第4話 AIより強くなくていい
教室が始まって、三週目になった。
出席リストの「第1週」「第2週」「第3週」の欄には、それぞれ丸やバツや三角が増えている。
丸は出席。バツは欠席。三角は、保護者から「今日は用事でお休みします」と連絡があった子。
体験会から続けて来ている四人のうち、一人は皆勤賞。
一人は一回休み。
一人は、三角が続いている。もう一人は、今日の欄が空白のままだ。
――棋戦の勝敗表より、こっちのほうがよっぽど落ち着かないな。
そう思いながら、九路盤を机の上に並べていく。
◇
「先生ー、これ見て」
最初に教室に入ってきた男の子が、スマートフォンを掲げて見せてきた。
保護者の許可を得て持ち歩いているらしい、小さめの機種だ。
画面には、黒と白の丸が並んでいる。
シンプルなデザインの囲碁アプリだった。
「これで、家でも打ってた」
「へえ」
僕は、少し驚いたふりをする。
「強い?」
「強い。コンピュータ、ぜったい負けない」
男の子は、不満そうでもあり、どこか誇らしそうでもあった。
「お父さんもやってみたけど、すぐ投げてた」
「それは……」
どんな顔をすればいいのか分からず、曖昧に笑う。
「先生、コンピュータに勝てる?」
きたな、と思った。
避けて通れない質問だということは分かっていたが、
こんなに早く正面から聞かれるとは思っていなかった。
「勝てないよ」
僕は、できるだけあっさりと答えた。
「今のコンピュータは、人間よりずっと強い。
プロでも、そう簡単には勝てない」
「ふーん……」
男の子は、その答えをどう受け取ったのか、読めない表情をした。
「じゃあさ、なんで勉強するの?」
やっぱり、そこに行きつく。
「コンピュータに勝てないのに、なんで囲碁やるの?」
教室には、ほかの子どもたちも入り始めていた。
彼らも、今の質問を聞いていたのか、こちらをちらちらと見ている。
僕は、少しだけ息を吸ってから、九路盤の上を指さした。
「ここでは、“コンピュータと戦うため”には打ってないからだよ」
「?」
「先生たちがやってるのは、コンピュータに勝つ囲碁じゃなくて、
“自分で考えられるようになる囲碁”なんだ」
自分で言いながら、「うまく伝わるだろうか」と不安になる。
けれど、言わないわけにもいかなかった。
「コンピュータは、“この形ならここが一番いいよ”って、すぐ教えてくれる。
でも、“なんでそこを打ちたいと思ったか”とか、“今どこが怖いか”とかは、教えてくれない」
男の子は、じっと九路盤とスマートフォンの画面を見比べている。
「この教室でやるのは、“どうしてその一手を打ったか”を、自分で考えてみる練習なんだ。
コンピュータに勝つためじゃなくて、“自分の手を、自分で読めるようにする”ため」
どこまで噛み砕くべきか、頭の中で単語を選びながら話す。
「だから、ここでは先生がコンピュータより弱くても、あんまり困らない」
「ふーん……」
男の子は、今度は少しだけ納得したような顔をした。
「じゃあさ、コンピュータは、答えだけ教えてくれる感じ?」
「そうだな。
“テストの答え”は全部知ってるけど、“どこで間違えたか一緒に考えてくれる”わけじゃない、みたいな」
「へえ」
完全に理解できたわけではないだろう。
それでも、「変なことを言ってるわけではなさそうだ」とだけは受け取ってくれたようだった。
◇
その日の教室は、九路盤と十三路盤を両方使った。
皆勤の男の子と、体験会からの女の子には、初めて十三路盤を出してみる。
残りの二人には、もう少し九路盤で自信をつけてもらう。
「わー、ひろい」
十三路盤を見た女の子が、目を丸くした。
「九路とくらべると、そう感じるよね。
でも、やることは同じだよ。囲んだり、陣地を作ったり」
僕は、彼女と十三路盤を挟んで向き合う。
「最初の一手、どこに打ちたい?」
「うーん……」
彼女は、しばらく盤面を眺めてから、九路盤のときによく打っていた星のあたりを指さした。
「ここ」
「いいね。
それは、“このへんを自分の場所にしたい”っていう気持ちがある手だ」
そう言って、僕も向かい側の星に白石を置く。
「じゃあ、今日は“自分の場所を広げる”ってことを考えながら打ってみようか」
一方、九路盤組のほうを見ると、例のスマートフォンを持っていた男の子が、早くも相手の石を三つほど取って得意げな顔をしていた。
「コンピュータより強い?」
相手の子にそう聞かれて、彼は首をかしげる。
「コンピュータは、もっとずるい」
「ずるくないだろ」
思わず口を挟むと、男の子は笑った。
「だって、まちがえないんだもん」
それはたしかに、子どもらしい感想だった。
◇
休憩時間、子どもたちが水筒のお茶を飲んでいるあいだ、僕は窓際で外を眺めた。
スマートフォンの囲碁アプリ。
ネットの無料囲碁AI。
プロの対局を、リアルタイムで解析する配信。
ここ数年で、「盤の外側」の景色は目まぐるしく変わった。
僕自身も、研究のときにはAIの検討図を使う。
かつての“師匠の研究ノート”の代わりに、“評価値グラフ”が増えていった。
そのいっぽうで、教室の九路盤の上には、まだそんなものはない。
自分で見て、自分で迷い、自分で決める。
間違えたら、一緒に「ああ」と言って笑って、もう一局やる。
――ここもいつか、AIが入り込んでくるのだろうか。
そんなことを考えていたときだった。
「先生、これさ」
さっきの男の子が、またスマートフォンを持って近づいてきた。
「この前、コンピュータに勝ったときのやつ、見せてあげる」
画面には、九路盤の簡易対局モードが開かれていた。
黒と白の石が入り乱れた終局図。
「勝ちました」の文字。
「お、すごいじゃないか」
素直にそう言う。
「このとき、コンピュータ、なんか変なとこ打ってきて」
「レベル、どのくらいにしてた?」
「いちばん下」
「ああ、“やさしい”設定か」
画面の端には、「入門」「初級」「中級」といったボタンが並んでいる。
たぶん、入門レベルのプログラムなのだろう。
「ねえ先生。
これと教室って、どっちのほうがつよくなる?」
その問いに、僕は少しだけ考えた。
「“石の動かし方だけ”覚えるなら、コンピュータといっぱい打つほうが早いかもしれない」
それは嘘ではない。
「でも、“途中で投げ出さない”とか、“なんで負けたかを一緒に考える”のは、教室のほうが得意だ」
男の子は、「ふーん」と言いながら、また画面を見つめる。
「コンピュータとだけ打ってるとね、負けたらすぐ消しちゃうことが多いんだ」
それは、僕自身の経験でもあった。
「ここでは、負けたら一緒に盤をひっくり返して、“どこから苦しくなったかな”って話すだろ」
「うん」
「たぶん、その時間が、“強くなる”ってことの半分くらいなんじゃないかと思う」
自分で言っておきながら、「半分」という数字に根拠があるわけではない。
ただ、「勝った対局」よりも、「負けた対局の検討」のほうが身になることが多かったのは、プロの世界でも同じだった。
「じゃあさ」
男の子が、ふと真面目な顔をした。
「コンピュータに勝てなくてもいいから、
“コンピュータだけじゃ教えてくれないやつ”を、ここでやる感じ?」
その言い方が、少しだけ可笑しくて、少しだけ刺さった。
「……そういう感じかもしれない」
僕は笑いながら認める。
「コンピュータには、“この一手がどれくらいいいか”は聞ける。
でも、“その一手を打った自分のこと”までは教えてくれないからね」
◇
その日の終わり、十三路盤を片づけていると、教室のドアが再び開いた。
「おつかれさま」
顔を出したのは、白石だった。
仕事帰りらしく、肩に小さなトートバッグを提げている。
「ちょっとだけ覗きに」
「またか」
「まただよ」
彼女は、空になった九路盤を一枚持ち上げ、光に透かすように眺めた。
「さっき、廊下で聞こえちゃったんだよね。
“コンピュータより弱くてもいい”とか、“コンピュータだけじゃ教えてくれないやつ”とか」
「子ども相手だと、つい変な言い方になるな」
「変じゃなかったよ」
白石は、盤をそっと机に戻す。
「プロの対局だと、どうしても“AIよりいい手を打てるか”って話になりがちだけどさ。
教室だとむしろ、“AIにできないことを先生がやる”って整理のほうが、分かりやすいかも」
「AIにできないこと?」
「たとえば、“一緒に悔しがる”とかね」
白石は、さらりと言った。
「子どもが取り損ねたときに、“あー”って同じ顔してあげるとか。
勝ったときに、“やったな”って笑ってあげるとか。
そういうの、AIにはまだ、ちょっと難しいでしょ」
「……たしかにな」
九路盤の上で、さっきの男の子が悔しそうに唇を噛んでいた顔を思い出す。
そして、そのあとすぐに次の一局を始めたときの、少しだけ誇らしげな顔も。
ああいう表情は、評価値グラフのどこにも表示されない。
「プロの世界はプロの世界で、AIとどう付き合うか、まだ揺れてるけど」
白石は、窓の外の夕方の空を見ながら言った。
「教室の世界では、“敵か味方か”ってより、
“どこまで任せて、どこから先生が引き受けるか”を決める感じなんだろうね」
「任せるところと、引き受けるところ、か」
その言葉が、妙にしっくりきた。
AIに任せてもいいところ。
自分たちが引き受けるべきところ。
それを、盤の上と教室の中で、少しずつ探っていくことになるのだろう。
◇
その日のメモには、いつもの子どもたちの様子に加えて、ひとつだけ自分向けの一行を足しておいた。
「“AIより強くなくていい場所”が、たしかにここにはある。」
高原 祐一、三十七歳。
AIの検討図に頼りながらも、九路盤の前では子どもの表情を読む棋士は――
まだうまく言葉にできないまま、
それでも、「教室」という盤面の中で、
自分の役割の形を探り始めていた。




