第四章 春を知る心 第四部 春の答え
カラン、と小さな鐘が鳴った。
ラナンが顔を上げると、白髪の老婆が工房の入口に立っていた。
「すまないね。修理を頼みたいものがあって」
老婆が大切そうに抱えていた布包みを、作業台へ置く。
包みの中から現れたのは、小さな木箱だった。
古い箱だった。木の表面には細かな傷が刻まれ、長い年月を過ごしてきたことが分かる。
けれど、蓋の中央に彫られた白い花だけは、不思議なほど鮮やかに残っていた。
ラナンはそっと指を這わせる。
傷んだ蝶番。わずかな歪み。何度も開け閉めされてきた跡。
それは壊れた証ではなく、誰かが大切に使ってきた証だった。
「直せる。」
短い言葉。
老婆はほっと息を吐いた。
「ありがとう。」
ラナンは木箱を作業台へ置いた。そして、いつものように工具を手に取る。
金具を外す。古くなった部分を整える。
新しいものに取り替えるのではなく、残せるものは残す。
この箱が過ごしてきた時間まで、削り落とさないように。
作業の途中。老婆がぽつりと言った。
「その箱ね。」
ラナンは手を止めない。
「夫からもらったものなんだよ。」
「若い頃にね。何でもない日に突然くれたんだ。」
ラナンは黙って聞いていた。
「中には何も入っていなかった。」
老婆は微笑む。
「でもこの花を見ていると、あの人がまだ隣にいる気がするんだよ。」
少し遠くを見るような目をした。
ラナンの手が、ほんのわずかに止まった。
物に残るもの。
傷でも形でもない。そこに込められた時間。誰かを想った記憶。
ラナンの視線が一瞬、窓辺へと移る。
修復を終えた木箱を老婆へ渡す。老婆は蓋を開き、何度も確かめるように指で撫でた。
「……ありがとう。」
その声には、長い年月を越えて再び手元へ戻ってきた喜びがあった。
老婆は帰ろうとして、ふと窓辺へ目を向ける。
「箱と同じ花だね。」
ラナンも視線を向けた。
「知ってるかい?『あなたを想っています』…花言葉だよ。」
その瞬間、ラナンの中で、時間が巻き戻る。
『花言葉って、知っていますか?』
イリスの声。
少しだけ悪戯っぽい笑顔。
『いつか、分かります。』
あの時は分からなかった。なぜ、そんなことを言ったのか。なぜ、自分に問いかけたのか。
けれど、今なら分かる。
イリスは言葉ではなく、自分が気付くのを待っていた。
ラナンは窓辺の白い花を見る。
胸の奥に、温かなものが広がっていく。
数日後。
工房の鐘が鳴った。
「こんにちは。」
イリスだった。
「……ああ。」
いつもの返事。いつもの声。
けれど。
ラナンの中では、もう違っていた。
彼女が工房にいる時間。工具の音。何気ない会話。彼女の足音。
その全てが、失いたくないものになっていた。
夕暮れ。
イリスが扉へ向かう。
「また来ますね」
ラナンは返事をしなかった。ただ、その背中を見ていた。
そして。
「……イリスさん。」
帰ろうとした彼女を呼び止める。
何かを待っていたかのように、イリスはゆっくりと振り向いた。
ラナンは言葉を探した。
伝えたいことは山ほどある。
けれど。自分にはそれを飾る言葉がない。
だからただ、一番大切なものだけを口にした。
「……好きだ。」
イリスの瞳が揺れる。
ラナンは少しだけ視線を逸らした。
不器用で。短くて。それでも...。
ラナンが初めて、自分から差し出した言葉だった。
静かな沈黙。
やがて。
「……遅いですよ。」
イリスが笑った。
「ずっと待っていました。」
ラナンは何も言わなかった。
ただ、小さく息を吐いた。
窓辺の白い花が、春の風に揺れる。
その意味を、もうラナンは知っている。
けれど彼が伝えた言葉は、花言葉ではなかった。
誰かから借りた言葉でもない。
初めて、自分の心から生まれた言葉だった。
第四章 終
この物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
この章は二人の歩み寄る速度を感じてほしいと思っています。
ゆっくりと進む物語ですが、最後まで楽しんでいただければ幸いです。




