第5話 この教室にも終わりがあると知った日
○○駅前こども囲碁教室が始まって、三か月が過ぎた。
九路盤しか触ったことがなかった子が、十三路盤の端で小さな陣地を作れるようになった。
石を握るだけで精一杯だった子が、「ここはまだ決まってない場所でしょう」と自分から言うようになった。
出席リストの紙は、一枚では足りなくなり、二枚目に突入している。
丸やバツや三角の印が増えていくたびに、「この名前は、今週もちゃんとここに来た」という実感が少しずつ積み上がっていった。
そんなある朝、連盟から一本のメールが届いた。
「件名:地域囲碁教室パイロットプロジェクト 中間報告のお願い」
本文には、淡々とした言葉でこう書かれていた。
──本年度末をもって、現行のパイロットプロジェクトはいったん終了となります。
──来年度以降の継続の可否は、中間報告および最終報告をもとに理事会にて決定いたします。
──つきましては、担当棋士の先生方には、各教室の現状(参加人数・継続率・所感等)をご報告いただけますと幸いです。
端的に言えば、「この教室も、いつまでも続くとは限らない」ということだった。
メールを読み終えたあと、しばらく机の上でマウスが止まった。
──やっぱり、「パイロット」は「いつか終わる前提」か。
頭では分かっていたことだ。
最初の会議で、「まずは一年」と言われていた。
結果が良ければ続ける。数字が振るわなければ畳む。
それでも、「ここにも終わりがある」と文面で突きつけられると、胸の奥がざわついた。
◇
その日の午前中、連盟で教室担当者の打ち合わせがあった。
ホワイトボードには、各教室の名前と、参加人数の推移が書かれている。
○○駅前教室の欄には、最初の体験会から今日までの数字が、棒グラフの形で並んでいた。
「○○駅前は、だいぶ“定着”してきてますね」
事務局の職員がそう言う。
最初の八人から、いったん五人に減り、そこからじわじわと七人になっている。
「まったく増えない教室もありますから。
続けるかどうかの議論になったときに、“候補”には入ると思います」
言い方を少しだけ選んでいるのが分かった。
「……“候補”、か」
「はい。あくまで、ですけどね」
職員は苦笑まじりに言い添える。
「本音を言えば、どこも続けたい気持ちはあります。
ただ、予算や人員の都合もありますし……」
そこで言葉を濁した。
「もしも、ですけど。
年度末で打ち切りになった場合は、子どもたちと保護者の方には、先生からお話していただく形になります」
「先生、っていうのは……」
「担当棋士の皆さんです」
それは、自然な話だった。
教室の「終わり」を伝えるのは、教室の「顔」であるべきだ。
頭ではそう分かっていても、胸のどこかがきゅっと縮む。
「子どもたちに、“また来週”の代わりに“あと何回”を伝える役目、ですね」
職員は、申し訳なさそうに視線を落とした。
◇
土曜日。
メールのことを頭の隅に抱えたまま、いつもの時間に教室の準備をする。
九路盤を三枚。十三路盤を三枚。
今日は、皆勤賞の男の子と、女の子二人が十三路盤に来る予定だった。
ドアが開き、いつもの声が聞こえる。
「こんにちはー!」
皆勤の男の子が、ランドセルを軽い音を立てて下ろした。
Tシャツの柄は、先週と違うキャラクターになっている。
「こんにちは。今日も来たな」
「うん。お母さんが、“三か月続いたらすごい”って言ってた」
そう言って、彼は自分から十三路盤の席に座る。
「きょうも十三?」
「ああ。今日は、十三の“端っこ”を使う」
「端っこ?」
「うん。端っこに陣地を作るときに、どこが弱くなりやすいかって話だ」
そう説明しながらも、心のどこかで思う。
──この子に、“あと何か月”って、いつ言うんだろうな。
教室が始まると、いつものように盤上の時間に集中する。
端のカケツギ。
シチョウになりかけの形。
「ここは白から打ちたい」とぼそりと言う女の子のひらめき。
石を置く手つきや、顔に浮かぶ表情を見ているあいだは、余計なことを考えずに済む。
「先生、これ、黒の地?」
皆勤の男の子が、自分の作った陣地を指さす。
端にくっついた四角形。
少し心もとないところに空きがある。
「今は“黒にしたい場所”ってところだな。
ここに白に入られたら、まだ戦える」
そう言って、白石をひとつ、彼の陣地の中に打ってみせる。
「うわ、ずるい」
「ずるくない。
こうやって、“ここに打たれたらいやだな”って場所を見つけていくのが大事なんだ」
子どもたちの「いやだな」を、一つずつ言葉にしていく。
教室の時間は、それだけであっという間に過ぎていった。
◇
全員が帰ったあと、机の上の九路盤と十三路盤を順に片づけていく。
今日は、体験会のころからの四人に加えて、新しく一人、体験の子が来ていた。
最初は母親の後ろに隠れていたが、最後は自分から「また来ていい?」と言ってくれた。
出席リストの名前欄は、またひとつ増えることになる。
──この名前も、年度末に消えるかもしれない。
そう思った瞬間、胸のあたりがじわりと重くなった。
「先生、大丈夫ですか」
片づけを手伝っていた職員が、様子をうかがうように声をかけてきた。
「顔、ちょっと疲れてますよ」
「疲れてない顔のほうが少ない職業だからな」
苦笑でごまかす。
「教室のことで、何かありました?」
「教室のこと、というか……教室“そのもの”のこと、だな」
僕は、一瞬ためらってから口を開いた。
「パイロット、年度末で終わる可能性があるって、朝の会議で聞いただろ」
「はい」
「そのことを、子どもたちにいつ伝えるか、それを考えると、ちょっと落ち着かなくて」
職員は、少しだけ表情を曇らせた。
「……そうですよね」
「ここがいつか終わるとしても、“終わるからやめよう”って気持ちにはなってほしくないんだ」
自分でも、わがままなことを言っている自覚はあった。
「教室が終わっても、覚えたことは残るとか、考え方はどこかで役に立つとか。
そういう話を、どこまで子どもに言えるのか、まだ言葉が見つからなくて」
職員はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「その話は、先生から言ってもらうのが一番だと思います。
ただ、“いつ”かについては……先生が“言える”って思えたタイミングでいいのかな、と」
「そんな曖昧な」
「教室の中の空気は、先生が一番分かってますから」
それは、責任の押しつけにも聞こえたし、信頼の言葉にも聞こえた。
◇
その週の平日、連盟のロビーで、白石と会った。
「教室、どう?」
彼女は自動販売機で買った紙コップのコーヒーを片手に、いつものように聞いてくる。
「子どもたちは、ちゃんと石を置いてる」
「それはいいことだ」
白石は、嬉しそうに笑った。
「で、先生のほうは?」
「先生のほうは……終わり方を考え始めたところだ」
「終わり方?」
僕は、パイロットの話をかいつまんで伝えた。
「来年度も続くかもしれないし、ここで終わるかもしれない。
その“かもしれない”を、いつかどこかで子どもに言わなきゃいけない」
「なるほどね」
白石は、コーヒーのふちに口をつけながら、少し目線を落とした。
「“続くといいね”ってだけ言っておくわけにもいかないしな」
「そうなんだ」
僕は、ため息まじりに言う。
「“終わりがあるかもしれない場所”で、どうやって石を置かせればいいんだろうな」
「……高原さんさ」
白石が、紙コップをテーブルに置いた。
「盤の上の対局だって、“いつか終わる”って分かってるじゃない」
「そりゃ、そうだな」
「途中で中断になることもある。
でも、それでも打つでしょ? ちゃんと“今の一手”を考えて」
「まあ……」
「教室も、たぶんそれと似てるんだと思う」
白石は、少しだけ言葉を選ぶように続けた。
「“永遠に続く場所”じゃないからこそ、“ここで打った石は消えない”って、どこかで言ってあげる。
それが、先生の仕事なんじゃないかな」
「消えない、か」
「棋戦がなくなっても、その対局の棋譜は残るでしょ。
教室も同じで、“ここで覚えた打ち方”とか、“最後まで座ってたって記憶”とかは、きっとどこかに残る」
その言い方は、少しだけくすぐったかった。
「それを、“一年間だけの教室だったから意味がない”って言うか、“一年間でも意味があった”って言うかは、先生次第」
「先生次第、ね」
「少なくとも、棋士じゃない誰かが決めることじゃないと思う」
白石は、そう言って紙コップを空にした。
◇
その日の夜、僕は教室用の小さな通信文を作り始めた。
「○○駅前こども囲碁教室 おたより」とタイトルのついたA4の紙。
左側には教室の近況報告。右側には、来月の予定表。
その下の空欄に、小さくこう書き始める。
『この教室は、今年度末(3月)まで、地域のモデル教室として運営しています。
来年度以降の継続については、まだ決まっていません。決まり次第、できるだけ早くお知らせいたします。』
一文書くごとに、カーソルを何度も行ったり来たりさせる。
「まだ決まっていません」という言い方が、妙に心に引っかかる。
「終わるかもしれない」とも、「きっと続きます」とも書けなかった。
それでも、何も書かないまま始めてしまうよりは、少しだけ正直だと思えた。
最後に、通信のいちばん下に、ほんの短い一文を足す。
『どんな形になっても、この教室で覚えた石の置き方や、一局を最後までやりきった時間が、みなさんのチカラになりますように。』
大人向けの言葉としては、少しきれいごとすぎるかもしれない。
でも、今の自分に書けるのはこれが限界だった。
プリンターから紙が吐き出される音を聞きながら、ふと気づく。
──この通信を書いた時点で、僕はもう、「終わりに向かう一手」を打っているのかもしれない。
高原 祐一、三十七歳。
新しく任された教室にも終わりがあると知った棋士は――
その終わりを先延ばしにするのではなく、
「どう終わらせるか」と「何を残すか」を、
ようやく盤面の一部として見つめ始めていた。




