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棋士たちは教室で戦うことにした  作者: 柚木 いと


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第6話 それでも盤のそばにいる

三月の風は、教室の窓ガラスをときどき震わせた。


 ○○駅前こども囲碁教室のホワイトボードには、「3月の予定」と「春休み体験会」の文字が並んでいる。

 その端には、小さく「この教室は今年度がモデル期間です」というお知らせも貼ってあった。


 保護者向けのおたよりは、すでに配ってある。

 「来年度以降は未定」「決まり次第お知らせ」といった、歯切れの悪い言葉を添えて。


 ──子どもたちの前で、この話をどうするか。


 それを考えるだけで、九路盤より先に胸のあたりがざわついた。


 



 


「先生ー、これさ」


 いつものように一番に教室に来た皆勤の男の子が、通信の紙をひらひらと振って見せてきた。


「お母さんが読んでた」


「ああ、教室のおたよりな」


「“来年どうなるかまだ分かりません”ってやつ」


 彼は、その一文だけを正確に引用した。


「先生、なくなっちゃうの?」


 直球だった。

 たぶん、そのうち誰かに聞かれるとは思っていた。

 けれど、こうして真正面から言われると、あらかじめ用意しておいた言葉はどこかに飛んでいってしまう。


 


「……まだ、分からない」


 結局、通信と同じことを言うしかなかった。


「一年間やってみて、“続けるかどうか決めます”っていう教室なんだ。

 決めるのは先生じゃなくて、もっとえらい人たちで」


「理事会?」


 どこで覚えたのか、その単語が男の子の口から出てきて、思わず笑ってしまいそうになった。


「そう、そのへんの人たちだ」


「ふーん」


 男の子は、十三路盤の端を指先でなぞきながら、少し黙り込んだ。


「じゃあさ」


「うん」


「なくなるかもしれないけど、今日のぶんはやる?」


 その問いかけに、今度は僕のほうが言葉を失った。


 ──今日のぶんはやるか。


 棋士としては当たり前すぎて、逆に口にしたことのない発想だった。


 


「……もちろんやる」


 少ししてから答える。


「いつまで続くか分からなくても、“今日の一局”はちゃんと打つ。

 それは、ここでも同じだ」


 男の子は、ようやくいつもの表情に戻って、黒石の入った容器に手を伸ばした。


「じゃあ、今日も最後までやる」


 その言葉に背中を押されるようにして、僕も白石をさがした。


 



 


 その日の教室は、いつもとほとんど変わらなかった。


 九路盤の子どもたちは、相変わらずアタリに気づくと「やった」と小さな声を上げる。

 十三路盤組は、「ここはまだ決まってない場所でしょう」と言いながら、中央に手を伸ばす。


 盤の間を行き来しながら、「ああ、ここで止まってくれ」とか「その一手は勇気あるな」とか心の中でつぶやく。

 年度末だとか理事会だとかいう言葉は、少なくともこの一時間のあいだだけは、どこか遠くに追いやられていた。


 


 最後の一局が終わりかけたころ、皆勤の男の子がふと顔を上げた。


「先生、春休みって、教室ある?」


「あるよ。春休み用の体験会もやるし、来てる子たちの“復習の日”も作る予定だ」


「じゃあさ」


 彼は、打ち終えた石を眺めながら言う。


「春休みのあいだに、コンピュータの“初級”にも勝てるようにしとく」


「お、目標が上がったな」


「“中級”は……その次」


 そこまで言ってから、彼は少しまじめな顔になった。


「もし教室なくなったら、そのときやめる」


 どきりとした。


「やめるって?」


「ううん、“囲碁やめる”じゃなくて、“教室をやめる”」


 彼は、言葉を選ぶように続けた。


「学校とか家とかで打てるようになってたら、“教室がなくなる”って聞いても、そんなにかなしくないかもって」


「……なるほどな」


 いつのまにか、彼の頭の中には、「ここ以外で石を置く場所」のこともちゃんと入っていた。


「でも、なくならないほうがいい」


「それは、先生も同じだ」


 僕は、素直にそう答えた。


 



 


 数日後、連盟から再びメールが届いた。


 件名は、やはり淡々としていた。


 ──地域囲碁教室パイロットプロジェクト 来年度以降の方針について


 本文を読む指先が、ほんの少しだけ震える。


 ──○○駅前こども囲碁教室については、来年度も継続とする。

 ──ただし、予算および人員の関係上、他地区の教室を統合・再編するため、カリキュラムの見直しをお願いしたい。

 ──担当棋士は引き続き高原先生にお願いしたく存じます。


 短い文の中に、「続く」と「変わる」が混ざっていた。


 


 僕は、椅子の背にもたれかかり、大きく息を吐いた。


 ──続くのか。


 まず、その事実だけをかみしめる。

 年度末で子どもたちに「ここはこれで終わりです」と告げる場面は、少なくともすぐには来ない。


 同時に、「いつまでも安泰」ではないことも、改めて突きつけられた気がした。


 統合される教室もある。

 担当を外れる棋士もいるだろう。

 予算や数字の都合で、「戦場」そのものが縮小していく現実は変わらない。


 それでも、この駅前の二階だけは、もう一年盤を並べることが許された。


 



 


 次の土曜日、教室の始まりに、僕は子どもたちに簡単な報告をした。


「この教室は、来年も続けられることになりました」


 九路盤のまわりから、「やった」「ふーん」とそれぞれの温度の声が上がる。


「ただ、ちょっとだけルールが変わる。

 新しい子も増えるかもしれないし、時間の使い方も少し変わるかもしれない」


「なくならないの?」


 皆勤の男の子が確認するように聞く。


「少なくとも、“今年でさいごです”って話にはならなかった」


 そう言うと、彼はほっとしたような顔をした。


「じゃあ、春休みに“初級”に勝つやつ、ちゃんとやる」


「先生も、ちゃんと見るよ」


 そう答えながら、自分でも不思議な感覚があった。


 ──終わらないと分かったとたんに、気がゆるむのではなく。

 「続くからこそ、どう続けるか」を考えなきゃいけない気持ちになる。


 



 


 四月。

 駅前の桜が散り始めたころ、新年度の教室が始まった。


 出席リストは、新しい紙に変わる。

 去年のぶんは、クリアファイルにまとめて教室の棚の隅に入れておいた。


 そこには、皆勤の丸印と、途中で終わってしまった名前と、途中から増えた名前が混ざっている。


 ──棋譜みたいだな。


 ふと、そんなことを思った。


 勝ち負けではなく、「このとき、この子はここにいた」という記録。

 しばらく見返さなくても、ふとした拍子に開けば、あの日の盤面が頭の中に蘇るような紙。


 


 新年度一回目の教室には、新しい子どもが三人増えた。


 保護者の一人が、「学校の先生にすすめられて」と言った。

 別の保護者は、「アプリで囲碁をやり始めたので、本物の盤も触らせたくて」と言った。


 九路盤の一番端の席には、去年からの皆勤の男の子が座っている。

 十三路盤の奥の席には、もう一人の古参の女の子。


 彼らのあいだに、新しく名前が並んでいく。


 


「先生ー、新しい子は黒? 白?」


 皆勤の男の子が聞いてきた。


「最初は黒かな。いつか白も打つ」


「じゃあ、おれも白やる」


 そう言って、彼は自分から白石の容器を引き寄せた。


「新しい子に、“黒はこうすると強いよ”って言う側もやってみたい」


 ──先生の真似事をする年齢になってきたか。


 少し笑いながら、十三路盤のほうを見る。


 


 白石が、教室のドアからひょいと顔を出したのは、そのときだった。


「見学、してもいい?」


「またか」


「まただよ。……あ、先生、続投おめでとう」


 彼女は、いつものように軽く手を振る。


「統合されたほうの教室の子たちも、何人かこっちに来るらしいね」


「ああ。まだ何人かは決まってないけどな」


「どっちにしても、“盤のあるほう”に流れてくるなら、悪くない」


 白石は、教室の真ん中に並んだ九路盤をじっと見た。


「高原さんさ」


「なんだ」


「結局、“どこで戦うか”を選び直しただけなんだと思うよ」


 彼女の言葉に、僕は少し黙る。


「タイトル戦の盤から、駅前の教室の盤に移っただけ。

 相手がプロから子どもに変わっただけで、“盤の上で何かをやろうとしてる”のは同じ」


「……そうかもしれないな」


 自分の胸の中で、ゆっくりと言葉を転がす。


 棋戦が減って、仕事が消えて。

 AIが強くなって、人間の価値が揺れて。


 それでも、石を置ける盤が残っているところに、自分はいる。


 


「プロとしての“戦い方”は、たしかに前とは変わったけど」


 白石は、窓の外の桜を見ながら続けた。


「“棋士たちは教室で戦うことにした”ってだけの話かもしれない」


 タイトルみたいな言い方をされて、思わず苦笑がこぼれた。


「そんな立派な決意をした覚えはないんだが」


「決意っていうより、“ここならまだ打てる”って感じかな」


 彼女はそう言って肩をすくめる。


 



 


 その日の教室が終わったあと、僕はまたメモ帳を開いた。


 新年度一回目。

 名前が増えた。盤が少し足りなくなった。

 皆勤だった男の子は、新しい子に「そこは“まだ決まってない場所”だよ」と得意げに説明していた。


 メモの最後に、しばらくペンを止めてから、一行だけ書き足す。


 「仕事を奪われかけたあとも、盤のそばに立つ場所はまだあった。」


 


 高原 祐一、三十七歳。

 棋戦の数が減っても、AIが強くなっても、

 九路盤と十三路盤の前に立ち続けることを選んだ棋士は――


 タイトル戦の盤面から、教室の盤面へと戦場を移しながら、

 それでも「石を置くこと」で誰かの明日に少しだけ手を貸す仕事を、

 もう少しだけ続けてみようと思っていた。


 終局がいつ来るかはまだ分からない。

 それでも、「今日の一局」を最後まで見届ける役目がここにある限り――


 棋士たちは、教室で戦うことにした。

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