プロローグ
今日もいつもと同じ。
朝起きて、出勤して、働いて、コンビニで適当な弁当を買って、帰って、食事をして、入浴して、寝る。
ただの一度も頭を使わず、一寸たりともルーティンを崩さない、そんな日々。今すぐに終わってしまったって変わらない。
どうやっても変わらない。変えられない。変えようとも思わない、そんな日々。
そんなことを、信号待ちの最中に考えていた。
体を動かさない時間は、普段はほとんど動かない頭のくせに、悪いことばかり考えやがるから嫌いだ。
今だって、変に道が混んでいたせいで、いつもなら間に合うはずの信号に引っかかって、長い時間を持て余している。気分の悪い日々だった。はず、だ。
視界の端、微かに動くものを捉えた。
あまりにも微かすぎて、気付いたときにはそれは、すでに交差点の真ん中にいた。
目を奪われた、という表現が最も適切だと思う。
透き通るような白い長髪。それと同じくらい白い肌。細い手足。大きな目は儚く伏せて、ビー玉のような光沢を備えている。
その身長から、五、六才程度の子供に見えた。
そんな風に夢中になっていた刹那の間、私の日常で言えば一週間程度の密度だったと思う。
私を現実に引き戻したのは人工的な囀りだった。それと同時に、ここが交差点であることを思い出したのだった。
左から迫るトラックが見える。
無意識だった。いつも通りの、惰性のままに体だけ動かして来た日々の賜物か、私の体は交差点の真ん中、その子供に向かって無意識に飛び出していた。
子供の目が私に向いた。
少しずつ隠れていた上下が、見開いたことで露わになる。大きな二つのビー玉が、ぴくりと揺れて、それに激しく惹きつけられた私は左目が捉える鉄塊すらもすでに思考から追い出していた。
指先が触れる。
冷たい。
その筋肉の機微さえ感じ取れそうなほど、時間がゆっくりと進む。
口が小さく動く。
「だめ」
確かにそう聞こえた。
その直後、上着を引っ張られるような感覚を覚えて。
気付けば私は、爪先の目前を通り過ぎる車を前に、歩道と車道の境目に座り込んでいた。
「え」
何が起こったのか、何一つ理解できずに、通り過ぎていく人の視線を浴びながら座りっぱなしでいた。
そうだ、あの子は。
ふとガラス細工のような瞳の色を思い出して、交差点の方を見てみたが、そこに見えるのは再度赤くなった信号機と、残像を残していく車両だけだった。
あれ?気のせい?
そんなはずがあろうかと思いつつも、あまりにも神秘的な情景に、寝起きの脳が見せた単なる夢だとしたほうが現実的に思えてしまって、結局そのまま家路に着こうと歩き出したところで。
「ねえ」
と声が聞こえた。いや、聞こえたというのは多分正しくない。
その声は耳を介すことなく認識できた。させられた。
この世のものではないんだろうな、と思った。同時に、まず間違いなく、あの子のものだろう、とも。
「なんであんなことしたの」
「なんで、かな。わかんないや」
「自分のことなのに?」
「自分のことなのに」
まさか行動原理を問われるとは思っていなく、少し面食らってしまった。
しかしそれ以上に、あまりの現実味のなさと浮遊感に、どこか達観したような、一種の無感情が頭の中を支配していた。
「君は?幽霊、で、合ってる?」
ぴくりと空気が揺れた。ちょうど、肩をぴくりと震わせるときのように、きわめて微細に。
「…そう。正確には、浮遊霊。驚かないの?」
「まあ、うん。逆に、みたいな?」
私の曖昧な受け答えへの当てつけのように首を傾げた。
「いや、そんなことは良くてさ。なんで私には見えてるの?君は」
「…ユウリ」
首を傾げたまま呟いたその単語が、恐らくこの子の名前であることはなんとなく察せた。そして、それを言えという密かな威圧感を覚える。
「…えー、ユウリちゃんは、なんで私に見えるの?幽霊なんでしょ?」
すると無表情のまま頷いてから
「多分、あなたが、今すぐにでも消えてしまいそうだったから」
と答えた。
「それは…」
間違っていない。
確かに私は、生活のための希薄な関係のみを構築して生きてきた。きっと私が明日、突然に消えてしまったって誰も気付かないだろう、と思えるほどには。
そんな存在感の無さが、まさか冥土との邂逅を招くとは、流石に思っていなかったな。
「死ぬの?」
下を向いて考え込んでいた私を覗き込む。
その単調な口調は、その言葉自体が持つ重大過ぎる意味を忘れさせた。
「そのつもりは、ないと思ってたんだけど」
「だけど?」
「自信は、ないな」
「…そう」
その無感情が何を示しているのか、考えても無駄だとはなんとなく分かっていたが、どうしても探りたいと思うのはなぜだろう。
「ユウリちゃんは…」
喋り出した私を、そのガラス細工が追ってくる。
「どうしてここに?」
「どうして…どうして?」
「いや、私に聞かれても…」
「そうじゃない」
首を横に振りながら言う。
「どうして、そんなことを聞くの?」
「ああー…」
どうして。どうしてだろうか。
「うーん、なんでだろうね?」
結局その理由を見つけることはできず、情けないトーンで返す。
そんな私を、ユウリは目を細めて見上げていた。
「…わたしは」
ユウリが半開きの口を保ちながら呟く。
「ここで死んだ。交通事故」
「じゃあ…地縛霊、的な?」
またしても見上げる視線と、一瞬の静寂に、流石にデリカシーに欠けていたかなどと考えた。
「…これも、驚かない」
蚊の鳴くような、というよりは羽根が地面に落ちるようなといったほうが適切なほど、その音を想像さえできない声をなんとか聞き取った。
「あなたはやっぱり、弱い。というか、薄い?」
尻上がりに言われても、私にはそれがよく分からない。現実との繋がり?存在感?
「よく分かんないけど、私ってそんなに、うーん、幽霊、みたいな感じ?なの?」
「幽霊」
私の言葉を一部だけ反復して、またしても見つめる姿勢。コミュニケーションが取りづらいと感じるのは、私の生来の不能力のせいだろうか。
「あなたは、わたしに似てる、気がする」
これはまた、とんでもないことを言われた。
「でも、あなたは人間で、この世界の存在。わたしは、そうじゃない。だから、危険」
「危険?」
「そう。誰かと繋がってないと、あなたは、そのうち、消える」
消える。またしても、そんなに重大な事実をなぜ、この子はそうまで単調に伝えてしまうのか。でも、そうか。消えてしまうらしい。それが誰からも忘れ去られるのが原因か、自分自身の精神的な問題によるものなのかは知りようが無いが。
「…周りの人たちと関係を築くのが大切、ってことでいい?」
「そう。人は、誰の記憶にも存在しなくなると、消える。それは多分、必要ないから」
「私はもうすぐ、そうなっちゃう?」
「かもしれない」
それは…嬉しくはない、かな。ちょうど今日、いい出会いがあった。
ガラス細工の、透明で、儚げな光。その奥の、孤独。
私には、放っておくことは、できそうにない。
「君が…ユウリが、私を覚えてるんじゃあ、ダメなの?」
「…え」
「覚えててよ、私のこと。こんなところに、縛られないでさ。私も、消えたくはないから」
瞳の形がなんとか解せる。少々の間を置いて、考えているような雰囲気を感じさせた。
「…それで大丈夫かは、わからない」
「気にしないよ。そんなこと」
瞳の上下の端が再び隠れる。
「それなら、うん。覚えてる」
「よろしくね、ユウリちゃん」
「よろ、しく?」
傾げた首のまま、疑問形が残るのはきっと、人付き合いなどしていないのだろうことを感じさせた。幽霊ならば当然だろうが。
そんな仕草が寂しそうに見えたから、小さな手を握って引いた。
「一緒に帰ろっか」
戸惑い顔を崩さず、頷いてその目を向けるユウリに、湧き出る母性が抑えられそうになくて、私の足は動き出していた。




