プロローグ
七夕みたいな行事を心の底から楽しんでいたのは一体どれくらい前になったのかと一瞬だけ脳裏をよぎった俺なのだが、それでも最近見た駅前の短冊に書かれていた願い事が世界一タフな十五歳になりたいというどこかの有名な小説から借用してきたような内容であったのでおもわず笑いが込み上げてきた。
ホントのところ、そいつは何を願っているんだろうかと思わなくもないが、織姫と彦星の久しぶりの再会とか笹の木の前で抱き合うカップルとかよりもロマンを感じてしまうのは俺がそこに大切な何かを見出したからなんだろう。
かといって、それが何かは明確には解らない。
そう、人生と同じでなんでも明確にはいかない。
けど、やけに心に引っかかるものってあるだろ?
なぜか心の奥底をとらえて離さない衝動めいたものというのはいつまでも残っていて、そして消滅することもなくずっと居座り続けているんだ。不思議だな。不思議だけどさ、その感覚っていうのはとても大切で忘れ難いものだと本能的に理解してしまっているわけだ。
例えば、俺が心の底から軽蔑している腐れ縁でロリコンでうちの妹狙いの飯倉が言い放った言葉なんかがそれに当たったりするのだが、奴はハーフパンツの機能的素晴らしさと帰巣本能に回帰するお医者さんごっこの関連性を的確に論じてくれやがった。
本来関連性なんてどこにもないのにな。しかし残念なことに、その類い稀なる理論をトンデモ展開された俺はなすすべもなく心に引っかかるものとして残ってしまったわけである。残念なことにさ。
とまあ一応こんな例だけではアレなので、心に引っかかるものを昔の偉い人の名言から拝借するならば、おもしろきこともなき世をおもしろくという言葉がある。この言葉を拡大解釈すると、おそらく当たり前にある日常こそがいかに素晴らしくてかけがえのないものだという教訓なんだろう。
いや、都合よく解釈しすぎだな。
ホントは人生楽しくするのも自分の心持ち次第という意味に違いない。などと思ったところで、それも定かではないと気がついたね。
そもそもその偉い人がどういう状況下で発した言葉かも解らないし、他人の真意を汲み取るなんてことは不可能だといえよう。それこそこれが辞世の句ならば、俺には想像も追いつかないくらいに状況が変わってくるしな。
ともあれ、結論を言ってしまえばいい。
世界はいかようにでも変わるということだ。
世界は美しくもあり醜くもある。
世界は美しくもなく醜くもない。
こんな二律背反を抱えているのが世界。
しかし特定の観点に立って考えてみれば、世界とは原子とか中性子とかその他諸々のナントカ子が配列と密度を異なえて流動しているに過ぎないともいえる。
なので俺たちはそれをぼんやりと眺めて、ただの現象世界に付随する意味や価値判断、あるいは意図もない無為自然なものに真っ当な理由を付けていくだけなのかもしれない。そこに明確な理由なんて一つも必要ないのにさ。
そしてその考えは、どの場所に立っていても変わらないのではないかとひそかに思う。
そうだな。俺と幼馴染が高次元的な存在である神様によって異世界に飛ばされたり、不思議な心象世界に囚われたりしても同じだろうな。