第6話 それでも盤のそばにいる
三月の風は、教室の窓ガラスをときどき震わせた。
○○駅前こども囲碁教室のホワイトボードには、「3月の予定」と「春休み体験会」の文字が並んでいる。
その端には、小さく「この教室は今年度がモデル期間です」というお知らせも貼ってあった。
保護者向けのおたよりは、すでに配ってある。
「来年度以降は未定」「決まり次第お知らせ」といった、歯切れの悪い言葉を添えて。
──子どもたちの前で、この話をどうするか。
それを考えるだけで、九路盤より先に胸のあたりがざわついた。
◇
「先生ー、これさ」
いつものように一番に教室に来た皆勤の男の子が、通信の紙をひらひらと振って見せてきた。
「お母さんが読んでた」
「ああ、教室のおたよりな」
「“来年どうなるかまだ分かりません”ってやつ」
彼は、その一文だけを正確に引用した。
「先生、なくなっちゃうの?」
直球だった。
たぶん、そのうち誰かに聞かれるとは思っていた。
けれど、こうして真正面から言われると、あらかじめ用意しておいた言葉はどこかに飛んでいってしまう。
「……まだ、分からない」
結局、通信と同じことを言うしかなかった。
「一年間やってみて、“続けるかどうか決めます”っていう教室なんだ。
決めるのは先生じゃなくて、もっとえらい人たちで」
「理事会?」
どこで覚えたのか、その単語が男の子の口から出てきて、思わず笑ってしまいそうになった。
「そう、そのへんの人たちだ」
「ふーん」
男の子は、十三路盤の端を指先でなぞきながら、少し黙り込んだ。
「じゃあさ」
「うん」
「なくなるかもしれないけど、今日のぶんはやる?」
その問いかけに、今度は僕のほうが言葉を失った。
──今日のぶんはやるか。
棋士としては当たり前すぎて、逆に口にしたことのない発想だった。
「……もちろんやる」
少ししてから答える。
「いつまで続くか分からなくても、“今日の一局”はちゃんと打つ。
それは、ここでも同じだ」
男の子は、ようやくいつもの表情に戻って、黒石の入った容器に手を伸ばした。
「じゃあ、今日も最後までやる」
その言葉に背中を押されるようにして、僕も白石をさがした。
◇
その日の教室は、いつもとほとんど変わらなかった。
九路盤の子どもたちは、相変わらずアタリに気づくと「やった」と小さな声を上げる。
十三路盤組は、「ここはまだ決まってない場所でしょう」と言いながら、中央に手を伸ばす。
盤の間を行き来しながら、「ああ、ここで止まってくれ」とか「その一手は勇気あるな」とか心の中でつぶやく。
年度末だとか理事会だとかいう言葉は、少なくともこの一時間のあいだだけは、どこか遠くに追いやられていた。
最後の一局が終わりかけたころ、皆勤の男の子がふと顔を上げた。
「先生、春休みって、教室ある?」
「あるよ。春休み用の体験会もやるし、来てる子たちの“復習の日”も作る予定だ」
「じゃあさ」
彼は、打ち終えた石を眺めながら言う。
「春休みのあいだに、コンピュータの“初級”にも勝てるようにしとく」
「お、目標が上がったな」
「“中級”は……その次」
そこまで言ってから、彼は少しまじめな顔になった。
「もし教室なくなったら、そのときやめる」
どきりとした。
「やめるって?」
「ううん、“囲碁やめる”じゃなくて、“教室をやめる”」
彼は、言葉を選ぶように続けた。
「学校とか家とかで打てるようになってたら、“教室がなくなる”って聞いても、そんなにかなしくないかもって」
「……なるほどな」
いつのまにか、彼の頭の中には、「ここ以外で石を置く場所」のこともちゃんと入っていた。
「でも、なくならないほうがいい」
「それは、先生も同じだ」
僕は、素直にそう答えた。
◇
数日後、連盟から再びメールが届いた。
件名は、やはり淡々としていた。
──地域囲碁教室パイロットプロジェクト 来年度以降の方針について
本文を読む指先が、ほんの少しだけ震える。
──○○駅前こども囲碁教室については、来年度も継続とする。
──ただし、予算および人員の関係上、他地区の教室を統合・再編するため、カリキュラムの見直しをお願いしたい。
──担当棋士は引き続き高原先生にお願いしたく存じます。
短い文の中に、「続く」と「変わる」が混ざっていた。
僕は、椅子の背にもたれかかり、大きく息を吐いた。
──続くのか。
まず、その事実だけをかみしめる。
年度末で子どもたちに「ここはこれで終わりです」と告げる場面は、少なくともすぐには来ない。
同時に、「いつまでも安泰」ではないことも、改めて突きつけられた気がした。
統合される教室もある。
担当を外れる棋士もいるだろう。
予算や数字の都合で、「戦場」そのものが縮小していく現実は変わらない。
それでも、この駅前の二階だけは、もう一年盤を並べることが許された。
◇
次の土曜日、教室の始まりに、僕は子どもたちに簡単な報告をした。
「この教室は、来年も続けられることになりました」
九路盤のまわりから、「やった」「ふーん」とそれぞれの温度の声が上がる。
「ただ、ちょっとだけルールが変わる。
新しい子も増えるかもしれないし、時間の使い方も少し変わるかもしれない」
「なくならないの?」
皆勤の男の子が確認するように聞く。
「少なくとも、“今年でさいごです”って話にはならなかった」
そう言うと、彼はほっとしたような顔をした。
「じゃあ、春休みに“初級”に勝つやつ、ちゃんとやる」
「先生も、ちゃんと見るよ」
そう答えながら、自分でも不思議な感覚があった。
──終わらないと分かったとたんに、気がゆるむのではなく。
「続くからこそ、どう続けるか」を考えなきゃいけない気持ちになる。
◇
四月。
駅前の桜が散り始めたころ、新年度の教室が始まった。
出席リストは、新しい紙に変わる。
去年のぶんは、クリアファイルにまとめて教室の棚の隅に入れておいた。
そこには、皆勤の丸印と、途中で終わってしまった名前と、途中から増えた名前が混ざっている。
──棋譜みたいだな。
ふと、そんなことを思った。
勝ち負けではなく、「このとき、この子はここにいた」という記録。
しばらく見返さなくても、ふとした拍子に開けば、あの日の盤面が頭の中に蘇るような紙。
新年度一回目の教室には、新しい子どもが三人増えた。
保護者の一人が、「学校の先生にすすめられて」と言った。
別の保護者は、「アプリで囲碁をやり始めたので、本物の盤も触らせたくて」と言った。
九路盤の一番端の席には、去年からの皆勤の男の子が座っている。
十三路盤の奥の席には、もう一人の古参の女の子。
彼らのあいだに、新しく名前が並んでいく。
「先生ー、新しい子は黒? 白?」
皆勤の男の子が聞いてきた。
「最初は黒かな。いつか白も打つ」
「じゃあ、おれも白やる」
そう言って、彼は自分から白石の容器を引き寄せた。
「新しい子に、“黒はこうすると強いよ”って言う側もやってみたい」
──先生の真似事をする年齢になってきたか。
少し笑いながら、十三路盤のほうを見る。
白石が、教室のドアからひょいと顔を出したのは、そのときだった。
「見学、してもいい?」
「またか」
「まただよ。……あ、先生、続投おめでとう」
彼女は、いつものように軽く手を振る。
「統合されたほうの教室の子たちも、何人かこっちに来るらしいね」
「ああ。まだ何人かは決まってないけどな」
「どっちにしても、“盤のあるほう”に流れてくるなら、悪くない」
白石は、教室の真ん中に並んだ九路盤をじっと見た。
「高原さんさ」
「なんだ」
「結局、“どこで戦うか”を選び直しただけなんだと思うよ」
彼女の言葉に、僕は少し黙る。
「タイトル戦の盤から、駅前の教室の盤に移っただけ。
相手がプロから子どもに変わっただけで、“盤の上で何かをやろうとしてる”のは同じ」
「……そうかもしれないな」
自分の胸の中で、ゆっくりと言葉を転がす。
棋戦が減って、仕事が消えて。
AIが強くなって、人間の価値が揺れて。
それでも、石を置ける盤が残っているところに、自分はいる。
「プロとしての“戦い方”は、たしかに前とは変わったけど」
白石は、窓の外の桜を見ながら続けた。
「“棋士たちは教室で戦うことにした”ってだけの話かもしれない」
タイトルみたいな言い方をされて、思わず苦笑がこぼれた。
「そんな立派な決意をした覚えはないんだが」
「決意っていうより、“ここならまだ打てる”って感じかな」
彼女はそう言って肩をすくめる。
◇
その日の教室が終わったあと、僕はまたメモ帳を開いた。
新年度一回目。
名前が増えた。盤が少し足りなくなった。
皆勤だった男の子は、新しい子に「そこは“まだ決まってない場所”だよ」と得意げに説明していた。
メモの最後に、しばらくペンを止めてから、一行だけ書き足す。
「仕事を奪われかけたあとも、盤のそばに立つ場所はまだあった。」
高原 祐一、三十七歳。
棋戦の数が減っても、AIが強くなっても、
九路盤と十三路盤の前に立ち続けることを選んだ棋士は――
タイトル戦の盤面から、教室の盤面へと戦場を移しながら、
それでも「石を置くこと」で誰かの明日に少しだけ手を貸す仕事を、
もう少しだけ続けてみようと思っていた。
終局がいつ来るかはまだ分からない。
それでも、「今日の一局」を最後まで見届ける役目がここにある限り――
棋士たちは、教室で戦うことにした。




