔をして考え込んでいたせいか、ユウコはやけに明るい声で呼んでくる。
「今日は何が食べたい?」
「それって夕食のことか?」
「そう。夕食」
「俺はなんでもいいんだけどな。ユウコの料理は何でもおいしいからさ。てか、いつもそんなことは聞かないけどどうしたんだ?」
「それはなんとなく」
「なんとなくか」
ユウコが料理の希望を聞くことはなかったから驚いてしまった。
今までも俺と妹は料理に関しての口出しを一切しなかったし、ユウコも無表情の無口で淡々と作ってくれた。もちろん何を出されても信じられないくらいおいしいものだ。
「後、こういう会話をしてみたかった」
「おう、そうか」
なんだか今の会話を思い返してみると恥ずかしい気がする。俺が意識しすぎなのかもしれないが。
「あ、神様のこと忘れてた」
「俺もだ」
俺とユウコは話に興じすぎていて神様の存在をすっかり忘れていたのだが、当の本人は全く気にしていなかった。心の声がダダ漏れで嬉しそうにつぶやいている。
「稲葉さん、私にはいつ聞いてくれるのかなっ。私、なんて答えようかなっ。ブリ大根にしようかなっ。切り干し大根にしようかなっ」
神様のチョイスが渋いぜ。ていうかそこまで大根が好きだったのかよ。
神様の希望も無視するわけにいかないという優しさからか、ユウコが声をかけてあげている。
「神様、大根料理がいいの?」
「え? なんでわかったんですか?」
神様が目を真ん丸にして驚く。
「わ、私以外にも心を読む力を使える人がいたなんて。これが魔王の実力なんですね」
それはボケなのか天然なのか。区別できないところが末恐ろしい。
「とにかくオマエは大根料理がいいんだな」
ほうっておくといつまでたっても戻ってこなさそうなので、俺がむりやり話を戻しておく。
「はい、そうだったり。私は大根を口いっぱいに頬張ってもきゅもきゅしたいです」
「そう。わかった。大根にする」
「え? ホントにいいんですか?」
「いいよ、神様」
ユウコが了承すると、神様が小躍りして喜びだした。まるでアニメのキャラクターみたいに派手なジャンプを繰り返している。
「やったぁー。やったですよ。わーい」
俺とユウコはそれを見て、ただ微笑ましく思うのだった。